2005年1月2日 (日) -プネーへ

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 悶々としているうちに携帯の目覚ましが鳴った。5時だった。2階に行くと、すでにラグーは起きていた。

 ラグーは、6時出発だと宣言していたが、なんとなくぐずぐずしているうちに7時になってしまった。まっさらのパンジャービー・ドレスに薄化粧をしたアボーリーが助手席、わたしが後ろに座って出発。ラグーの車は、インド国産中型車ターターのIndica。真っ黒な車体のコンパクトカーだ。外観も車内のデザインもインド製と感じさせない今風の車だ。乗り心地も悪くない。India05

●早朝、ムンバイを出発

 まだ薄暗く交通量も少ない街を走った。街道筋には大型の新しい高層ビルが建ち並んでいた。工事中の奇抜なデザインの建物もあった。ムンバイ中心部は古い中層階の建物がほとんどだが、拡大しつつある郊外にはこのような新しいビルがどんどん建っている、とラグーが説明した。マクドナルドの大きなMも見えた。幅広いアスファルトの路面は滑らかだ。

 チェーンブール付近でいったん停車した。ラグーが、ある男にタブラーセットを渡すためだった。近々アブダビに戻るその男を介して、向こうにいる知り合いに渡してもらうということだ。携帯電話で連絡を取り合い、難なくその男を見つけて楽器を渡すことができた。

 

●チェーンブール

 チェーンブールという地名で、ふとハリジーのコンサートに同行したときのことを思い出した。10年くらい前の話だ。

 アヴィシャー・クルカルニーと一緒にハリジーの運転する車でチェーンブールのコンサート会場に着いたときだった。アヴィシャーというのはシタールを演奏する小柄な女性。よくハリジーの自宅に出入りし、コンサートのときにはタンブーラーを演奏していた。その彼女が会場入り口の大きな横断幕を指差し、自分の車で同時に着いたタブラー奏者、ファザル・クレーシーとハリジーに大きな声でいった。

「あれれーっ、グルジーの名前の横さザーキル・フセインて書がちぇっぺ」

 ハリジーがそれを見て笑いながら応えた。

「アヴィシャー、よぐ見ろ。その後さ、『の弟、ファザル・クレシー』ってちちゃこぐ書いであんべ。なあ、ファザル」

 顔の一部を引きつらせながらファザルがいった。引きつっているのは彼の感情のせいではなく、そういう顔なのである。

「なあに、毎度のごどだがら慣れだよ」

「それにしてもこりゃひどいなあ。別に兄貴の名前ば出さなくたって、ファザルは優秀なタブラー奏者なのになあ」とハリジー。

「すかだねえす。なんだかんだいって兄貴は有名だがらよす」

 ファザルはあきらめ顔でこういった。

 チェーンブールでもう一つ思い出したことがある。93年の冬にムンバイ港沖合のエレファンタ島へ船で行ったときのことだ。同行していたのは住金物産ムンバイ支店長の池田哲朗さん。その日は島の特設ステージで、サロードのアムジャド・アリー・カーンとバラタナーティアムのリーラ・サムソンの公演があった。船の上からかなり遠方の岸に円筒形のドームが二つ並んでいるのが見えた。隣のインド人の男がいった。

「あそごはチェーンブールだっす」

「んだが。あの丸いのはなんだべ。かなり大っきいみでだげんど」

「なにがの工場でねえが」

 とその男がいった。それを聞いた池田さんが、

「あれはね、原発や。ムンバイは、あの原発のおがげで停電せえへんいうのんを売りしてるんよ」

「バナーラス時代によく事故のニュースでチェーンブールという名前を見ました。あれがその原発だったんですね。それにしても近いとこにあるんですね。大事故でも起きたららムンバイ全滅でしょうね。反対運動なんかは起きないですかね」

「ここら辺の人は、あれが原発だってだれも知らへんから、起きんやろな」

 

●インドの高速道路

 そのチェーンブールを過ぎて間もなく有料の高速道路に入った。幅の広い中央分離帯を挟んだ片側2車線の高速道路にはちょっと驚いた。インドにもついにこのような自動車専用道路ができたのか、という驚きだ。時速100キロくらいで走っているのはインド製中型車が多かったが、ニューデリー中心街でよく見かけた国民車アンバサダーは1台も見なかった。外国車も目立つ。メルセデス、BMW、アウディ、ヒュンデなどに混じってスズキをはじめ日本製の車も走っていた。トンネルは二つあった。オレンジ色の電灯、丸い天井にぶら下がる送風機。日本では見慣れたトンネル風景だが、ここはインドである。赤茶けた禿げ山の間を縫う整備された高速道路を走っていると、つい半月ほど前に見たビハールの風景が同じ国のものとはとても思えない。かつてムンバイからプネーへは、曲がりくねった山道を数時間かけて行ったものだ。ハリジーの運転する国産小型車フィアットに乗ってプネーのオショー・アーシュラムまで行ったことがある。ところが今は、この高速を使えば2時間ほどで行けるようになったのだ。すごいことだ。

