2005年1月13日 (木) -下宿人が増える

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 ものすごい蚊の攻撃でしっかり眠れなかった。5時半には眼を覚ましてしまった。キッチンでコーヒーを作ろうとすると、ルーマ-が起き出して手伝いをしてくれた。10時半まで練習。

グルジーはまだコルカタにいた

 シャイアン、ユミと3人でグルクルへ。11時10分前に着いた。レッスン室ではサミールが練習をしていた。彼はわれわれを見ていった。

「今日はよ、レッスンはなしだっす。グルジーはまだコルカタにいんなよす。フライトが遅れてまだ来れねなよす」

 そのうち、生徒たちが集まってきた。いい機会なので全員で記念撮影をした。

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 ハリジーがいないので帰ったものもいたが、数人残った。みながなんとなくわたしにどうしようと聞いたので、サミールに基礎練習方法を習ったらいいのではないか、と提案した。サミールはまんざらでもない顔をして電気タンブーラーのスイッチを入れた。

●ショッピングモールへ

 わたしはユミと買い物に行くことにした。マラードのオールビック・モールへ行く途中で見かけた別のショッピングモールへ行ってみたかったのだ。オートリキシャ(15ルピー=38円)に乗って15分で着いた。

india05 そこも、規模も店内ディスプレイも日本のデパートのようだった。違うのはいたるところに警備員がいることだ。入り口でリュックを預ける。1階の衣料品店でインド式チョッキを2枚(800ルピー=2,000円)、2階のフード・バザールで電子蚊とり器(80ルピー=200円)、ネスカフェ(120ルピー=300円)を購入。2階から吹き抜けのコンコースの写真を撮った。すると警備員があわててやってきて撮影はだめだという。店舗デザインが盗まれるのを警戒してのことか、理由は分からない。店の外に出ると警備員がいて、今度はレシートを見せろという。レシートはレジのところで捨てたのであわてて取りに戻った。このような大規模な商店に厳重な警備が欠かせないのはインドならではだろう。「日本と一緒でつまんないね」

 ユミが感想を申し述べた。

 帰りのオートリキシャ運転手アンチャンは、告げた目的地を聞いて自信たっぷりに頷いたが、実際は道を知らなかったので大幅な遠回りになった。グルクルまで40分以上かかった。メーターを見ると40ルピー換算(ムンバイでは金額表示が昔のままの古い料金メーターを使っていて換算表だけが更新される)。15分、15ルピーの距離である、したがって40ルピーは払わない、20ルピー(=50円)支払うと申し述べた。彼はぶつぶつ行っていたがあきらめて受け取った。ちょっと気の毒だった。

 グルクルのレッスン室では、インド人生徒の男とシャイアンが残って練習していた。

 シャイアン、ユミ、わたしでジュフの定食屋でランチの後、ジョーティへ戻った。

アニーシュと映画を見に行く

 この日は、アニーシュとドイツ映画を見に行く約束だった。落ち合い場所のカールの駅周辺まで早めに行き買い物をした。交番のような警察詰め所でクルター・パージャーマーの店の場所を尋ねると、制服のボタンがかろうじて引っかかるほど下腹の突き出た警官が、オレについてこいといってカーディー・バンダールまで連れて行ってくれた。パージャーマー3着、クルター用の下着3着、チョッキを購入。全部で1000ルピー(=2,500円)。

 約束の5時を10分ほどまわったころ、ものすごい交通量のS.V.ロードの対岸からアニーシュが「ナーカガワサーン」と叫んでいるのが聞こえた。とてもこちら側にUターンして車を回せる状況ではない。青信号で横断し彼の車に乗り込んだ。車は運転手つきのマルティの中型車だった。

 車中で彼の最近の活動のことなどをあれこれ聞いた。二年前に立ち上げたアンダー・スコアー・レコードは順調に出版数を増やしそれなりの利益が出ている、最近は書籍も扱うようになった、奥さんのシュバーは相変わらず忙しくコンサートで飛び回っている、元新聞記者の父親は筋金入りのコミュニストだったなど。わたしは、ジャールカンド、ビハール・ツアーのことを話した。

「ラーガの種類について勉強してっけど、なんかいい本ねえがす」

「AFOのツアーのときにもいったと思うけど、ラーマーシュラヤ・ジャーの『アビナヴァ・ギーターンジャリ』全5巻が役に立つんでねえが。最近その本も扱うようになったがら、送ろうか。ジャーさんはシュバーのグルだよ」

「んだなす。送ってけろ」

●ナリマン・ポイントのマックス・ミューラー・バーワン

 などという会話をしているうちにナリマン・ポイントのマックス・ミューラー・バーワンに着いた。マックス・ミューラーというは、19世紀前半ドイツに生まれた有名なインド学者の名前である。彼の名前が冠された建物はデリーにもある。6時になっていたので、カールから1時間かかったことになる。アニーシュは、ようやく駐車スペースを確保して戻ってきた運転手を帰宅させた。

 上映会場であるマックス・ミューラ-・バーワンは、リズムハウスのちょうど対面にある4階建ての新しい建物だった。ガラス張りの1階はギャラリースペースになっていた。

 3階の会議室のような部屋が上映会場だった。左右に20脚ほど並べられたパイプ椅子の列の真ん中にプロジェクターが設置されていた。スクリーンに映像が写っていたが、室内の明かりはついたままだった。正式な上映ではなくリハーサルのようだった。観客は、われわれを入れてもたった15人だった。

