2005年1月16日 (日)-コンサート
6時起床。9時半まで練習。昨日一人でグルクルへ行ったのが気にかかったのか、後でシャイアンがいった。
「なして一人で行ったなや。声かけでけでもいいべ」
ということで、今日は声をかけた。やはりいつも通り10分ほど待たされた。彼らは人を待たせるのが平気なのか、悪びれずに部屋から出てきた。どうも、シャイアンとは波長が合わない。
今日は、いつもより1時間早いレッスンだった。レッスン室にはアヴィシャーの姿も見えた。
レッスンは、ラーガ・バーゲーシュリーのアーラ-プ、ジョールの他にガットもあった。タブラ-青年が来ていたのだ。ナヴィーンという名の、カーリーヘア-をした細身の青年だった。彼のタブラ-はシャープでやさしい音を出す。練習したのは、10ビートのジャプ・タール。ハリジーは、少ない音数のフレーズから徐々に変化させてテーマメロディーで解決するさまざまなやり方を示した。例によって生徒一人一人に演奏させた。タブラーとの共演に慣れていない生徒たちが大半だった。
12時すぎにレッスンは終わったが、シャイアンとユミがなんとなくぐずぐずしていたのでトモコとジュフの定食屋へ行きランチ。テーブルについてしばらくしたらアヤミがやってきて合流した。 今日はボーリーワリーでマルハール記念コンサートがあり手伝いに行くというと、二人は入場料を払わずに潜り込めないかと訊いてきた。
「なんとかなっぺ。楽屋口でオレば呼んでけろ」
ジョーティに戻ってすぐにクルター・パージャーマー・チョッキのインド音楽家正装に着替えた。さあ家を出ようと玄関ドアを開けようとしたら、外からロックされていた。シャイアンたちの部屋のバルコニーから大声でルーマーの名前を呼んだ。しばらくすると彼女が現れた。
「外から鍵かがってっぺ。開けてけろ」
「あーあ、悪がったなす。今、開げっから」
危うく家に閉じ込められるところだった。
ボーリーワリーまでの電車は身動きできないほどの混雑だった。ラグー宅へ行くと、カークーが化粧して会場へ行く準備をしていた。長女のローヒニーもいた。会うのは98年以来だった。以前よりも体型が寸胴型に近くなり、目のまわりの隈も濃い。カークーが、
「あっ、んだ。ヒロス。これ」
と、先日財団へ寄付した領収書と今日の入場パスを渡された。
マルハールジーにタブラ-を習ったという背の高い男が、
「鍋が入るくらいの袋ねえべが」
といってやってきた。ギリシュ・ジョーシーという名前だった。今日のコンサートの準備を手伝っているらしかった。その彼が、わたしが会場を知らないというと
「んじゃ、オレのバイクの後ろに乗って行ぐが。今から会場さ行ぐどごだがら」
というのでそうすることにした。
ギリシュは
「ちゃんと掴まっててでけろ」
といって大型バイクを走らせた。真っすぐ走っているときはそうでもないが、交差点で曲がるとき車体が斜めに大きく傾くのでなかなかスリリングだ。彼は途中の掘建て小屋のパーン屋でバイクを停めた。
「ちょっと待ってけろなす」
といってパーンと噛みタバコを買うためだった。
「オメも何がいらねが」
と何度も訊くのでペプシをごちそうになった。真っ赤な唾を側溝に吐き出したギリシュは、
「もうすぐだがら」
といって再びバイクを走らせた。走り出して1分もしないうちに、
「こごで鍋とってくっから待ってけろ」
とお菓子屋の前で再びバイクを停め、すぐに大きな鍋を抱えて戻ってきた。
「悪いけど、これ後ろで抱えてでけねがっす」
と手渡された鍋はずっしりと重くて熱い。
「これ、なんだべが」
「はははは、スージーだっす。楽屋で用意する軽食。鍋ばこの袋に入れっつど熱くねえべ」
ほどなく会場に着いた。かなり大きなホールだった。壁面にプラボーダン・タークレーと書いてあった。ボーリーワリー市公営の文化施設だった。
楽屋口から舞台裏の広いスペースには、ばりっとしたインド服で着飾ったラグー、ルーパク、アボーリー、ローヒニー、カークー、ニヴェーディター、ルルなどのクルカルニー家族の他、以前に会ったことのあるマルハールジーの弟子たちが忙しく動き回っていた。
