2004年12月31日 (金) -ゴーシュ御殿の忘年会

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 5時30分起床。蚊にかまれて痒くて眼がさめた。やっと指のと届くDの笛を練習。指は痛いし、なかなかきちんとした音が出ないのでいらいらする。

 一緒にコーヒーを飲んでいるとドゥルバがいった。

「今日はよ、アヤミのレッスン、こごですんなよ」

「んだがあ。今日は大晦日だべ。そすたら、トモコも呼んで忘年会すっか。いいべ」

「んだな。そうすんべが。んじゃ、ヒロス、二人ばこごさしぇできてけろ」

 10時にゴーシュ御殿から歩いてフェリー乗り場へ。フェリーに乗りこんだがなかなか動かない。がらがらだったので客待ちをしていたのだ。

 11時にグルクルへ着いた。すでにハリジーや生徒たちが来ていた。

●プリヤーとスーチーのレッスン

 ハリジーがインド人姉妹、プリヤーとスーチーのアドバイスをしていた。95年にハリジーがプロデュースしたシヴァージー・パークのコンサートで演奏したのを覚えている。この姉妹はオランダのロッテルダム音楽院に留学し、そこでハリジーに習っていた。95年当時はまだ10代後半のかわいらしい少女たちだった。今はぐっと大人びて自信に満ちた表情になっていた。とくに結婚して子どももいるという姉、プリヤーのバーンスリーは進歩していた。わたしが座っていた場所からは、ハリジーをじっと見つめるプリアーの横顔だけが見えた。ミニアチュール絵画で描かれているようなくっきりとした横顔が美しい。

 姉妹が練習していたのはラーガ・バーゲーシュリー。ガット部分のメロディー変奏をハリジーからチェックを受けていた。タブラー・マシーンの機械音がすっとぼけて聞こえる。二人とも技術的に相当高いレベルになっていた。ハリジーは、彼らの流れるようなメロディーをじっと眼をつぶって聞き、ときおり「そごはよ、こげに展開した方がんまぐ聞こえんべ」と吹いてみせた。それを姉妹は苦もなくなぞる。ハリジーは、その様子をじっと見守るわれわれ「一般」の生徒たちがまるでそこに存在いないかのよう姉妹に集中していた。この姉妹、とくにプリヤーは、ラーケーシュ、ルーパクに次ぐ弟子のホープになっていくかも知れない。後でアニーシュに聞くと、彼らはアフマダーバードの音楽祭でとてもいい演奏をしたということだ。この日の練習はその音楽祭のためのものだったのだろう。

 姉妹が帰った12時すぎにわれわれのレッスンが始まった。

 ラーガはヤマン。ハリジーは、アーラープでは一つ一つの音をテーマとしてどう展開していくかを細かく説明した。

「まず、サだ。そんで、こげな風に低いニ、ダは軽めにすっこで」

「下のパまできたら、まだサさ戻んべ。それがら軽ぐレに移行すてガだ」

「ガは、ヤマンでは大事な音だ。どげな旋律ができるが、でぎるだけ探ってみろ。こげな風に」

「マはよ、レよりも大事だげど、ガやパの経過音だべ。で、いったんパさ行ったらよ、サさもどっこで」

「上のダも軽ぐ触ってニさ行ぐ。ニが終わったらよ、まだいったん下のサさ戻ってモーハラーだ。そっからアンタラーになって、上のサに向がうなよ」

 分かりやすい解説だった。かつてハリジーの自宅に通って修行していたときもよくこんな風に解説していたのを思い出した。

 ジョールは、雨季のラーガ、シュッド・サーラングだった。このラーガは、使用音は多くはないが動きは複雑だ。

 レッスンは2時前に終了した。

●フランソワーズ

India04 この日のレッスンに、フランソワーズが来ていた。彼女と会うのは6年ぶりだ。背中の上がわずかに曲がりちょこんと首がついている感じで、小柄な体がいっそう縮まって見えた。年齢は40代後半だろうか。額にかかる焦げ茶色の髪の下に大きなサングラス。黒い半袖のシャツに真っ赤なマフラーがなかなかに洒落ている。レッスン中、後ろに座っていた彼女の、やや震える息継ぎの音が気になった。あまりいい健康状態とはいえない。

