2005年1月6日 (木) -部屋探し

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●アヴィシャーから電話

 7時半起床。日記を書いていると、アヴィシャーから電話があった。実は昨日、ラグーに番号を聞いて彼女に電話したのだ。

「ハーイ、ヒローシー、きんなは悪がったなす。客が来ててちゃんと話でぎなくて。んでえ、ハリジーのコンサートは、8日土曜日、マラードのオールビック・モールでだっす。津波被災者救済コンサートだ。おめもグルジーど一緒に吹いでけろなっす」

 アヴィシャー・クルカルニーは、チェーンブールの回想のときにも登場した女性だ。彼女も古くからの知り合いである。88年にハリジーからレッスンを受け始めたころにハリジーの家で会ったのが最初だった。以来、ハリジーのムンバイやプネーのコンサートに一緒に同行したり、93年のハリジー日本・韓国公演でツアーにタンブーラー奏者として同行してもらった。モスクワ大学に留学し博士号をもつ才媛である。ロシアで開催されたインド年のときは、当時のラジーヴ・ガーンディー首相のロシア語通訳も務めたといったことがある。90年ころ結婚した夫の関係で住んでいた香港のアパートに行ったこともある。93年に来日したとき、政界に打って出て数年以内に大臣になる、などといっていたがその後どうなったのかは知らない。ラグーから、彼女が2年ほど前にムンバイに帰ってきたと聞き電話してみたのだったが、そのときは来客中で忙しかったらしく、改めて電話するからと、すぐ切られてしまった。そんなこともあって、早朝に電話してきたのだった。

「その会場はすぐ分がるながあ。マラードのどごら辺だべ」

「オールビック・モールていえばだれでも分がっこで。最近できたでっかいショッピンセンターだがらよ」

「分がった。ゴーパールクリシュナも元気たべが」

 ゴーパールクリシュナは彼女の夫の名前だ。

「元気だっす。そんどぎゴーパールも来てっがら話でぎっこで」

「政界はどうなったながす」

「あーあ、前の選挙で『女性党』ば立ち上げで立候補したげど、落ぢだ。ドゥルバさよろすぐいってけろ」

 今日はレッスンがないので、会う必要のある人に連絡をとった。

 まず、オーディオレックというレコード会社の担当者アミーシュ・マーマーニーヤーに電話した。彼の名前と電話番号は日本を出るとき教えてもらっていた。イギリスが本拠であるオーディオレックは、わたしが日本で作ったヒンドゥスターニー音楽のCDをインドでライセンス出版するという契約をした。アミーシュは、この件の担当者であるパテール氏がイギリスからムンバイにあした来るので、そのときにどこかで会おう、といった。

泊まる場所を探さなきゃ

 ついで、ディーパク・ラージャーと連絡がとれた。今日の4時にケムズ・コーナーのクロスワード書店で会うことになった。

 連絡を終えて練習していると、眠そうな目つきのドゥルバが奥から姿を現していった。

「あのお、オメのこれがらの宿泊プランなんだげんど、何があっかっす」

「えっ、いや、別に考えでねえす。オメさえ気にすながったら、ここでもいいがなど思ってだんだげど。なしてや」

「ん、ちょっと困ったごとになったのよす。実はきんな電話あってよ、明日の夜にトロントから親戚が来んなよ。しばらぐこごさ泊めでけろっていわれだなよす。んだがら、オメの明日がらの泊まるどごば探すてもらわんにぇどんまぐねえなよす」

「んだがっす。急だがらどうすたらいいが今思いつかねえげど、オレだったら大丈夫だっす」

 ついこの間までドゥルバは、わたしが、泊まる場所を探さなきゃ、というたびにノープロブレムと答えていた。このモナミ・アパートにずっと居候できると思いこんでいたので、彼のこの申し出に当惑した。とはいえ、居候にこういう状況はつきものなので仕方がない。彼にとっては、2部屋しかないこのアパートにわたしがずっといることは、何かと不自由であることも間違いない。

