2005年1月10日 (月) -レッスンの日々

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 7時起床。8時半から10時半まで練習をした後、グルクルへ。

●タブラーと合わせる練習

 今日は、ラーガ・バイラヴィーのアーラ-プとラーガ・ジョーグのジョールだった。その後、練習室に来ていた若いタブラー奏者の伴奏でガットの練習だった。ターラは10ビートのジャプ・タールと16ビートのティーン・タール。わたしの今回の練習テーマはこのガットだったので得るものは多かった。まず短い変奏の繰り返しを行った後、スペースをとること。短いものから次第に長い変奏(ターン)へと移ること。10拍のうちの最初の7拍でできるだけ変化を持たせる。ティーン・タールでは声楽のジョールの展開を心がける。いきなり早く動かないこと。ティハ-イーは長いターンのときだけにすること。

 ハリジーは、生徒たち一人一人に数フレーズずつ演奏させた。これを聞くとある程度のレベルが分かる。住み込み組ではやはりサミールがちょっと進んでいるようだ。外国人の間では、フランス人のギョ-ムが一定のレベルだった。トモコはまだガット演奏の構成がうまくできていなかった。タブラーとの合奏練習のときは、生徒はそれぞれ30ルピー(=75円)ずつ出し合い、タブラー奏者へ支払うことになっていた。

 この日訪ねるつもりでいたフランソワーズはレッスンに来ていなかった。どうなったんだろう。

 レッスン後、昨日と同じようにトモコとジュフの定食屋でランチ。焼きそばを頼んだらものすごい量だった。ラッスィ-と込みで85ルピー(=213円)。

 食事中、オーディオレックのアミーシュから電話が入った。4時にカール駅近くのラミー・インターナショナル・ホテルで会うことになった。渡航前にメールでやりとりしていたジョーティンドラ・パテールが、今日ロンドンから着いてそこに滞在しているという。

●買い物

 それまで時間があるのでアンデーリー駅近くに買い物に行った。帰国まであと10日しかなくなったのでぼちぼちと買うべきものを買っておかなければ間に合わない。ウィヤンタリ(大阪在住インドネシア人舞踊家)に頼まれた舞台衣装用の布地を探すのと、自分の舞台用衣装を作るためにまず布地屋へ行った。アンデーリー駅前には大小の商店がぎっしりと軒を並べている。

 手織り布で有名なカーディー・バンダールでクルター用に3枚、ウィヤンタリ用に2枚、絹の布地を購入。全部で4400ルピー(=11,000円)をクレジットカードで購入。店内にいた客の女性に仕立て屋の場所を聞き布地を持って行った。仕立て代1枚110ルピー、襟まわりの刺繍飾り1枚につき150ルピー、全部で780ルピー(=1,950円)を現金で支払った。15日(土曜日)にできあがるという。そうこうしているうちに待ち合わせの4時近くなった。アミーシュに遅れることを電話で知らせた。携帯は電池切れ直前だった。まったく、この携帯はすぐに電池がなくなるので厄介だ。

 アンデーリー駅から満員電車でカール駅へ行った。約束場所のホテルは駅からすぐ近い、幹線道路のS.V.ロードに面していた。大きくはないが清潔で新しいホテルだった。館内はエアコンが強烈に効いていて寒いほどだ。ロビーで落ち合うことになっていた。しかし、広くないロビーにはそれらしい人はいなかった。アミーシュに再び電話すると、パテール氏はもうじきホテルに戻るという。10分ほど待つと、大きな体の中年の男と奥さんらしい女性がホテルに入って来た。二人とも40代前半だろう。わたしを見た彼が近づいてきていった。india05

●オーディオレックの担当者と会う

「ヒロシサンが。パテールだ。よくござったなす。3階のわれわれの部屋まで来てけろ」

 彼らの部屋は思ったよりも狭かった。大きなダブルベッド、小さなテーブルと2脚の椅子が窮屈に配置されていた。空いた床には巨大な2つのスーツケースがまだ開けられないまま重ねてあった。

india05 小さな銀縁眼鏡、短く太い髪を真ん中分けにしたパテール氏は、絹のような光沢のある緑のシャツに白っぽいチノパンをまとった貫禄のある重そうな体をどすんとベッドにのせ、流暢なブリティッシュ・イングリッシュでわたしに聞いた。

