2005年1月4日 (火) -ムンバイに帰る
7時20分起床。ラグーはすでに出かける準備をしていた。彼はこれから仕事でナーグプルまで行くという。出がけに、ラグーがいった。
「14日まで戻んねえなよ。アボーリーはこごさもう一晩泊まるみでだ。おめは今日ムンバイさ戻るんだったら、バスが便利だ。ボルボの高級バスが走ってっから。たった3時間だす、快適だよ。電車だどもっと時間かがる」
娘のアールピターとソーハンが学校へ出かけて行った。ソーハンを送り出すときにアーディティーも聾者だと気がついた。ソーハンがアーディティーの手話をじっととみていたからだ。見ると彼女の両耳には補聴器が差し込まれていた。どうりでアバイもアーディティーも静かなはずだ。
プラフッラは、父親の咳が止まらないというので病院へ出かけた。わたしとアボーリー、アーディティーとで、昨晩の残りのおかずやスージーの朝食を食べた。
日記を書いたり練習したりしているうちに12時になった。プラフッラが戻ってきた。
「おめのムンバイ行ぎのボルボ・バスば予約をしてきたがらな。3時発だっす。200ルピー(=500円)だ。4時間かがっと」
プラフッラの計算ではどんなにかかってもバス停まで40分で行けるというので、2時15分にアボーリーとともに家を出た。
ところが彼の計算はかなり狂った。彼は、バス・ターミナルのような場所をイメージして市の中心部を探したがなかなか見つからなかったのだ。街の人もみな頼りない。住所をたよりに探し当てたのは、普通のさえないビルの前だった。彼が「ここだここだ」と車を停めたとたん、くだんのボルボ・バスが停留所に着いた。あわててプラフッラの車から荷物を取り出しバスに乗った。
車内はほぼ満員だった。ボルボだけあって車内はすっきりしていて清潔だった。もちろんエアコンがぎんぎんに効いていた。横幅のたっぷりあるリクライニングシートも申し分ない。
最初は快適だった。しかし慣れてくると車内の寒さがじわじわと身にしみてきた。肩からショールをかけても震えるほどだ。運転席を見ると、エアコン温度設定は最低になっていた。隣のサリーを着た中年女性は、カーディガンを取り出して膝にかけていた。他の乗客も防寒対策をとってじっと座っているが、運転手に不平をいう者はだれもいない。プネー市街を抜けたところでトイレ休憩があった。わたしは、運転手や乗務員アンチャンの目を盗んで温度調性つまみを最低から半分くらい戻した。それで車内はかなり過ごしやすくなった。ところが、休憩を終えた運転手が席に着くや、チラッとエアコンつまみを見て頭をかしげたと思ったら、ぐいっとまた最低に戻してしまった。なにせボルボ製なので反応が素早く、たちまち元の極寒状況に戻った。ちょっと太った運転手をしてそこまで最低温にこだわるのは何故か。乗客席に比べて運転席が耐えられないほど暑い、運転手が並外れて暑がりである、最先端の機能は最大限に生かすのがサービスであり乗客もそれを望んでいると思いこんでいる、せっかくエアコン付きの豪華バスに乗るのだから寒ければ寒いほど値打ちがあると乗客が思いこんでいる、などが考えられる。どれが正しいのか。値段の高い長距離列車のエアコン車も走る冷蔵庫のようなものだから、この暑い国ではエアコンの寒さが富の象徴なのだろう。
車内のテレビでヒンディー映画が上映された。タイトルは「ムサーフィル」。マサーラー・ムービーらしからぬ凝った映像と音楽の犯罪映画だった。メインストーリーとサイドストーリーのバランスがむちゃくちゃでついていけない。それでも、歌と踊りのシーンが脈絡なく挿入されているところは、いかにもヒンディー映画だった。
高速道路を快調に飛ばしていたボルボ・バスは、ムンバイの街に入ったとたんのろのろ運転になった。ワーシー、チェンブール、サーヤンを経て中心部のダーダルに近づいたころは歩行者よりもゆっくりになった。ダーダル駅で数人の乗客が降り、バーンドラ、サンタクルス、ヴィレー・パールレーと停車して乗客を降ろしていく。わたしはアンデーリーで降車した。時計を見ると7時前だった。体がすっかり冷え込んでいたので、ドアから外に踏み出したときに襲ってきた熱気は強烈だった。
すぐにオートリキシャを拾ったが、ワルソーワーのフェリー乗り場まで1時間以上かかった。小回りのきくオートリキシャでさえ身動きが取れないほどものすごい渋滞だった。リキシャは半オープンカーなので排気ガスをまともに浴びることになった。頭は朦朧としてくるし、喉も痛くなった。フェリー乗り場に着いたのは8時前。料金は160ルピー(=400円)。混んでなければ20ルピー(50円)くらいの値段である。