●近所のホテルに聞いてみた

 11時にプレス屋に預ける衣服をリュックにつめて家を出た。明日の夜、一晩だけでもとりあえずどこか宿を確保しなければ、とすぐ近くのイスコン寺院に行ってみた。この寺院には外国人信者用のかなり立派な宿泊施設がある。シングル1泊で最低1300ルピー(=3,250円)ということだったが、あいにくずっとふさがっていた。どこか近辺に安宿がないかと当てもなく歩いているうちに道に迷ってしまい、いきなり海岸に出てしまった。炎暑のなか、歩きにくい砂浜を何度も行ったり来たり通ったりしているうちに、もうちょっと早めに分かっていれば対処の仕方もあったのに、とちょっとドゥルバを恨めしく思った。しかし、彼には何から何まで甘えっぱなしであることも事実だ。インドに来てから、バナーラス以外で宿泊費を使っていない。少々高くともホテルにいてもいいかという気分になった。そこで、バザールに近いキングス・インターナショナル・ホテルで聞いてみた。部屋代は1泊2500ルピー(=6,250円)だという。2週間もいたらすごい金額になってしまう。断るとフロントの係員が聞いた。

「オメの予算はなんぼぐらだっす」

「出して1日1500というどごだな」

「オッケー、そんじゃ、2000でどうだ」

「ちょっと高えなす。近くにもっと安いホテルはねえべが」ないかと聞くと、

「1泊1300ルピーのどごあっこで。車で送ってけっから聞いでみろ」

 送迎車がレスト・イン・ホテルに連れて行ってくれた。部屋はいかにも安宿風だし、クレジットカードは使えないという。結局、そこも断った。

 そうこうしているうちに2時近くなった。ヴィラー・パールレー駅近くにホテルがあったような気がしたのでとりあえずオートリキシャで行ってみた。しかし、それらしいものはない。ふと、トモコに聞いてみようと電話してみた。

「知り合いのブローカーに頼んでみるから、ちょっと待ってて」

 しばらくしてもう一度電話すると、

「多分、なんとかなるみたい」

「それじゃあ、明日、そのブローカーに会えるように頼んでもらえない?」

「分かりました」

 ということで、ちょっと安心した。

 なんとか自力で宿探しをしようと思っていたが難しいものだ。最初からトモコに聞けばよかった。

●ムンバイ中心街へ

 電車で終点のチャーチゲイトまで行った。昼下がりのこの時間はあまり混んでいなかった。ムンバイに来て今日で丸10日だが、これまでずっと郊外にしかいなかった。中心部へ来るのは今回が初めてだった。

 チャーチゲイト駅は、巨大なターミナル駅だ。列車の発着音、アナウンス、物売り、人々の声が暗くて高い天井にぶつかりわんわんと反響していた。人が多い。数年前まではなかった地下商店街ができていた。ファーストフード、コーヒー屋、新聞雑誌屋、床屋、土産屋など小さな店が天井の低い地下空間に軒を並べていた。

 駅前に列をなしていたタクシーの1台に乗り込んだ。中心街は手軽で安いオートリキシャは乗り入れできないので、移動は徒歩かタクシーになってしまうのだ。ムンバイの中心街は、ビクトリア様式の堂々とした石造建築が建ち並んでいて、植民地時代の影響が色濃く残っている。目当てのリズムハウスまでのタクシー代は15ルピー(=33円)だった。

 リズムハウスは、ムンバイでは最も有名なレコード店だ。わたしはムンバイに来るたびにここでCDを買うことにしている。今回は、たまに神戸までバーンスリーを習いにくる下関の平岡さんのリクエストを思い出して立ち寄ろうと思ったのだった。彼にはラーケーシュ・チャウラースィヤーのフュージョンアルバムを買ってきてほしいといわれていたのだ。探したが目当てのCDはなかった。店内はフィルミー・ミュージックCDだらけで、クラシックはわずかなスペースにしか置いていなかった。ハリジーの最新版やルーパク・クルカルニー、お気に入りの声楽家、キショーリー・アモーンカルなどのCD、6,000ルピー(=15,000円)ほど購入した。ディーパクとの約束時間が迫っていたのですぐにチャーチゲイト駅に戻り、電車でグラント・ロード駅へ。昼前にトーストを2枚食べただけなので急に空腹になった。食堂へ行く時間もなかったので歩道の果物屋でリンゴを一つ買ってかじった。6ルピー(=15円)。タクシーを拾いケムズ・コーナーにあるクロスワード書店にたどり着いたのは約束時間の4時ちょうどだった。