「飲み物はなにがいいべが。こげな狭いどごに呼び出して悪がったなす」

india05 ほどなく、全体に毛が薄い感じのころんとした男が入って来た。30代後半に見えるその男は

「アミーシュだっす」

 といってわたしに手を差し出した。パテール氏は

「この男が、おれだつの会社のインドの責任者だっす」

 と紹介した。真っ赤な絹のパンジャービー・ドレスを着た小柄なパテール氏の奥さんは、男3人の会話が始まると「わたしは関係ないのよ」とばかりに、ベッドの隅に後退し荷物の整理を始めた。今晩10時のフライトでロンドンへ戻るのだという。

●わたしのCDをインドで売りたい

 オーディオレック、つまりパテール氏がわたしのウェブサイトに掲載されたCDのインドでのライセンス出版を持ちかけて来たのは1年ほど前だった。以前インドで購入したCDの中にオーディオレックのものが何枚かあったので、レーベルだけは知っていた。これまで出版したCDをロンドンに送ったところ、ジーベックからAPASレーベルで出したハリジー、スルターン・カーン、ラシード・カーンのCD3種類をライセンス出版したいという返事が来た。インドだけで販売することや版権の扱い、支払い条件などを詰めて最終的に契約書を交わした。アミーシュからはライセンス料として小切手が送られて来たので信頼できそうだった。しかしその小切手は銀行の制約で現金化できず返送した。小切手の代わりにわたしの銀行口座に直接振り込むということになった。ところが、ただちに振り込むという連絡があったにもかかわらずその後なんの音沙汰もなく、この日に至っていた。

 パテール氏は押しの強い表情でこれまでの経過と計画を説明した。アミーシュがときどき頷きながらそれを聞く。ライセンス料はまだ送金されていない、近いうちに必ず銀行に振りこまれる、来年3月には3枚のCDをインドで発売する、ハリジーとスルターン・カーンの写真は持っているがラシードのものがない、わたしの関係したキングレコードのCDもインド版ライセンス契約が可能かどうか聞いてほしい、すぐにというわけではないがわたしのCD『January 17, 1995』もインドで発売したい。こうした説明の後、パテール氏が尋ねた。

「ラシードとは親しいんだべが」

「んだっす。彼の日本ツアーもすたすよ」

「彼と話でぎねえべが。写真ば送ってもらったらすぐにでもジャケットの編集ば始められるんだげんどなっす」

「んたなっす。ちょっと待ってけろ。彼の携帯番号知ってから今でも話はでぎるはずだっす」

「おお、んだが。んじゃその番号ば教ぇでけろ」

●ラシード・カーンに電話した

 番号を教えると、パテール氏は自分の携帯電話で即座にダイヤルした。出たのは奥さんだった。ラシードは現在デリーにいるという。ラシード本人の番号を奥さんから聞いたパテール氏はすぐさま電話した。

「おめの写真が欲しいんだけど、奥さんにいって送ってもらうごどはできんべが。・・・家にもねえなが。んだがっす。ちょっと待ってけろ」

 パテール氏は携帯をいったん保留にしてわたしに尋ねた。

「おめはデジタル・カメラはもってっぺが」

 持っていると答えると再びラシードとの会話に戻った。

「近々ムンバイに来ることはあっぺが。・・・えっ、んだが。今晩来るって。どごさ泊まるのや。・・・なに、ジュフのサン・エンド・サン・ホテル。それはちょうどいい。明日の朝8時に部屋をノックしてもいいべが。ヒロシのデジカメで写真撮らしぇでけろ。・・・急な話で悪がったなす。んじゃあ、明日の朝8時というごどで。ちぇっと待ってけろ。今、ヒロシに代わるがら」

