2005年1月11日 (火) -レッスンの日々

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 6時起床。家の人はまだ起きていないのでチャーイもコーヒーも飲めない。明日からは自分で作ろう。

●早朝、パテールとアミーシュがやってきた

 8時ちょうどに、パテールとアミーシュが年季の入ったジープでやってきた。それに乗り込みラシードが泊まっているはずのホテルに向かった。同じジュフ地区なのでホテルまではすぐだ。

 目指すホテルのレセプションでラシードの部屋番号を聞いた。そういう人物は泊まっていないという。そんなはずないと何度も確認したが宿泊名簿にラシードの名前はなかった。わたしが外に出てホテルの名前を確認した。「ホリデー・イン」だった。アミーシュが間違ったのだ。パテール氏は、運転するアミーシュに毒づいた。責任者といわれる人物がこういう初歩的なミスをしたことそうだが、ロビーに入る前に確認しないパテール氏にもわたしはちょっと不安に感じた。

 1分足らずでサン・アンド・サン・ホテルに着いた。ここには以前泊まったことがある。

 わたしがラシードの部屋番号を訊いた。ところが彼は泊まっていなかった。フロントの男によれば、ラシードはたしかに昨晩チェックインすることになっていたが現れなかった。それを聞いたパテール氏がラシードの携帯に電話した。なんと彼はまだデリーにいた。濃霧のためにフライトがキャンセルされたのだ。ラシードの計画は、今からすぐさまムンバイに飛んで空港からプネーに車で移動する。コンサートが終わったら再びムンバイに戻り、このホテルに泊まるという。つまり、今晩には会えるかも知れない。いつになく早起きしたのに空振りとは。まあ、こういうことはインドではよくあるので仕方がない。

 パテール氏とアミーシュはわたしをジョーティまで送り、今日は互いに連絡を取り合おう、といって去っていった。

●オーディオレックその後

 オーディオレックとその後。これを書いている現在(2005年10月)まで、彼らからは送金もなければ、送ってくれるといっていたCDやDVDも届いていない。また、メールで事情を問い合わせても何の応答もない。忙しくて対応ができない、手続きが遅れている、インドでのCD販売が難しくなった、会社自体が苦しくなった、ライセンス出版に興味を失った、などの理由が考えられる。わたし。のCDのインド発売というのがぬか喜びだったのか。あるいは、彼らは忘れていず超微速であれ計画は進んでいて150年後に発売される、という事態もありうる(ないか)。ともあれ、これは明らかに契約違反だが、今後も何の進展もないとすれば、まあ、忘れるしかないだろう。

●グルクルへ

 部屋に戻ってしばらく練習した後、グルクルへ。この日のテーマは、ラーガ・バイラヴのアーラ-プとラーガ・ヤマンのジョールだった。レッスン後、ハリジーは今後の予定をみなに告げた。

「明日がらコルカタのドーバーレーン・コンサートがあるもんだがら休みだ。明後日、14日、15日は予定通り11時がら。16日は午後4時がら」

 レッスン室に見慣れたカップルがいた。バナーラスで会ったシャイアンとユミだった。その二人、トモコとジュフのなじみの食堂でランチ。食事をしながら彼らの話を聞いた。

 彼らは、バナーラスでいっていたように、ゴアとハンピで休暇を過ごし、昨日ムンバイに着いた。ムンバイ郊外にある月1,500ルピーの部屋を借りたが、そこからグルクルまではオートリキシャで1時間、約150ルピーもかかった。交通費と時間を計算したら、多少高いがジュフに部屋を借りたほうがいいが、どこか適当な部屋を知らないかと尋ねた。するとトモコが提案した。

「中川さんとこの家にもう1部屋あるんよね。そこ、どないやろ。月8,000ルピーはするけど。ブローカー通さんと直接家主にいうたら無駄なコミッション払う必要ないし。中川さん、どない思う」

 わたしもそう考えていたので賛成したが、それが可能だと分かっていれば、わたしがそこを借りるときになぜブローカーを仲介させたのか理解できない。アヤミの部屋もブローカーを介さずにトモコが紹介したのだ。単にそのとき思いつかなかったということだろうか。