●ディーパク・ラージャーと会う

 クロスワード書店は数階建ての古びた建物の1階にあった。表通りのごみごみした雰囲気と違い、店内はまるでロンドンかニューヨークの書店のようだ。中はかなり広い。ゆったりとした棚に並んでいるのは、カラフルな英語の書籍だった。こんな本屋はムンバイでは見たことがなかった。おそらく最近できたものだろう。店内はエアコンも適度に効き、清潔でよく整理されていた。このあたりは、マラバール・ヒルをはじめムンバイ有数の高級住宅地に近い。知的な有産階級向けとして新たに作られた書店なのだろう。

 ディーパクは哲学書コーナーにいた。彼と会うのは、96年の「インド音楽と西洋」セミナー以来だから9年ぶりだった。とはいえ、メールでずっと連絡を取り合ってきたし、彼のことがアニーシュと話題になることもあったので、それほど長く会っていないという感覚はなかった。

 秀でた額の上にわずかに残る七三に分けの薄い髪、銀縁の眼鏡、精悍で知的な表情。感情は表に出さないタイプだ。膝まである細い茶の縦縞のあるクルターを着て、高い上背をピンと伸ばして立つ姿は、学者のように見える。わたしよりも2歳年上だ。

 ディーパクはわたしを認めると、まるで昨日会ったかのようにわずかに微笑んでいった。

「ほら、そごさ喫茶店があっぺ。そこで話すんべ」

 彼が指したの中二階にある軽食喫茶コーナーだった。書店の中にこういうコーナーがあるのはインドでは新しい。満員だった。席が空くのをしばらく待った。

 テーブルにつく早々、

「腹減ってっかす」

 とディーパクが訊いた。

「かなり減ってんなよす。何か簡単なもんでも食いでえなす」

 こうわたしがいうと、ディーパクは店内を忙しく泳ぎ回る店員に声をかけた。しかし店員は、待てというだけでわれわれのところにやってこない。そのうちディーパクの携帯に電話が入った。簡単な応答の後、いった。

「カズオ・オガワの店さ5時に行ぐって約束したなよ。ここでは待だされるみでだがら、先にそごさ行ってみっぺ。店はすぐそこだす」

●カズオ・オガワの店

 カズオ・オガワの店は、クロスワード書店から坂なりに上った左手にあった。石造りの古びた中層の建物が連なる通りに、2メーターほどの高さの黒い板塀が入り口を囲んでいてかなり目立つ。外からは何を扱っている店かは分からない。板塀の入り口に黒い暖簾が下がっていた。暖簾をくぐると、枯山水を模した小さな庭があった。低い位置にある小さなショーウィンドウには、古代エジプト王の頭像の装飾品が飾られていた。

 店内にには静かに西洋クラシックが流れ、ゆったりと配置されたさまざまなデザインの装飾品が天井のスポットライトを浴びて輝いていた。背もたれのない低い椅子に座っていると、レーシュミーという若い女性が出迎えてくれた。わたしがバナーラスやデリーから何度も電話をした女性だ。ディーパクはこのレーシュミーを小さいころから知っていて、娘のようなものだ、とわたしに紹介した。彼女がこの日本人宝石デザイナーの店で開店イベントを企画していることを知ったディーパクが、同じ日本ということでわたしのことを彼女に紹介したのだった。

India05
ディーパクとレーシュミー

 1月中旬の開店イベントで演奏してほしい、というのがレーシュミーの依頼だった。しかし彼女の話によると、企画そのものがなくなったということだった。

「ちょっと待ってけろ。オーナーがに直接説明してもらった方が早いがら」

India05 と彼女が店内の奥に引っ込んだ。しばらくして、わずかに白髪の混じった短い髪をオールバックにして銀縁の眼鏡をかけたオーナーが笑顔で現れた。服装は茶のTシャツと灰緑色のチノパン。接客に慣れた明るくて自信のある表情だった。後で年齢を聞くとわたしと同い年だったが、年齢よりはずっと若く見えた。

「ここのオーナーの小川です」と自己紹介した。

 東京麻布に店がある、高窓宮妃など皇室関係者と親しくしている、宝石デザイナーとしてずっとインドに関わってきてインドは第二の故郷である、今回ムンバイにこのような店を持つようになった、宮様にも開店の催しにも来てもらうことになっていた、宮様以外にも日本からいろいろな文化人を50人ほど招く予定だった、その準備もあらかた整っていたが残念なことに大地震が起きてしまいそれどころではなくなった、レーシュミーを通してお願いしてした中川さんの話も延期させていただきたいというような話を、小川氏は丁寧で柔らかい口調で話した。

