2005年1月1日 (土) -なんでもないお正月
日記もくじ 前の日◀ ▶次の日7時起床。今日はラグーのところに一泊し明日の早朝にプネーへ行くことにしたので、荷造りの準備に手間取った。ロザリンがいってくれたので彼女に洗濯物を渡した。彼女は5日に帰国する。彼女が帰国すればここゴーシュ御殿はしばらく閉鎖する予定だった。つまり、ここに居候できるのも4日までということになる。
「オレよ、明日がらプネーさ行ぐごどにしたなよす。ロザリンが帰るんだったら4日までには戻ってこねどね」
とドゥルバにいった。
「んだなす。その後はここはだれもいなくなるなよす。おめさえ気にすんねばここさずっといでもらってもいいげんどな」
ドゥルバが答えた。
「それはまずいべ。オレもどこかに部屋を探さないとなあ」
こうわたしがいうと、
「問題ねえす。なんとかなっぺ」とドゥルバが気楽にいった。
11時ちょうどにグルクルに着いた。途中の通りでA Happy New Yearという看板を一二枚見かけただけで、街にとくにお正月という雰囲気はない。1月1日はインドではそう特別な日ではないのだ。
昨日に続いてフランソワーズも来ていた。生徒は全員で15人ほどだった。
ハリジーが入ってきて全員でハッピー・ニュー・イヤーの合唱になった。今日はプレスのばっちり効いた灰茶色のローシルクのクルターを着ていた。折り目がナイフのようだ。
今日のレッスンはラーガ・バーゲーシュリー。ハリジーは、アーラープ、ジョール、ジャーラーをたっぷり2時間披露した。
レッスン後の雑談で、わたしの横に並んで座っていたインド人青年3人が、ここに住み込む生徒だということが分かった。3人とも20代前半だ。小柄だが細くてしなやかな体、君たち外国人生徒たちとは違うもんね光線を放つ青年の名前は、パールト・サルカール。パールトよりも背が高く無口、肌色が最も濃い精悍な感じの青年は、サミール・ラーオと名乗った。彼のバーンスリーは音程が最も正確だった。もう一人は、ヴィシャール・ヴァルダーン。他の二人よりも落ち着いてやさしそうな眼をしていた。聞けばヴィシャールは、なんとデリーのバーンスリー・メーカー、ハルシュ・ヴァルダーンの息子だった。ということは、ハリジーの甥のラーケーシュと結婚したのは彼の姉だ。
1時すぎに終了。明日はハリジーがアフマダーバードでコンサートがあるため、次のレッスンは3日ということになった。
ハリジーと雑談している間に、フランソワーズらガイジン生徒たちはいなくなっていた。一緒にランチでもと思っていたのだが。外でわたしを待っていたトモコと、ジュフのレストラン「シヴ・サーガル」へ行った。頼んだピザのチーズが溶けてなく不味い。
食後、レストランの隣にあったバリスタ・コーヒーでなかなかにうまいエスプレッソを飲みつつ、明石の配偶者の実家に電話した。実家には、配偶者、両親、駒井家全員が集まって新年宴会中だった。駒井家とは、配偶者の妹である恭子さん、夫の幸雄さん、亜矢子、仁史、和彬の甥姪たちだ。一人ずつ全員と話した。彼らと一緒に昼過ぎからだらだらと飲み食いするのが長年の慣行だが、今年は久しぶりに声だけの参加になった。
歩いてSMBへ行った。建物の入り口にシタールケースを積んだ車があった。ナヤンが来ているのかもしれない。2階に上がってピライ博士と久しぶりに会い雑談した。広く薄暗い部屋、乱雑に積み上げられた資料類や吸い殻いっぱいの灰皿の乗った机、ビニールひもを編んだ鉄パイプ椅子、本棚など、初めてお会いした92年以来ほとんど変っていない。ピライ博士の外観もあまり変化はない。白いワイシャツに折り目の入った焦げ茶のズボン、ちょっと白髪の混じった短い髪、ケーララ人らしい濃い肌色、怒ったことなど一度もないような柔和でどことなく諦観のある表情だ。