ホールに入ってみた。すり鉢型のかなり大きなホールだった。1000人規模だ。開演は4時だと聞いていたが、客席にはまだほとんど人がいなかった。
「まだ客は来てねえみでだけどなあ。あっ、それと、オレの日本人の友だづが裏口がら入れっかなあっていっていだけど、どうだべ。おなご二人なんだけど」
とラグーにいうと
「大丈夫だっす。こごはインドだべ。すぐに一杯になっから心配いらね。その友だづは楽屋口知ってんだべ。んじゃ大丈夫だ」
といいつつ忙しく動き回る。楽屋周辺をなんとなくうろうろしていると、アボーリーに
「ヒロス、これつけてけろ」
とスタッフ・リボンを手渡された。手伝うべき仕事はほとんどなかったが、これで関係者である。プ-ナでお世話になったプラフッラが、奥さんと一緒に楽屋周辺にいたので挨拶した。彼らも正装だった。プラフッラはわたしの正装を見て、
「あらら、ばっちりだなっす。かっこいいべ。今日は何演奏すんなや」
と茶化した。
4時を過ぎると少しずつ会場が埋まり始めた。わたしの招待席は最前列から3列目だった。
第1部が始まったのは16時40分だった。舞台では、ネルーセンターでアニーシュに紹介された中年の声楽家、プラバーカル・カーレーカルのグループがすでに位置について入念なチューニングをしていた。舞台正面の壁にマルハールジーの横顔と「ナーダ・マルハール」とヒンディー語で書かれた赤い幕が下がっていた。ラグーが舞台に登場し、演奏者一人一人に花束を渡した。
カーレーカルの演奏がいきなり始まった。ラーガ名のアナウンスはなかった。ラーガはガーウティーかも知れないと思いつつノートに動きをメモした。前席の男の耳元に口を寄せて尋ねた。
「これ、ガーウティーでねえべが」
「んだみでだなす」
簡単なアーラ-プの後、ゆっくりしたエーク・タールのガット。カーレーカルは2曲目のラーガ・プーリヤー・ダナーシュリーを演奏した後、短めのバジャンを歌った。ラーガ名は分からなかった。彼の演奏中、会場を見回すと、後ろの方でグルクルの仲間たちの姿が何人か見えた。
第1部が終わってロビーへ行った。ロビーで軽食と飲み物に群がる聴衆で身動きできないほどだった。知り合いは何人かいてやあやあと挨拶をして外に出た。タバコを吸っていると、一人の男が話しかけてきた。
「オメはヴィレー・パールレーのコンサートでハリジーと演奏してたべ。すんげえもんだなす。いがっすよ。オメはハリジーの弟子なんだべ」
「んだっす」
「オメのコンサートはねなが、近々」
「いやあ、まだ修行中だがらなす」
「んだが。ま、頑張ってけろ」
男がこういってロビーに入るのを見ながら、知り合いのバーンスリー奏者のニッティヤーナンド(ニッティヤーナンド・ハルディプール)に電話した。彼に電話したのは、彼のグルであるアンナプールナー・デーヴィー(以下ピシュマー)を訪問できるかどうかを聞きたかったからだ。ピシュマーはハリジーのグルでもあり、これまで何度か彼女を訪ねたことがある。ヒンドゥスターニー音楽のグル中のグルといわれる彼女を今回も訪問したいと思っていたのだ。
「ヒロシが、元気が。ムンバイさ来てだったのが。ピシュマーに会いたいって。うーん、オレの口からは何ともいわんにぇな。ルーシジーに聞いてみねどね」
ルーシジー(ルシークマール・パンディヤー)というのはピシュマーの夫である。本職は行政管理者に対する行動心理学的アドバイスだと本人から聞いたことがあったが、ピシュマーの弟子でありシタールを演奏する。ピシュマーの弟子たちの中には、普段は彼から手ほどきを受けているものもいる。
「んだか。それじゃ、ルーシジーの携帯電話番号ば教ぇでけねが」
「教えだいげと、まずルーシジーに教ぇでいいが訊かねえど。明日、も一回電話してみでけろ。訊いでみっから」
ピシュマーに会いたかったのは、彼女の発する強烈なオーラを浴びたかったからだ。
ここでちょっとピシュマーのことに触れておこう。