フェリー降り場からは普段は歩くところだが、心身ともによれよれ状態なので、ゴーシュ御殿まで初めてオートリキシャで帰った。料金25ルピー(=63円)。
わたしが帰ったとき、ドゥルバとロザリンは居間の隅でなにか深刻そうに話し合っていた。
「オレのカアチャンの具合が悪ぐて医者さ行ってきたなよ。そんで病院がら戻ってきたら今度は教え子の一人がよ脳のガンで深刻だっつう電話もらってなあ。見舞いに行がんにぇどね」
「あらら、そりゃあ大変だなす。カアチャンはどうだったす」
「まあ、入院するほどでもねえみでだがらえがったげとなす。教え子の方はよ、かなり深刻みでだ。脳のガンだって。バンガロールまで見舞いに行ぐがど思ってんなよす」
こう話している間、携帯電話が鳴った。すぐに彼は電話の相手と話し始めた。
それを見たロザリンは、
「んもう、いっつも電話なんだがら。信ずられねえ。おめどしゃべってだのにねえ」
といいつつ、友人用に持ちかえるのだというホメオパシーの薬を見せてくれた。
「これはよ、おめの分だ。笛吹いで指痛えっていってだべ。この丸薬ばベロの舌で溶がして飲むなよ。指の痛みがとれっぺ」
ドゥルバの電話は忙しかった。通話が終わったと思うとすぐさま誰かにダイヤルして話し始める。ゴーシュ御殿の静かな居間にはわれわれ3人しかいないのだが、ドゥルバが常にだれかと携帯で会話しているので妙な雰囲気だった。
「ヒロス、飯くうがっす。ランチ用にパーンドゥーが作った残りだげんど」
シャワーを浴びたわたしにロザリンがこう声をかけた。メーティーのサブジーとローティーを2枚食べた。わたしが食べている間も、ドゥルバはずっと電話していた。ロザリンは2階に上がってパッキングを始めた。
電話をしているドゥルバを見ていても間が持たないのでわたしも携帯を取り出して電話した。トモコに電話すると、ハリジーのレッスンは5日、6日、7日はない、明日は日本食を作ってちょっとしたパーティーするが来ないか、という。明日はロザリンが帰国するのでどうなるか分からないと答えた後、ディーパク・ラージャーに電話した。
「おめのいってだ日本人宝石店の話だけど、どうも演奏依頼はなぐなったみでだ。一回会って話した方がいいんでねえがっす」
と聞くと、
「んだなっす。明日こっつがら連絡すて確認すっから、まだ電話してみでけろ」
という答。さらにアニーシュにも電話してみた。
「おおい、アニーシュ、今、どごだ」
「ヒロスっさんが。今、ムンバイだよ。ああ、アフマダーバードでハリジーに会ったよ。二人の姉妹がハリジーの伴奏してだ。クマール・ボースがタブラーだったな。とごろで、6日の6時半から、ネルーセンターでシュバーのコンサートがあっけど、来っかす」
「必ず行ぐごで」
深夜のムンバイの家の一角で、男が二人、丸い藤のテーブルを挟んでそれぞれ携帯電話でだれかと離し続ける。携帯電話によって人間関係が密になったのか、その逆なのか。いずれにしても現代的風景ではある。
ドゥルバはまだ携帯を離さず、注文したチリ・チキン、焼きそばを食べ始めた。ドゥルバは、電話の会話を一時中断してわたしにいった。
「スワーミーも食ってけろなっす」
「いやあ、もう食えねっす」
わたしがこういうと、んだが、と頷き再び電話相手との会話に戻った。
ようやく携帯をテーブルに置いたドゥルバが、大きなゲップをしてわたしにいった。
「明日はよ、この家ば閉める準備すんなねなよ。んでえ、スワーミーはオレど一緒にモナミ・アパートさ行ぐべ。いいべ」
「おめさえよがったら、オレは問題ねえす」
「オーケー。んじゃ、そうすんべ」
こんな会話の後、彼の父親の話を聞いた。父親は死ぬまで表現の可能性の研究を止めなかったという。
「身勝手などごも相当あったけど、トウチャンはすごい人だった。いっぱい弟子がいだげど、彼自身は最後までグルでねぐ、学習の人だったなよす」
こういうドゥルバは、父親を誇りに思い深く尊敬していた。父親をこのように尊敬できるというのは素晴らしいことだ。こういう話を聞くにつけ、兄ナヤンとの不和が理解できない。まあ、わたしのような第三者には分からないさまざまな嫉妬、葛藤などが二人の間にあるのだろう。
12時半に部屋に戻りただちに就寝。