ピライ博士は、もともと社会学者である。社会学関係専門書の著書も何冊か出している。その彼が「インド音楽百科事典」の編集に関わるようになったのは、サンギート・マハーバーラティー(SMB)の創設者、故ニキル・ゴーシュに乞われて88年に編集主幹として加わったからだった。創設者のアイデアによって「インド音楽百科事典」プロジェクトが始まったのは1961年。すでに40年以上前のことだ。当初は創設者ニキル・ゴーシュの個人的計画だった。ドゥルバも父の助手として最初は手伝っていた。後にSMB法人の公的なプロジェクトになった。しかし現在では創設者が亡くなったこともあり停滞していた。わたしはプロジェクトの資金集めコンサートを何度か見に行ったことがある。一度などは、バナーラス時代にあこがれた女優、シャバーナー・アズミーを会場で見かけてドキドキしたことがあった。しかし、こうした資金集めに批判的な知り合いは何人かいた。百科事典支援と銘打ったコンサートや募金活動は何年も続いていたが、編纂が実際に進捗しているのかどうかだれも分からないからだ。集められた資金は創設者のゴーシュ家によって私的に流用されているという噂もあった。現実はどうなっているか分からない。編纂責任者であるピライ博士は、原稿は半分以上できていてすでにオックスフォード大学出版に送付したが、資金も人員も不足していていつ出版されるか分からないといっていた。
「編纂は着実に進んでいんなよす。ただ、オレの給料は相変わらずむっちゃ安いす、増員どが資料購入の要求すてもながなが聞ぎ入れでもらわんにぇなよ」
こういうピライ博士の口ぶりからすれば、学校管理者には相当不満があるようだった。とくにドゥルバが学校運営から手を引いてから状況は悪くなったという。
「この学校はよ、創設者こそゴーシュ家だげど今ではパブリックなもんだべ。そろそろゴーシュ家を離れでもいいんだげどねえ。ナヤンだって演奏家だがらだれがに任せだらいいんだ。ドゥルバは完全に切れですまったす、昔一緒に住んでだ母親と妹のトゥリカーはナヤンと喧嘩すて別のアパートにいるって聞いだ。どうなって行ぐだべがねえ、この学校もゴーシュ家も」
ピライ博士は、あきらめ顔でしみじみとこういった。
「表さ、シタールケース積んだ車見だけど、ナヤンはこごさきてんながっす」
「来てるはずだな。さっきだ見だがら」
「ちょっと挨拶してくっか」
「ん、向かいの事務所見でみろ」
かつて父親が座っていた事務所を覗いてみたがだれもいなかった。通りがかった職員に尋ねると、さっき出て行ったという。
ピライ博士の事務所に戻った。
「ナヤンはもう帰ったみでだ。一度挨拶しておぎだがったげんどなす。すかだねえなす」
とピライ博士にいった。
「ま、いづでもこごさ来たら会えっから。とごろでよ、おめの住むどごよ、オレの持ってるボーリーワリーのアパートでよがったらだったらいづでもいってけろ。今は空いでっから」
彼には日本からムンバイの滞在先の相談をしていた。彼は親切にもあれこれと考えてくれていたのだった。
「んだなっす。今のどごろドゥルバのどごさ居候すてっけど、ロザリンが4日に帰国すっから考えねえどなす。んでも、ボーリーワリーがらグルクルまで電車で通うのは気が重いんだっす。電車の混雑はひどくなってきたべした」
「たしかにな。まあ、その気になったらいってけろ」
雑談をしているうちに5時近くなっていた。ここからボーリーワリーに行くことになっていたから、そろそろ動き出さなければラッシュに引っかかる。ラグーには7時半ころ来いといわれていた。
「んじゃあ、ぼつぼつボーリーワリーさ行ぐっす。今だどまだ電車は混んでねえべ」
「ぎりぎりだな。あっ、んだ、バスで行ったらどうだべ。こごでだらすぐバス停だす。203番に乗っつどいい」
というわけで、電車ではなくバスでボーリーワリーまで行くことにした。