彼女は、多くの演奏家たちが直接会ってインスピレーションを得たいと願う現代ヒンドゥスターニー音楽界のミステリアスな存在である。ヒンドゥスターニー音楽中興の祖といわれるアラーウッディーン・カーン(1881-1962)の娘、現代サロード界の重鎮アリー・アクバル・カーンの妹、世界で最も名の知れたシタール奏者ラヴィ・シャンカルの最初の妻、インドの人間国宝パドマ・ブーシャン受賞者、伝説的シタール奏者ニキル・バナルジーやバーンスリーの巨匠ハリプラサード・チャウラースィヤーのグル、そしてクラーバーの自宅アパートから一歩も外出することなくわずかな弟子や近親のものしか会わない「完璧」なスールバハールおよびシタールの演奏家、写真撮影をかたくなに拒む隠然たるグルのグル。こうした要素が総合して彼女をしてミステリアスな存在にしている。
直接会って言葉を交わすことすらステータスになるという彼女に、わたしが最後に会ったのは95年だった。10年も前の話だ。
その2、3年前、初めて自宅を訪問したときのことは今でも忘れられない。当時、彼女にシタールを習い始めたスイス人の知人ピーター・クラットにくっついて訪問した。通された居間に中年女性がいてサロードを演奏していた。ソファに座ったわれわれが彼女の演奏を聞いたり、頭の回転が恐ろしく速そうなルーシジーと冗談をいい合っていると、チャーイとナムキーンを乗せたトレイをもって奥のキッチンから小柄な女性が現れた。寸胴体型の体にちょっとくたびれたサリーを着た、とりわけ色黒の普通のインド人オバチャンだった。しかし、その魁偉な容貌と鋭い眼光に人をたじろがせるような雰囲気があった。ソファに座っていたピーターが立ち上がり、彼女に近寄って両足に手を触れた。彼女は、
「まあまあ、チャーイでも飲めず」
といいつつピーターの巨体の背中をさする。わたしを見た彼女がルーシジーに視線を向け、右手のひらを上に向けてくるっと回した。この男は誰だ、という意味だ。
「ピーターの友だづのヒロスだ」
ルーシジーがヒンディー語で答えた後わたしにいった。
「ピシュマーだ」
わたしはあわてて彼女の足元に手を触れた。
「ああ、んだが。まあまあ、よぐござったごど。まず座ってチャーイでも飲んでけろ」
彼女は英語でわたしにこういった後、サロードを弾いていた女性に厳しい口調でいった。
「ベースーラー。オメは何年弾いでんなや」
指摘された女性は真剣な表情で「ジー(はい)」と答え同じメロディーをやり直した。
「ん、えごで。今日はよ、客人だがらこれまでにすっぺ」
といわれた彼女は、チャーイを飲んだ後楽器を片付けて帰って行った。
ピシュマーは、
「オレは英語分がんにぇがらヒンディー語で失礼するよ」
といっていたが、ルーシジーとわれわれの英語の会話にときどき頷くので、きっと全部理解していたはずだ。
「オメは何してるなや」
彼女がヒンディー語でわたしに尋ねたので、ルーシジーの通訳を待たずわたしもヒンディー後で答えた。
「バーンスリーだっす。ハリジーに習ってるんだす」
「ほほう、ヒンディーばしゃべんなが。たまげだもんだ。何年習ってんなやす」
「まで3年ほどだっす」
「んだが」
「昨日のハリジーのコンサートはすごぐえがったっす」
「ほほう、んだが。ハリジーは何のラーガば吹いだなや」
「マールカウンスだったす」
「ん、んだが。ハリジーはマールカウンスは習ってねえげどんだな」
とルーシジーに視線を向けた後、続けたいった。
「ハリジーはよ、すごぐいい音楽家だ。才能ある。ただ、銭儲け音楽家になってすまった。オレどごで習ったげど、まだまだ習う必要があったなよ。それが、ちょっと人気出できたもんだがら習うのば止めて、何でも吹くようになってよ。才能もテクニックもあっからよ、残念だべ。今からでも習えるんだけどなす。ハリジーは今でも年に一回こごさくんなだけど、1分もしねえで帰んなよ。よっぽど忙すいんだねえ」
と皮肉を込めていうのを、わたしはただ黙って聞くしかなかった。彼女のこの容赦のないハリジー評がわたしにとっては最も印象深い。
その後も何度かピーターのレッスンにくっついて彼女のアパートを訪れたが、たいてい他の音楽家たちのうわさ話か害のないおしゃべりで過ごした。当時わたしが日本での演奏活動の手助けをしていた彼女の弟子、アミット・ロイのことなどが話題になったこともあった。ルーシジーの部屋に泊まっていたサロードのアーシシ・カーンと思いがけず出くわしたこともあった。アーシシ・カーンはわたしの好きな演奏家で、彼の日本ツアーを作ったり、AFOインド公演で出演してもらったこともある。ピシュマーの訪問はたいてい深夜に近かったが、どういうわけか彼女は常にキッチンにいてチャツネ用のコリアンダーを刻んでいた。