 肌を剥き出しにした丘陵が間近に迫ってきたころ、それまでの緩やかな上りこう配から平坦な道に変った。デカン高原に入ったのだ。前方に抜けるような青空が広がっていた。

 プネー市街に入る手前でラグーは路肩に車を停めた。そこへ別の車がやってきて停まった。

「オレは今がら工場さ行がんなねよ。アボーリーとおめは、あの車さ乗ってスジャイのどこさ行ってでけろ。オレもあどがら行ぐがら」

 ラグーはこういってわれわれを降ろし走り去った。

 アボーリーとわたしが別の車に乗り込むと、運転席の小柄な男がいった。

「プラフッラだっす。スジャイは待ってっからよ、すぐ行ぐべ」

 46歳だというプラフッラの顔はとても特徴があった。下膨れの顔面中央に目鼻口がコンパクトにすぼまって配置されていた。広い額の上の短いカールした髪を七三に分け、鼻髭を生やしている。メタルフレーム眼鏡ごしの大きな目がくりくりとよく動き、その度に一本につながった眉が上下した。襟首がちょっとくたびれたごく普通の灰色のポロシャツに、折り目のある焦げ茶のズボンとくたびれた皮のサンダル。

 プラフッラは、ある声楽家のぼやけた音のテープをカーステレオでがんがん鳴らし、

「アミール・カーンだす。いいべえ。ちょっと音悪いげど、最高だっす」

 といいつつテープと一緒に口ずさんだ。

●プネー市街へ

India05 低い建物と緑の多い市街に入った。ムンバイの密集した都市風景とはかなり違う。生け垣の多い住宅地を抜け、スジャイの住むマンションに着いた。4階建ての白い壁の建物だった。新しそうな、なかなかに洒落た外観だ。1階はすべて駐車場になっていた。

India05 2階の大きな玄関ドアをノックすると、茶の長髪、無精髭の大柄な西洋人青年が出てきてわれわれを招き入れた。青年はアレックスという名のベルギー人だった。アイヤンガール・ヨーガ教室に通っているという。玄関ドアを入るとすぐ右手に、大きなガラスのダイニングテーブルと椅子が置かれていた。その右奥がかなり広いキッチン。キッチンとダイニングテーブルは低い透明ガラスで仕切られていた。そのキッチンでは西洋人のすらっとした女性が料理をしていた。彼女はスジャイのスイス人の友達というか恋人で、ダリスと名乗った。細面で、焦げ茶にときどき金色の混じる長い髪が胸まである。40代後半くらいか。アレックスとダリスに挨拶しているところへ、居間の奥からスジャイが顔を現した。

「おおヒロス、よぐ来たなっす。まあ、こっちさ来てけろ」India05

●スジャイ

 スジャイはこういってわれわれを居間の奥に案内した。床に敷いたゴザに出窓から光が差し込んでいる。スジャイと初めて会ったのは96年6月。尺八の土井啓輔さんのレコーディングでベルンに行ったとき、彼の住んでいた家を訪ねたのだ。そのときの印象と目の前に現れたハゲ頭の男がうまくつながらなかった。わたしの顔記憶の自信がますますぐらついた。濃い褐色の肌、頭の底辺部に短い髪を残すだけでほとんどスキンヘッドだ。薄い茶色のざっくりしたカーディーのクルターと濃い灰色の作業ズボン。下腹がプクンと膨れている。ちょっと見た感じ怖そうな印象だった。西洋社会に長く住んだ者の自信と警戒の混じった表情とでもいおうか。彼は、冬になるとスイスからここにやってきて何ヶ月か滞在するという。インドではとくにやることはなく、練習したりして過ごす。プネーから200キロほど離れたコールハープールという町の出身で、現在、51歳。わたしよりもずっと年上だと思ったが、意外に若い。スジャイのグルはマルハールジーである。

「一緒に練習すんべ」

 壁にもたれたスジャイがいった。

 眉毛つながりプラフッラが聞いた。Plafulla.JPG

「何のラーガ、すんべが」

「んだなあ、ヒロシ、何がいい」

 スジャイが聞いたのでわたしは答えた。

「まだ午前中だがら、アヒール・バイラヴでどうだっす」

「そうすんべ」

 一人ずつアーラープを吹き始めた。プラフッラのバーンスリーは音程がひどくずれていた。しかし本人にその自覚があまりないらしく、どうだ、けっこういけるだろうという目でスジャイとわたしを交互に見る。終わるとすぐに短いジョークを連発する。