 6時半ちょうどにドイツ人館長のピーターなにがしが挨拶した後、映画製作者であるピーター・パンケが制作のいきさつなどを説明した。かつてヨーロッパで活躍した旅芸人トルバドゥールのルーツはインドではないか。そのことを音楽的に明らかにするため、シリアのウード奏者、インド人の末裔だと信じるトルコのクラリネット奏者、エジプトのナイ奏者、インド人のドゥルパド歌手とタブラー奏者とともに、トルバドゥールたちのたどったであろう道程をたどったのがこの映画である。映画の中ではとくに証拠のようなものは示されない。一種の映像エッセイとして見てもらえばいい、などという話だった。

●映像自身は美しいが、つまらない映画

 ピーター・パンケとは何度か会ったことがある。BHU学生時代によく行ったブリンターヴァンのドゥルパド・メーラー(ドゥルパド音楽祭)で見かけたし、96年の「インディアン・ミュージック・アンド・ザ・ウェスト」というセミナーでも会って話をしたことがあった。ドイツ人にしては小柄で、四角い顔、目の大きさと釣り合いの取れない小さな鼻と口、髪の毛をポニーテールにして後ろで束ねているが頭頂部が透けて見える。わたしと同じくらいの年齢だろう。

 映画が始まった。映像自身は美しいが、つまらない映画だった。製作者であるパンケ本人がやたらに登場して重々しく心情を語る自己宣伝のような映画だった。個人のアルバムを無理矢理見せられている感じだ。

 会場を出たところでアニーシュに

「映像はきれいだったなす」

 といった。アニーシュが笑いだして応えた。

「今ちょうど同じごどばいうどこだったのよす」

 二人で大笑いだった。

「ああいう連中が、たくさんゼニ集めでああいう馬鹿なもん作ってんだがらなあ。インドは神秘的だなどと相変わらず考えてるんだ、あいつらは。ドゥルパド歌手のプレームクマール・マリクがしゃべったの聞いだが?『古代から続くドゥルパドこそあらゆる音楽の源泉であり、したがってわれわれは音楽の神であるサラスヴァティーに祈るのだ』みでなごとしゃべった後に、ハ-ルモーニアム弾ぎながらタブラ-の伴奏で歌ってんだもんな。笑うすかねえべ。まったぐ、なんつう映画だ。頭さくる。もっと一般的なものを期待していたのに」。

 ちなみに、ヒンドゥスターニー音楽のドゥルパド・スタイルでは、ハ-ルモーニアムもタブラーも使わない。

 アニーシュの感想にはまったく同感だ。

「パンケ自身が映像に頻繁に出てきてよ、まるで俳優みでに長々どモノローグば語ったり、他のミュージシャンたちと下手な歌ば歌ってだのも笑うすかねがった」

 とわたしがいうと

「100パーセント、オメに同感だ」

 と再びアニーシュは笑い出した。

●高級レストラン「アプールヴァー」

「さて、夕食はなに食いだい。あげな映画見だもんだがら、なんだがものすごく腹減ったべ」

「この辺のごどはさっぱり分がんねすなあ。オメのオススメはなんだべ」

「んだなっす。あっ、んだ。近くに最近ものすごぐ人気のレストランがあんなよ。南インドの魚料理が人気なんだ。オレもそごさ行ぎでがら、行ってみっか。本当はよ、東京のラーメンが恋すいんだげんどね」

 アニーシュが連れて行ってくれたのは「アプールヴァー」という高級レストランだった。ナリマン・ポイントにある古いビクトリア朝式ビルの2階だった。2階のエアコン席は満員で、われわれはしばらく待たなければならなかった。

india05india05 まず、アペリティフとしてわたしが白ワイン、アニーシュがフレッシュ・ライム・ジュース。つまみにエビのてんぷら風のものが出てきた。これがうまい。ついで、キングフィッシュという魚の幅広い切り身をフライしたもの。あっさりした白身なので脂っこくない。さらに注文したカニが絶品だった。ニンニクをたっぷり使って炒めたカニをペンチのようなもので砕いてすする。インドでカニをたべるとは思いもしなかった。それを南インド風の幅広いビーフンと一緒に一緒に食べた。

 食事中はいろいろな話題が出た。ドゥルバとナヤンの確執がますますひどくなってきたこと、AFO2003年ツアーの思い出話(バンコク、ヤンゴン、ビエンチャン、ホーチミンで公演をした)、AFO仲間のパーカッショニスト佐藤一憲君の突然の死、フィリピンのグレースはどうしてるかなあの話、2005年のAFOツアーの話などなど。アニーシュは前年に、AFOのプロダクション事務所の小林小林女史から、シュバーともども2005年の秋のスケジュールの問い合わせがあった(結局AFOツアーは2005年にはなかった)。シュバーは今日はジャイプルにいる。彼女は、ジャイプルでアーティスト・イン・レジデンスの責任者になっていて、音楽祭の開会挨拶をしているはずだという。その音楽祭のプログラムはすべて彼女が決定する。今年は3月にオーストラリア、その後ブリュッセルで現代音楽とのセッションがある。現在アニーシュにタブラーを習っているインド人の生徒は6人いるが、彼らからは月謝は取らない。india05

「明日からまたツアーでよ、17日夕方に戻ってくっから、まだ今度は別の場所でディナーでもすっぺ」

 アニーシュはわたしの割り勘申し出を断り全額カードで支払った。メニューの値段から類推すると、多分1000ルピー(=2,500円)くらいだったろう。チップに100ルピー払っていた。レストランを出たのは10時ころだった。自分で運転するアニーシュにカールまで送ってもらい、その後オートリキシャを拾ってジョーティに戻った。

 昼に購入したインド製電子蚊とりマットは大正解だった。部屋中煙だらけにして蚊取り線香をたいてもしぶとく動き回っていた蚊どもは、蚊とりマットをコンセントに差し込んで数分もしないうちに全滅した。きっとものすごく強力な毒に違いない。12時ころに就寝。

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