 隣に座っていたディーパクは、わたしと小川氏の日本語のやり取りを所在なげに聞いてからいった。

「ヒンドゥスターニー音楽ば勉強する外国人は多くて、相当のレベルの演奏家がいるなよす。ヒロシはそのながでもベスト3に入る演奏家だっす」

 なんともすごい紹介だ。それを聞いていたた小川氏は、わたしを見て、ほう、と頷き、

「また機会があれば、日印の文化交流のためになにかしましょう。どうぞ、ゆっくり店の中も見ていって下さい」

 といいつつ立ち上がった。レーシュミーは申し訳なさそうな顔でわれわれを送り出した。ムンバイでちょっとは収入があるかと思っていたが、期待はずれに終わった。まあ、なくてもともとだ。

 ディーパクと再びクロスワード書店に戻り遅めのランチを食べた。

 食事をしながらディーパクのことを聞いた。

●ディーパク・ラージャー

 最初に会って以来、何かとわたしを気にかけてくれるディーパクはちょっと不思議な存在だった。最初に会ったのは、96年にムンバイで催された3日間の国際セミナー「インド音楽と西洋」のときだった。このセミナーでは、日中の討論のあと、われわれ外国人に演奏の機会が与えられた。日本からはわたしとダフラー奏者のクラット・ヒロコさんが参加し演奏した。そのわれわれの演奏のあと、

「今度インドに来っときは、少なくとも3ヶ月前に知らせでけろ。おめの演奏会を作っから」

と近づいてきたのがディーパクだった。アニーシュによれば、ディーパクは外国人演奏家のコンサートを主催するのに熱心な人ということだった。98年にムンバイを訪れたとき、アメリカ人バーンスリー奏者のスティーヴ・ゴーンと、やはりアメリカ人サロード奏者デイヴィッド・トラソフのコンサートに行ったことがある。二人ともわたしの知人だったので出かけたのだが、そのコンサートの主催者がディーパクだった。そのときはちょっと立ち話をしただけだった。これまで直接ディーパクとまともにしゃべったことはなかった。それでいて、年に数回のメールのやりとりや、アニーシュという共通の知り合いがあったため、なんとなくずっとつき合ってきたような気分でいた。しかし考えてみれば、彼自身のことはほとんど知らなかった。

 ほとんど表情を変えずに彼は自分のことを語った。

 生まれはムンバイで生家はここからすぐ近い。デリー大学を卒業後、アフマダーバードにあるエリート校、インディアン・インスティテュート・オブ・マネージメントでMBAを取得。さらにイギリスのワットフォード工科大学に留学した。帰国し、フリージャーナリズトとして活動を始めた。メディア論、財政論などの分野で執筆活動を行ってきた。いっぽう、シタール演奏家として演奏活動を行うかたわら、ヒンドゥスターニー音楽の解説や批評でも活躍してきた。ニューヨークのラーグ・レコードというレコード会社から出版されたレコードのライナーノートはほとんど彼が書いた。シタールは、アルヴィンド・パーリクに師事している。アルヴィンド・パーリクは、去年(04年)3月に亡くなった大巨匠、ヴィラーヤト・カーンの弟子であり、先に触れた「インド音楽と西洋」セミナーの主催者だ。

 彼がヴィラーヤト・カーンにインタビューしたときのことを聞いた。ヴィラーヤト・カーンの音楽的知識は膨大だった。ラーガやターラについてどんなことを聞いてもよく知っていた。しかし、その知識を言葉にする教育が彼にはなかった。一つの話題に集中できず、要点を理解すれば5分くらいですむような質問の回答を得るのに何時間もかかったという。