 こういってパテール氏はわたしに電話機を差し出した。

「ラシード。いやいやあ、久しぶりだなっす。元気だったがす」

「むっちゃ忙すくてなあ。オメがインドに来てるごどはヨメがら聞いた。そういえば、オメの甥っつう若い男が来たよ、去年。今の男は知しゃねげど、明日ムンバイで会うの楽しみにしてっこで。今晩そっちさ飛んで一泊してよ、明日の朝にプネーさ行ぐなよ。そんで、プネーでコンサートしてがらムンバイさとんぼ返り。その日にコルカタに戻んなよす。毎日こんなでくたくただっす。んじゃ、明日の朝な」。

 久しぶりにラシードの声を聞いて懐かしかった。それにしてもパテール氏のすごい押しの強さと決断の速さ。あっという間にラシード写真問題が片付き、インドにおけるCDライセンス出版の話はスムーズに進捗し、わたしのCDも出版されるというおまけもついたミーティングは成功裡に終わった、かに見えた。

 その後パテール氏は、自分たちが出版しているヒンドゥスターニー音楽CDを進呈するので現在の滞在先まで届ける、イギリスに帰ったら他のCDやDVDも送るといってくれた。話はこんな風にぐいぐいと進んだので、パテール氏がかなりやり手のビジネスマンだという印象を受けた。明朝8時にわたしの滞在先に迎えにくるという約束をして5時半に彼らと別れた。

●C.R.ヴィヤース記念コンサート

 なかなかにいい気分のわたしは電車でマハー・ラクシュミー駅まで移動。ネルーセンターで行われる「C.R.ヴィヤース記念コンサート」を聞きに行くことにしていたのだ。このコンサートの招待券はもともとドゥルバに送られてきたものだった。ドゥルバはあまり行く気がなかったので、彼の代わりに行くことにしたのだ。電車は相当混んでいたが耐えがたいほどではなかった。駅からはタクシー(50ルピー=125円)でネルーセンターまで行った。

 自由席だったためか、会場ロビーには長い列ができていた。列に並んでいると、前の方に立っていた太った目がねの若者が

「おめは、ヴィレー・パールレーでハリジーと一緒に演奏すた人でねえべが」

 と話しかけて来た。そうだと答えると、

「オレはボーリーワリーに住んでるベンガル人だっす。名前はシュブデーヴ。声楽習ってんなよす。グルジーには月謝を払ってんなだべした。なんぼ払ってんなや」

 などと馴れ馴れしく聞いてきた。ハリジーの月謝はただだ、というさらに親しげに近づいていった。

「オレ、オメの隣さ座っていいべが」

 と返事を待たずにわたしに密着してきた。

●ねばっこい青年

 会場扉が開きわれわれはホールに入った。係員にVIPと書かれた招待券を見せると最前列の席に案内された。わたしに後にしたがっていたシュブデーヴは係員に

「オメの席は後ろだべ」

 止められた。案内された席に向かおうとしていたわたしは、シュブデーヴに呼び止められた。

「あのお、オメの招待券に二人分て書いてねえべが。オレは50ルピー出してチケット買ったんだけど、オメの隣さ座りたい。いいべが」

 ずいぶん強引なやつだと思ったが別に反対する理由もないので、わたしは係員にいって彼を隣の席に座らせた。

 席に着くと彼は一方的にしゃべり始めた。グレートウスタード(偉大な師匠)に習いたい、自分をハリジーに紹介してくれないか、ハリジーの紹介だったらジャスラージに弟子いりできるだろう、タンブーラーの調弦を聞いて、これはラーガ・ヤマンだべ、こんなんだよね、とサレガマで口ずさみ始めた。わたしはこの青年にうんざりしてきた。その後もいろいろ話しかけてきたが聞き流すことにした。

 コンサートは、まず3年前に他界した有名な声楽家、C.R.ヴィヤースの写真に花を手向けることから始まった。ちょうどわたしの隣に座っていたハールモーニアム奏者のプルーショーッタム・ワラワルカル氏が舞台に上がり遺影に向かって参拝した。同じネルーセンターで行われたシュバーの演奏のときに伴奏した83歳の演奏家だ。