 スジャイは音程も技術もしっかりしていた。ただ、音切れに繊細さがなく、速い指の動きを強調するかのように速いフレーズを吹いた。音一つ一つじっくりと積み上げて行くアーラープはあまりやらないようだった。ときどきわたしの目を見ていたので、わたしのゆっくりした動きに対抗していたのかもしれない。どこかひなびた感じの音質は、マルハールジーによく似ていた。タブラーマシンでガットも練習した。ガットに入るとスジャイは矢継ぎ早に素早い音の動きを見せ、きちんとしたティハーイーでまとめた。ヨーロッパで長年演奏活動してきている自信が垣間見えた。一通りアヒール・バイラヴを練習した後、スジャイがマルハールジーから教わったというラーガ・ナーガマニーの楽曲を吹いた。このラーガは北インドではほとんど聞いたことがない。とても不思議な雰囲気のある軽快な曲だった。

●南インド料理店でランチ

 2時すぎに、アボーリー、プラフッラ、スジャイ、わたしの4人で近くの南インド料理店でランチ。坂なりの広い通りに面した大きなレストランだった。テーブル、椅子、制服を着た若い店員も清潔だった。店の前の道路にはドイツ製高級車がずらっと駐車してあった。

「みんな、ITで儲けだ若いやろべらの車だ。こごはそういう若者が多いんだっす」

 と、わたしの視線を追っていたスジャイがいった。屋内も広かったが、われわれは天井一杯に枝葉を広げたバニアン樹の下に置かれたテーブルについた。屋内外ともテーブルはほとんどふさがっていた。わたしの注文したウタパムは安くて味もなかなかだった。これでたった25ルピー(=63円)というのは信じられない値段だ。India05

 プラフッラはアボーリーを乗せて自宅に帰ったので、わたしとスジャイはオートリキシャを拾ってアパートへ戻り、昼寝した。ダリスとアレックスはいなかった。

「毎日、3時から6時まで停電すっから、なんにもできねなよ。昼寝すかねえべ」とスジャイ。

 わたしはさっきまで練習していた居間の角で2時間くらい寝た。昨日の夜はまともに寝ていないので熟睡した。

●ホームコンサート

India05 薄暗くなったころ起き出して練習していると、奥さんと娘を連れたプラフッラが再びやってきた。ほどなくラグーとアボーリーも合流。いつの間にか戻ったダリスとアレックスも加わり、ちょっとしたホームコンサートになった。ラグーがタブラーを叩いた。演奏したのはラーガ・ブーパーリー。India05

 プラフッラは、スジャイに

「おめの音狂ってっがら気つけで吹け」

 といわれたので、練習のときよりもずっと大人しく吹いていた。プラフッラもマルハールジーの弟子だったといっていたが、現在はスジャイから教わっている。

 ちゃんとした演奏になるとさすがにスジャイの表現は多彩でしっかりしていた。ただ、常に動きが速く、ときおり単調になった。わたしの番のときスジャイはじっと目をつぶって聞き、ときおり頷いていて聴衆を見回した。

 9時すぎにホームコンサートが終わり、全員でレストランへ行くことになった。昼にあまりに混んでいて断念したシヴ・サーガルの2階席だった。ここも清潔で洒落た内装の大きなレストランだった。人気のあるレストランで、いつも満員だという。

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 隣に座ったプラフッラに

「ペーパー・マサーラー・ドーサイってどげなもんだべが」

 と聞いた。

「まあず頼んでみろ。こげなやつがくっから」

 彼は両手を広げ、つながり眉を上下させてみなを笑わせた。プラフッラはジョーク・モード全開だ。わたしも何個かとっておきのジョークを披露して喝采を浴びた。ペーパー・マサーラー・ドーサイは、長さが50センチ以上もあった。India05

「ほら、嘘でねえべ」とプラフッラがいって再びみなを笑わせた。プラフッラが全員の分の勘定を支払った。彼はそれなりに成功したビジネスマンだった。食事が終わったのは11時すぎ。

 プラフッラ一家、プラフッラの家に泊まるラグーとアボーリーと分かれ、われわれは徒歩でアパートまで戻った。帰宅して日本に電話しようと携帯電話のスイッチを入れた。圏外だった。プネーでは使えないようだ。昼寝をした場所でほどなく就寝。

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