「その点、最近の若い演奏家は優れでっこで。とくにアニーシュみでな、きちんと教育ば受げだ若い衆は、自分のやっていることばクリアに説明でぎっからすごいなよす」

 ディーパクは、もうじき自分の本が出るといっていた。音楽に関するエッセイを集めた本で400ページ以上になるという。

「楽器や演奏家のこども触れでっから、オメも興味あんべ。出だらおめさ送っからよ」

 といってくれた。

「この間まではグジャラートでずっと仕事してたんだげど、あど何日かすたら仕事の中心はニューデリーになんなよ。んだがら今その準備で忙しくて」

 われわれの遅めのランチのメニューは、ラザニアとパンと飲み物セット。150ルピー(=375円)だった。わたしがレジで勘定を聞くと、ディーパクはわたしが財布を出すのを押しとどめ、何の表情も見せずクルターからさっとお札を出して支払った。

 ディーパクとは、今後も互いに連絡をとりあうことを約束し、書店を出たところで別れた。

●シュバー・ムドゥガルのコンサート

 タクシーでウァルリーのネルーセンターへ行った。細い砂州の突端にあるイスラーム聖廟ハージーアリーのあたりがすごい渋滞だった。ネルーセンターの目印である、支持柱が螺旋状に巻く円筒形の特徴のあるビルが見えてきた。しかしタクシーはなかなか進まない。結局、30分くらいかかった。タクシー代は60ルピー(=150円)。

 この日、ネルーセンターではシュバー・ムドゥガルとプラバーカル・カーレーカルのコンサートがあった。楽屋口のドアを開けると係員が舞台に案内してくれた。

India05 シュバーとアニーシュは舞台上でリハーサル中だった。二人ともわたしを認めて舞台に手招きし、ハールモーニアムを弾いていた老演奏家を紹介した。プルーショーッタム・ワラワルカル氏。茶のクルターを着た彼は、今年83歳になるとはとても思えないほど溌剌とした表情だった。舞台に座っていたのは、アニーシュとシュバーの他にワラワルカル氏と声楽伴奏の若い女性だった。シュバーの弟子なのだろう。リハーサルで演奏していたのはラーガ・ヤマン。開演10分前にリハーサルが終った。彼らと一緒に楽屋に入った。アニーシュが

「今日はよ、トウチャンとカアチャンもくんなよす。その席は彼らど同んなす並びだっす」

 といってわたしに入場パスを渡した。運ばれて来たチャーイを飲みながらシュバー、ワラワルカル氏と挨拶程度のおしゃべりをして、記念写真を撮った。India05

「時間があればよ、アニーシュと一緒にいろいろしゃべりでなっす」

 とわたしはシュバーにいった。

「んだなっす。おめのごどはアニーシュがらいろいろ聞いでるす、そうすだいなす。んでも、忙すくてねえ。明日もコルカタ公演だもんだがら、朝早くでがけねえど。すかだねえけどなっす」

 彼女は、むちむちした手でコップを持ち、チャーイをすすりながら答えた。

 いったん楽屋を出て、会場受付からホールに入った。収容人数500人ほどの客席は6割くらい埋まっていた。わたしの席は比較的前の方だった。アニーシュがいっていたように、同列には彼の両親、アバイ、アシュウィニーという名の二人の友人が座っていた。アニーシュの母親とはラーナデー氏の講演のときにお会いした。にこやかで活力に満ちた表情だ。父親とは初めてだった。堂々とした白髪と白い短い髭、整った鋭角的目鼻立ちで眼光が鋭い。挨拶をすると、わずかに笑顔を見せたもののすぐに元の鋭い表情に戻った。

●シュバーの演奏

India05 きらきらのサリーをまとった女性がアナウンスをした後、シュバーの演奏が始まった。ラーガはヤマン。彼女の声は太くてつやがある。メロディーの切れ目に独特の響きがあり、それがとても力強い。アーラープ、ルーパク・タールと速いティーンタールのバンディッシュだった。年下の夫であるアニーシュのタブラーは、彼女のメロディーにぴったりと付き添っていて歯切れがいい。40分ほどのヤマンの後、シュバーは軽いラーガ・カマージのトゥムリーを歌った。リズムサイクルは、14ビートのディープチャンディー・タール。シュバーの表情はトゥムリーを歌うときの方がずっと自然で明るい。

 シュバーの演奏が終わった。聴衆のほとんどが席を立ちフォワイエへ移動した。アニーシュの両親と二人の友人は次のプログラムを聞かずにそのまま帰るらしく、わたしに挨拶して出て行った。