「イゴーシー(ヒロシ)、アウ・アーグ・ユー(ハウ・アー・ユー)」

 喉の奥から押し出すRの強い発音、語頭のHを発音しないフランス語訛の英語が懐かしい。レッスンが終わった後、彼女がわたしに近づいてきた。互いの頬に唇をちっょと触れて軽く抱き合うフランス風のハグ。強く抱くと折れそうな感じだ。

 彼女と最初に会ったのは多分、93年だったと思う。当時はムンバイ中心部のプラバーデーヴィーにアパートを借りて娘のマドゥーと住んでいた。そのころですでに彼女のインド生活は12年目くらいだといっていた。あれ以来11年経っているわけだから、彼女は20年以上もインドで暮らしていることになる。そのとき彼女がわたしに語ったことによれば、最初バナーラスにきてアラーウッディーン・カーンの弟子のインド人サロード奏者に会い、インド音楽を始めた。その男とビハールの村で3年住んだ。マドゥーの父親だ。その後、バーンスリーを習いたくてアラーハーバードのボーラーナートに弟子入りし5年ほどいた。うろ覚えだが、インド人の恋人つまりマドゥーの父親とは死別した。ボーラーナートに飽き足らなくなった彼女は、ムンバイのハリジーに弟子入りした。生活費は、ときどきパリに戻ってバーンスリーを教えたり、楽器を売ったり、母親からの援助でなんとかしているといっていた。わたしは彼女の母親と95年に会っている。

「アパートば買ってそごで住んでるって聞いだげど」

「んだ。マヒームだ。いいどごだよ。一度遊びにきてけろ」

「んだが。んじゃあ、ずうっとハリジーのレッスンば受けでだながす。病気したって聞いだげど」

「いちおうな。んでも、オレはおなごだがら、ハリジーとはちょっと距離ば置ぐようにしてんなよす。ハリジーのおなごの噂はいっぱい聞いでるすよ。病気、ああ、んだす。二三年は具合が悪くてよ。今でも本調子じゃねえなよす」

「マドゥーはどげすてんなや」

「サロードをやってだげど、イギリスのプリマスで環境学ば勉強すてる」

 トモコによれば、フランソワーズのいう「病気」とは麻薬中毒とのことだった。今はある程度回復はしたが、一時はかなりひどかったらしい。以来、彼女の気分は安定せず、以前ほどレッスンにも来なくなった。滅多に来なくなったきっかけは、タブラーと合わせるレッスンのとき以来だという。ハリジーが、彼女の演奏をちょっと聞いただけで次の生徒に指名したのだ。

 ハリジーのレッスンはほとんどアーラープが中心だが、ときどきタブラー奏者を呼んでガットのやり方を教える。生徒たち一人一人の短い演奏を聴いてアドバイスするのだ。すでにタブラーとの合奏に慣れている生徒の演奏のときは、じっと聞いて、

「ベーリー・グッド」

 などといって長めに演奏させる。リズムが取れなかったり、展開に混乱がある場合は、

「いいがあ。どごがサムがちゃんと聞げず。それど、最初っがら大っきく展開すんな。少すずつだ」

 と、生徒の演奏を中断し次の生徒を指名する。大勢の生徒たちがじっと見守る中で一人で吹くという機会はこのタブラーとの合奏練習のときだけなので、自信のない生徒たちは緊張する。ハリジーの元で長年修行し、ときどき小さなコンサートもやっていたフランソワーズにすれば、ハリジーに初心者扱いされたと思ってプライドが傷つけられたのだろう。