シャイアンとユミをジョーティへ案内

 ともあれ、わたしはシャイアンとユミをジョーティへ連れて行き、ナーギー夫人に紹介した。ヒロシの隣の部屋を1ヶ月間借りたいと彼らがいうと、夫人は顔をパッと明るくした。間借り人渇望感つまり現金渇望感に苦しんでいた夫人には願ってもない申し出だった。喉から出てくる手が見えた。とはいえ、家賃の交渉に入ると夫人はしたたかだ。押したり引いたりの駆け引きの後、結局1ヶ月7500ルピーの家賃、親戚のブローカーに500ルピーを支払う、ということで決着がついた。ブローカーのグプタは無視してもよいが、親戚のインドラジートには秘密にできない。今後のこともあるからせめて500は払ってほしい、というのがナーギー夫人のいい分だった。わたしの隣の部屋は家主夫妻の寝室で、バルコニーもついていて明るい。ベッドもバスルームもわたしの部屋より清潔だった。わたしが家主と最初に会っとき、家賃は10,000ルピーだと紹介した部屋だった。それを7500ルピーで借りることができるので、シャイアンたちはずいぶん得したことになる。もっとも、彼らにはわたしが出た後の部屋に移るという条件がついた。シャイアンたちは明日から移り住むことになった。

 彼らはしばらくわたしの部屋でおしゃべりをして帰っていった。

●再びC.R.ヴィヤース記念コンサート

 しばらく練習した後、5時にヴィレー・パールレー駅へ。駅前の商店街でクルター用のボタンを4個購入(102ルピー=255円)し、比較的空いていた電車に乗ってマハー・ラクシュミー駅まで行った。駅からタクシーでネルーセンターに着いたのは6時20分だった。昨日に引き続き「C.R.ヴィヤース記念コンサート」だった。

india05 ロビーに入ると「ヒロシ」と女性の呼び声がした。声の主はなんとアヌラーダー・パールだった。98年のハリジー日本ツアーのとき同行した女性タブラー奏者だ。女王のようなわがままな態度に手を焼いた彼女だったが、久しぶりに会うと懐かしい。もう30代半ばのはずだ。すらっとした体型も傲岸そうな表情もあまり変ってはいない。彼女は美人というわけではないが、強烈な自信から来るオーラを発していてなかなか魅力的だ。彼女の握手の力は強かった。一緒に写真を撮ったり冗談をいい合っているうちにコンサートが始まる時間になったので、昨日と同じ座席に向かった。昨日よりも聴衆は少ない。6割ほどの入りだった。

●シュリーパド・パラードカル

 6時40分に始まった第1部は、C.R.ヴィヤースの一番弟子、シュリーパド・パラードカルという男性声楽家の演奏だった。50前後か。短い髪、人を射るような目の表情はどことなくシタール奏者ブッダーディティヤー・ムケルジーに似ていた。水色のクルター、灰色の髪、真っ白な口ひげ。タブラ-は、ナヤン・ゴーシュの弟子、ギリーシュ・ナラーヴァデーだった。india05

 パラードカルがまず演奏したのはラーガ・シュリー。このラーガは何度か聞いたことはあるがわたしは演奏したことがない。スケールの動きが複雑でバーンスリー向きではないのか、ハリジーの実演も録音も聞いたことがない。短いアーラープに続いてヴィランビット・エーク・タール、ティーンタールのガット。ついで、ラーガ・シヴァーボーギー。このラーガの名前は初めて聞いた。ラーガ・アーボーギーの変種だ。これも短いアーラープに続いてゆっくりとしたジャプ・タール、中テンポのエーク・タールのガット。堅実だが華やかさに欠けた演奏であまり魅力的ではなかった。

 わたし。の斜め前にシヴジー(シヴ・クマール・シャルマー)夫人が見えた。パラードカルの演奏が終わったとき近づき挨拶した。すぐにわたしと分かって

「あら、いつムンバイにきたながっす」

 と聞いてきた。彼女と会うのも久しぶりだった。88年のシヴジーとザキール・フセイン来日公演で京都・大阪を案内して以来、ムンバイでのシヴジー、ハリジーの公演やご自宅で何度もお会いしている。シヴジーの自伝はとても面白かったというと