やってきたのは2階建てバスだった。出入り口が猛烈に混んでいる。わずかな隙間に体を突っ込んでなんとか乗り込んだ。わたしの後ろの女性が何か叫んでわたしをじっと睨んだ。彼女の足を踏みつけてしまったらしい。だれかの足を踏みつけた感触がたしかにあった。友人らしい女性がヒンディー語で、
「こいづはガイズンだがら、意味分がんねべ」
と取りなしていた。あやまろうと後ろを振り向こうにも身動きできない。バス代は10ルピー(=25円)。アンデーリーを過ぎたあたりから客は少なくなり2階の最前列に座ることができた。2階建てバスの2階から街の様子を見下ろすのは気持ちがよい。
バスはものすごい渋滞で遅々としか進まなかった。幹線道路はオートリキシャやトラック、乗用車の収容力をはるかに越えている。排気ガスと強烈なクラクション音をまき散らしながらミリ単位でしか動かない感じだ。その車の隙間を大量の歩行者が埋め、それぞれ勝手な方向を目指して泳ぐように動く。進行方向ははるか先まで同じような状況だったが、交差点で直行する道路を見ても同じだった。車と人の増加スピードが都市の許容量をはるかに越えている。
電車だと40分くらいで着くところを約100分かかってボーリーワリー駅に到着した。ジュフからボーリーワリーまでは10数キロの距離である。歩くのとそう変らない速度だったことになる。
駅前の混雑するバザールで、サントラー(8個40ルピー=100円)、ぶどう(1キロ60ルピー=150円)、パイナップル(20ルピー=50円)を手土産に購入し、7時すぎにラグーの家に着いた。ラグーはすでに家にいた。アボーリーに頼んでパイナップルを切ってもらった。のどが乾いていたのだ。パイナップルを見たカークーがいった。
「あれーっ、パイナップルがす。珍すいこど」
「んだがっす。でもどごでも売ってぺした」
「家ではだれも食わねえなよ」
結局、わたしだけが持参したパイナップルを全部食べた。
娘のルルがカタック・ダンスの練習を始めた。ラグーがタブラーで伴奏した。ルルはまだ自信がないらしく、ときどき動きを止めてべそをかいた。それをラグーがからかう。その様子をカークーとアボーリーが笑いながら眺める。ルルが練習に飽きると、ラグーはタブラーの練習を始めた。
「最近、仕事が忙すくてよ、全然、練習できねがったのよ。明日は、スジャイどがおめど演奏すっからちょっとやっておがねえどねす」
こういいつつ、猛烈なスピードでタブラーを叩いた。ラグーの演奏を聴くのは久しぶりだった。細かな表現ではじゃっかんクリアーさが足りないとはいえ、かなりの腕前だった。
練習の途中、同じラグーと名乗る涼しげな眼の青年が訪ねてきた。16日に予定されているマルハールジーのメモリアルコンサートの打ち合わせだった。
アボーリーが、キャベツのサブジー、ダール、ご飯の簡単な夕食を用意してくれたのでみなで食べた。実にシンプルな家庭料理だ。クルカルニー家の食事は完全なベジタリアンで、来客があっても特別なことはしない。家族が普通に食べているものを出してくれる。一般にインドの家庭で食事に呼ばれる場合は、どこでもこんな感じだ。日本のように、ごちそう攻めにしないのでかえって気が楽だ。
というラグーに促され、お借りした毛布、上かけ、枕を抱きかかえて、10時ころ下の事務所へ移動した。事務所の前の中庭にテントがはられ、大勢の人間が飲み食いしていた。結婚式のパーティーらしかった。
先日ここに泊まったとき蚊に悩まされたので持参した蚊取り線香を焚き、11時ころベッドに横になった。ところが途中でやはり猛烈な蚊の攻撃にあった。蚊取りマット、線香をがんがん焚いているのに彼らのエネルギーは衰えない。この辺の蚊は、人間の作った毒にも耐えられるよう遺伝子を組み換えたようだ。蚊取り線香の煙にむせつつ、アボーリーに借りた蚊よけのオドモスを顔と腕に塗りつけてからチャーダルを頭からかぶった。チャーダル越しにも蚊のいやらしい羽音が聞こえてきた。