インド音楽の修行を続けるとは

 彼女は、ムンバイでヒンドゥスターニー音楽を習う外国人の間で伝説的存在といっていい。インドに家を購入してまで修行を続けるという外国人はほとんどいないからだ。われわれのような外国人修行者の大半は、自国で渡航滞在費用を作り、何ヶ月かムンバイに滞在してグルの元に通う。このようにして通ってくる者の中には、一時的な熱病から覚めて「卒業」したり、自国での生活に忙しく途中で修行をあきらめる。あるいは経済的に渡印が難しくなる者もいる。こうした理由から、生徒たちの新陳代謝はかなりあるのだ。現に、6年ぶりにハリジーのレッスンを受けに来たわたしが見知った生徒は、フランソワーズを除いて一人もいなかった。生徒の新陳代謝はインド人の生徒たちも同様だ。しかし、彼らの中には演奏家としてある程度独り立ちし、独自の道を歩み始める者もいる。彼らは、グルのアドバイスを受けるために毎日通って来ることはしなくなる。それだけに、フランソワーズのような生徒は珍しいのだ。

 フランソワーズの例を考えると、ふと思ってしまう。とくにわれわれのような外国人がヒンドゥスターニー音楽を学ぶというのはどういうことなのか。どこにその魅力があるのか。ヒンドゥスターニー音楽をある程度演奏できるようになるには、かなり長期間の集中した訓練が必要だ。しかも、訓練を始めるのは早ければ早いほどいい。インド人の場合は、ルーパクやラーケーシュのように子どものときから練習しているのがほとんどだが、いっぽうわれわれ外国人はある程度の年齢になってから始める例が多い。わたし自身、まともに練習を始めたののは32歳になってからだ。こうした修行開始年齢の遅さはインド人に比べるとかなりのハンディキャップである。また、いくら長期間修行したからといってプロの音楽家として約束されるわけではない。長期間の修行を経なければ、本人に音楽的才能があるかどうか分からないという悩ましさもある。長期間訓練し続けること自体が才能だという考えもあるが、訓練にかけた時間やエネルギーと社会的な見返りはおおむね比例しない。仮に演奏技術が一定レベルになって演奏活動を初めても、自国に戻れば「特殊」な音楽の演奏家なだけに、この音楽だけで「食って」いけるようになるのは容易ではない。また、音楽的アイデンティティーで悩むこともある。日本の音楽文化もまともに知らない日本人がインドの音楽を習って演奏活動をするというのはどういう意味があるのか、などと現に「食えない」わたしは今でも考える。しかも、この音楽は楽譜に書かれた作品というものがなく即興性の要素が強い。西洋古典音楽をや他のジャンルの音楽のように、作曲されたメロディーを何度も反復すれば演奏できるというものではない。演奏家個人の音楽的想像力、創造力にゆだねられる側面が他のジャンルよりもずっと大きいのだ。グルが教えるのは楽曲ではなく、楽曲の即興的創造法である。一人一人の生徒たちがどうやって自力でメロディーを作り、演奏全体を計画していくか、を教えるのだ。それだけに、すでに成熟した演奏家になっていてもおかしくないほど長期間修行を続けているフランソワーズにとって、ヒンドゥスターニー音楽はどういう意味をもつのかと考えてしまうのだ。彼女を見ていると、ヒンドゥスターニー音楽というのがある種の宗教的修行対象のように思えてくる。音イコール宇宙である、という「ナーダ・ブラフマー」という言葉もあるから、宗教に近いのも事実だろう。あるいは、一度とりこになったら止めるのが難しい肉体的禁断症状のない麻薬。いずれにせよ、世界には、このインドの音楽にどうしようもなく惹かれてしまう人々がいる。わたしもその一人だ。

●みんなでランチ

 レッスンの後、大人しそうなオーストリア人女性のレナータ、眼鏡薄髪青年フランス人のヤン、ギョーム、トモコ、フランソワーズと近くのレストランへ行った。椅子、テーブルも清潔でエアコンのあるレストランだった。われわれが席についてもなかなか注文をとりにこなかった。そのうちフランソワーズがタバコを吸い出して店員にとがめられた。

「タバコのねえ人生なんて。んだべ、イゴス」

 彼女はわたしに向かって舌を出してこういい、タバコを吸い続けた。

 パニール・ティッカーがなかなかにおいしかった。わたしの注文した北京麺もまあまあ。フランソワーズは、ダイエット中だからと料理はとらず、砂糖のたっぷり入ったオレンジジュースを2杯注文した。痩せているといってもいい彼女がダイエットというのも変だが、砂糖入りオレンジジュース2杯というのも変だ。