「んだが、えがったなす」

 と笑顔で応えた。

 20分ほどの休憩後、第2部が始まったのは7時55分だった。

シヴ・クマール・シャルマーの演奏

india05 真っ黒のクルターを着て颯爽と舞台に登場したシヴジーは、慎重なチューニングの後、会場をじっと見渡した。灰色の豊かなカーリーヘアはまるでカツラのようだ。ハンサムな顔には皺一つない。1938年生まれのハリジーよりも1歳年上だから今年で67歳になるはずだが、とてもそんな年には見えない。

 演奏曲はラーガ・ジンジョーティー。高い音のサとガがちょっと低めで気になった。長めのアーラープの後、中テンポのジャプ・タール、速いスピードのティーン・タールのガット。トリッキーなリズム変奏を交えつつ徐々にテンポを加速し盛り上げていく演奏に聴衆は大喝采を送った。

 この日のタブラー奏者は、50代前半の最も脂の乗り切ったシャファト・アーマド。アーラープのときのシャファトは、ビジネスマンのような表情で腕を組みじっと終わるのを待っていたが、ガットに入ったとたん、シャープで力強いリズムを刻み始めた。速いティーン・タールでのサワール-ジャワーブ(問答)はスリリングだった。シヴジーの猛スピードにも苦もなく応える。彼のソロも大喝采を浴びていた。そのシャファトが、この8月(2005年)に急死したと聞いた。この日の演奏がわたしにとっては最後となってしまったわけだ。88年にサロードのアムジャド・アリー・カーンとともに来日したとき、梅田の「王将」で彼と食事したのをふと思い出した。

 ジンジョーティーが終わったとき、今夜の主催者でかつシヴジーの弟子でもあるサティシュが舞台の袖で短い挨拶をした。このように父親の記念コンサートが開かれたことは家族にとってとても喜ばしい、しかも自分のグルにもおいでいただいた、この喜びをみなさんに表明したい、というような内容だった。

 シヴジーは、アンコールとしてラーガ・ミシュラ・シヴァランジャニーの民謡を演奏した。リズムは14ビートのディープチャンディー・タールだった。

 終演後、シヴジーに挨拶しようと楽屋に行った。楽屋の前は、面会人で身動きできないほどだった。ザキールもいて目が合った。お互いに「よお」てな感じで軽く声をかけた。シヴジーは中で着替え中だったので会うのは止めにした。まだホールに残っていた夫人に、よろしく伝えてほしいと告げて外に出た。時計を見ると9時半だった。

 タクシーを探しながらアニーシュに電話してみた。

「今、シヴジーのコンサートが終わったのよ。オメは今どこだべが」

「あれー、ヒロッサーン、いいタイミングで電話したなっす。ちょうど今デリーから帰って来たどごだ。明後日に、マックスミューラ-・バーワンに映画見に行ぐつもりだげんど、ヒロッサンも一緒にどうだべ。なんか、インド音楽ば題材にしたドイツのドキュメンタリーみでだけど。それがら晩飯でも食うべ」

「いいなす。どごで落ち合うべが」

「んだな、カール駅近くのS.V.ロードで待ってでけろ。5時ころ車で迎えに行ぐがら」

 電車に乗って帰るのがおっくうだったので、ジュフまでタクシーで帰ることにした。タクシーの車内でアミーシュに電話した。代わったパテール氏が、何度もダイヤルしているがラシードの携帯につながらない、何かあったらそっちに電話する、と早口で応えた。その後、結局電話が来なかったところをみると、ラシードとは連絡できなかったようだ。

 タクシーがガソリンスタンドで停車した。運転手は

「ガス欠だべ。急いでるんだったら別のタクシーで行ってけろ。こごまでの料金は105ルピーだっす」

 といって後ろを向いた。料金を支払ってすぐ2代目のタクシーをつかまえジュフまで帰った。タクシー代は全部で250ルピー(=750円)。

india05 サルダ-ルジーの食堂でチキンティッカー・ローティー巻き45ルピー(=113円)を食べた後、インターネットカフェでメールチェック(10ルピー=25円)。紙パックのアップルジュース15ルピー(=38円)を飲んでジョーティに戻ったのは11時ころだった。12時就寝。

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