 タバコを吸いに外に出ると、ハリジーのフランス人弟子が近づいて来た。グルクルではほとんどしゃべらない大人しい男だ。30代半ばだろうか。彼はこの近くに住んでいる。シュバーの演奏は初めて聞いたという。そこへ彼の知り合いだという背の高い白人女性がやって来て、彼に訊いた。

「今来たんだげど、シュバーはもう終わったながす」

「んだ」とわたしが返事すると、残念そうな顔をしていた。彼女はアメリカ人だった。ヒンドゥスターニー声楽の歌詞を研究しているという。

●プラバーカル・カーレーカルの演奏

India05 彼らと立ち話をしているうちにプラバーカル・カーレーカルの演奏がすでに始まっていた。楽屋でアニーシュに紹介された男性歌手だった。注意して聞いても何のラーガか分からなかった。音の動きをメモしたノートを後でドゥルバに見せると、

「あーあ、それはシャンカラーだなっす」

 ということだった。でかい声楽用タンブーラーを抱えた二人の若者を従えたカーレーカルは、オールバックの短い灰色の髪、広い額、普段着のような地味なクルター・パージャーマー姿だった。50代後半か60代前半かも知れない。ハールモーニアムの伴奏は、シュバーのときと同じプルーショーッタム・ワラワルカルだった。中年の眼鏡をかけた男がタブラー奏者だった。

 短いアーラープの後、ゆったりとした12ビートのエーク・タールから中テンポのティーン・タールと演奏が進んだ。彼はなかなかのテクニシャンだったが、声の質がちょっと魅力に乏しい。

●マクドナルドでチキンバーガー

 10時ころ公演が終わった。タクシーで最寄りのマハー・ラクシュミー駅へ行き電車に乗った。乗った電車はバーンドラまでだった。バーンドラで電車を乗り継ぎヴィレー・パールレーで降車。電車を降りたとたん急に空腹を覚え、マクドナルドでチキンバーガーセットを食べた。102ルピー(=255円)。ほぼ日本と同じ値段だ。インドの標準からすればかなり高い。

 駅からオートリキシャでジュフのドゥルバ宅へ戻った。ドゥルバは弟子のパテールのレッスン中だった。パテールが帰ってから、ドゥルバがムンバイに来るたびに習いに行く現在のグルの話を聞いた。

 彼のグルは、実はヨーゲーシュ・サムスィーの父親である。中堅のタブラー奏者として引っ張りだこのヨーゲーシュは、日本にもたびたび来て演奏したことがあり、わたしもよく知っている。

「あんまり有名でねえがら知ってる人は少ねえげんど、グルはすごい人なんだす。たいていのラーガは知ってで、彼の知識は奥深えなよす。いづ行っても、ラーガの表現の可能性を知らされはっとすんなよ。たどえばよ」

 ドゥルバはこういいつつ、サーランギーを弾いた。

「ラーガ・ダルバーリー・カーンナラーはよ、普通こう動ぐべした。んでも、こんな風にも動げっこで。このラーガは、マディヤマがらガーンダーラに揺れるみでにすて下がってがら、もう一回マディヤマさ上がってリシャブさ行ぐべ。なしてだど思う。聞こえねえ音があんなよ。分がっか。こごが難すいなよなす。マがらコーマル・ガへの動ぎは、たどえばバーゲーシュリーでもこげな風に動ぐげんど、ダルバーリー・カーンナダどは雰囲気がずいぶん違うべ。そういう、細かいごどが大事なのよす。ま、ラーガの秘密だっす。グルはよ、その秘密ばたあっくさん知ってんなよす・・・他のラーガでもよ、・・・」

 ときおり演奏も交えたドゥルバの「ラーガの秘密」の話はなかなか尽きない。

「おめはそげに研究熱心だす、演奏もすごぐいいのに、演奏する機会があまりねえみでだげど」

 とわたしがいった。

「主催者どもっとコネば作ればいいんだげど、オレはどうもシャイでだめなんだ。他のミュージシャンみでぐ、あっこっち忙すぐ売り込むっつうごどがよ、できねなよす。それによ、自分自身に対してまだ疑いがあんなよ。ヨーロッパ生活が長過ぎるっつうごどもあっけどなす。嫉妬もあっぺすね。難すいもんだなっす、人生は」

 トモコに電話した。明日、ブローカーと11時に会うことになった。

 1時ころ横になったが、蚊がうるさくて熟睡できなかった。

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