 注文を取りにくるのも、注文してから食べ物がくるのも、食べ終わってからの支払いもいちいち時間のかかるレストランだった。レストランを出たのは3時半ころだった。

 みんなと別れてトモコのアパートへ行った。彼女がハルシュ・ヴァルダーンに特注して作らせたというDのバーンスリーを見せてもらった。とてもバランスの取れた吹きやすいバーンスリーだった。

●日本人女性二人とゴーシュ御殿で忘年会

 ほどなくアパートを出て、アヤミと合流。アヤミは、トモコの紹介でジュフに移り住んできていた。アヤミのアパートは、アミターブ・バッチャン邸の近くだった。そのアパートは実はトモコが不動産屋に紹介されたものだったが、彼女が今のアパートに移り住んだため空き家状態だった。そこでトモコは、不動産屋の仲介を経ずに直に大家と交渉し、アヤミに紹介したのだった。このやり方はあとで不動産屋との摩擦につながるのだが、アヤミ自身は不動産屋に法外な仲介料を支払うことなく部屋を確保できたのだった。

India04 オートリキシャ3人乗りでまずワルソーワーのフェリー乗り場へ。フェリー乗り場へ初めて来た二人は、その混雑した町並みや強烈な魚の臭いにびっくりしていた。

 対岸の船着き場からカサ・マルベッラまで歩いた。カサ・マルベッラの大きな鉄扉を門衛に開けてもらうと、二人とも別世界だと驚いた。ドゥルバとロザリンはまだ家に着いていないはずなので、二人を構内の集会所や芝生の広がる庭に囲まれた工事中のスイミング・プールなどを案内した。まるでスペインの別荘地のようなたたずまいに二人はいちいち感嘆の声を上げる。集会所にあった小さなコンビニでコーヒーとポテトチップスを購入した。この店はカサ・マルベッラの住民のための日用品を扱っている。清潔な店内、整然とした商品配置はまさにコンビニだ。われわれのイメージするコンビニと比べると貧相だが、インドにこの種の店があること自体珍しい。

 家主がまだ帰ってきていなかったので、庭に出てしばらく待った。大きな茶色の犬がだらしなく寝そべっていた。庭からはすぐ隣にあるスイミング・プールが見えた。「嘘みたい」と二人はまたまた驚く。

 6時ちょうどに彼らが帰ってきた。

 しばらく5人でおしゃべりをした後、ドゥルバはアヤミのレッスンを始めた。ラーガ・ヤマンの練習パターンやスケールの動き方の可能性などを丁寧に教える。ついで、ラーガ・ケーダール。このラーガはほとんど声楽だけで演奏されるもので、動きがとても複雑だ。レッスンの様子を見ていたトモコは、

「わたし、バーンスリーやめてサーラーンギー習おうかなあ。サーランギーの音好きなんよわたし」

 とアヤミにいう。

「トモちゃん、またそんなこという。トモちゃんは他人が習っているのを見るとそれを習いたがるんだよね。バナーラスでもそうだったでしょう」

「そうやねん。なあんか、わたしそうしたくなるんよね」

 1時間ほどでレッスンを終えたドゥルバが、例によって出前屋に電話した。今日は特別だからと、タンドーリー・チキンとフライド・ヌードルを注文した。3人の日本人男女、ベルギー人のロザリンそしてインド人のドゥルバが集うささやかな年越しパーティーだ。われわれは、ほどなくやってきた食べ物とロザリンの用意したインド製シャンペンで10時ころまで歓談した。

India04
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忘年会のごちそう

アヤミとトモコ
ロザリン
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 二人をフェリーまで送るために全員車で乗り場へ行った。フェリーに乗る二人を見送って帰宅ししばらくだらだらとおしゃべり。上隣の家から猛烈な音量の音楽が鳴り響いてきた。隣家はパンジャーブの流行歌手の別荘だという。バルコニーから隣家を見下ろすと、家全体を豆電球で飾りつけた大きなパーティーの最中だった。着飾ったインド人男女が爆音に近い音楽の中で談笑していた。ちょうど12時になったとき、対岸の方からドーンという音がして花火が上がった。2004年が終わり、2005年になった瞬間だった。12時半就寝。

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