 ついで、故人の長男が袖の演壇に登場し、父親の作った歌曲のテクストを朗読した。朗読を聞きながら舞台で待っていたのは、故人の3人の弟子たち。その歌曲の演奏が始まった。演奏が続く中、サントゥール奏者としてよりも大きな公演の主催者としてよく知られているもう一人の息子サティシュが、客の対応や進行の指示を出すためにせわしなく動いていた。以前よりも照りが少なくなったスキンヘッドに大きな目、糊の利いた白いクルター・パージャーマー姿だ。わたしの目の前を行ったり来たりしているのだが、わたしには気がついていないようだった。以前に何度もムンバイで会っているし、ルーパクと来日したとき大阪で食事したこともあったので気がつけば反応があるはずだ。私を忘れた、視界に入らなかった、気がついたが挨拶しても利益がないと判断した、主催者としてそれどころではなかった、まあ、いろいろ考えられる。

india05 3人の弟子たちのうち一番若い男がリードをとっていた。演奏したラーガは、パルメーシュワリー、ヤマン、ダンコーニー・カリヤーン、ビハーグ、ミヤーン・マルハール、バーゲーシュリー、マルーハー、カウシク・ランジャニー、バサント・ケーダール、ビラースカーニー・トーディー。初めて知ったラーガが大半だ。歌曲が中心なのでそれぞれのラーガの演奏は短かった。

●パンディット・ジャスラージの演奏

 休憩を挟んだ第2部は、パンディット・ジャスラージの演奏だった。舞台に登場してきたジャスラージは、長い白髪は頭の両サイドにしかなく、顔つきは恐ろしげだ。一世風靡したヒンドゥスターニー声楽の美男スターだが、外見の老いは隠しようがない。今年で75歳。しかしいったん演奏が始まるや、そのテクニックや歌唱力は衰えていなかった。彼を取り巻いていたのは、4人の若い女性のタンブーラー奏者、中年のハールモーニアム奏者、生意気アンチャン風のタブラ-青年、弟子らしい声楽伴奏の男だった。たった一人の声楽家の演奏に7人も伴奏がつくのは珍しい。大御所としての演出なのかも知れない。india05

 演奏の前にジャスラージが

「こういう機会に演奏できて嬉しい。今日は特別な人も来ているみでだ。おおい、そげに後さ座ってねえで前さ来てけろ」

 と声をかけたのはザキール・フセインだった。後ろの薄暗い席に座っていたザキールはいやいと手を振っていたが、客席の拍手で最前列に移動し、バジャンやガザルで有名なアヌープ・ジャローターの横に座った。

 演奏したラーガはジョーグだった。単純なフレーズから展開していくやり方に思わず引き込まれた。ちょうど今日グルクルでやったラーガなのでよけいに集中して聞けた。比較的長いアーラ-プの後、ものすごくゆっくりとした12ビートのエーク・タールに入った。長い周期を1音ずつ上っていく。ついで比較的速いティーン・タールへ移行した。最初は短いフレーズから徐々に長いターンへ向かうやりかたが実に絶妙だった。ジャスラージは、ジョーグの後、ラーガ・カマージでトゥムリーを演奏した。

 演奏が終わっても拍手が止まなかった。サティシュが出てきて

「ほら、拍手が止まんねべ。もう1曲軽めの曲ばどうだべが」

 というと客席からの拍手が大きくなった。

●ザキールと会う

 アンコールは聞かずにロビーに出ると、ザキールが隅で誰かと話していた。わたしを認めた彼が手招きしていった。

「コンニチワ、オー、ゲンキデスカ(日本語)。この31日に東京でコンサートあっけど、おめは来るが」。

 日本人と解るとすぐさまコンニチワという反応がすごい。もうちょっと話したかったが彼の目が忙しそうに動くので握手をしてすぐに別れた。タクシー、電車、オートリキシャを乗り継いで帰宅したのは11時すぎていた。12時就寝。

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