会場に戻ると次のプログラムがすでに始まっていた。わたしの前の座席にアヤミとトモコが座っていた。
「エアコンがきつうて」
といって二人は隣の席に移ってきた。楽屋口からラグーに入れてもらったという。
舞台では、大きな近眼鏡をかけた60代の男が若いハールモーニアム奏者の伴奏でタブラ-ソロを披露していた。スレーシュ・バーイー・ガーイトーンデーである。ゆっくりしたティーン・タールの変奏だった。なんとなく同じパターンに聞こえていたが、指を折って数えてみるとかなり複雑なことをやっていた。側頭部にわずかに残る細い白髪が力を入れるたびにそよぐ。力みのない淡々とした演奏には気品と威厳が感じられた。スピードが増してくると聴衆はどんどんとを引込まれ、ときおり歓声が上がった。彼は約90分休みなく演奏したが、あっという間に終わったような感じだった。あれほど長時間のタブラーソロは初めて聞いたが、まったく退屈しなかった。ラグーが「オレのグルジーの演奏はすごいぞ」といっていたが、その通りだった。神戸に住むブーシャンが弟子入りしたいといったタブラー奏者であることを思い出した。
タバコ休憩で外に出ようとごったがえすロビーを歩いていると、ローヒニーの夫キショールがわたしを認めて近づいてきた。
「久すぶりだなっす。元気そうでねえが」
「んだっす。旅行代理店の景気はどうだ」
「共同経営してだシャルマーと縁を切ったがら、今は自宅でやってるなよ」
こういったキショールは以前よりも元気がなかった。30代前半で10人以上のスタッフを雇い旅行代理店を切り盛りしていたころは、小柄だが肩の怒った体から放射されるエネルギーが見えるほどだったが、今は中年らしく落ち着いた表情だった。外でタバコを吸っていると、シャイアンとユミの姿が見えた。
相変わらず楽屋裏を動き回るラグーをつかまえ
「ヨーゲーシュはもう来たが」と訊いた。
「さっきだ着いで、今楽屋さいっこで。行ってみろ。ほら、そごだ」
6畳ほどの楽屋の入り口は、脱ぎ捨てられたサンダルが散らばり人だかりがしていた。中をのぞくと、敷き詰められた布団の上にぎっしりと男たちが座り、真ん中でシタールを抱えたシャーヒード・パルヴェーズを取り囲んでいた。入り口に背中を見せてタブラーのチューニングをしていたのがヨーゲーシュ・サムスィーだった。背中越しに名前を呼んだ。彼は、眼鏡をかけた細長い顔を後に回してわたしを確認し、
「あれーっ、ヒロスでねえが」
といって握手の手を伸ばした。彼の顔を見るのは2000年の東京でのコンサート以来だった。頭を下向きにして調弦していたシャーヒードがじろっとわれわれを見た。わたしは、ヨーゲーシュに「後でな」
といって楽屋を離れた。彼らの出番が迫っていたのだ。
ラグーが、スレーシュ・バーイー・ガーイトーンデーと立ち話をしていたので近づいた。ガーイトーンデーの側には小柄な夫人が寄り添っていた。灰色の髪を後ろに束ね、額の中央に大きな赤いビンディーを描いている。共に大きなめの眼鏡をかけていて上品な表情をしている。ラグーが、
「オレのグルジーだっす。これはヒロス。ハリジーの元でバーンスリーば習ってんなよす」
と紹介してくれた。ガーイトーンデーがにこにこして了承してくれたので夫婦の写真を撮った。あなたに弟子入りしたいと望んでいるインド人タブラー奏者が日本に住んでいると申し述べた。ほほう、という顔をしたガーイトーンデーは、
「いづ連絡すてもいいがら。ラグーがら連絡先聞いてけろ」
幕の降りた舞台ではシャーヒード組が準備中だった。カメラを持って近づいてきたわたしを見たヨーゲ-シュが、
「いづからこごさきてんなや」
とか
「どごさいんなや」
などとタブラーを叩く合間に聞いてくる。わたしは適当に受け答えしつつシャーヒード組の写真を間近から撮った。念入りに調弦するシャーヒードと目が合った。彼は一瞬にやっと笑顔を見せた後、再びペグに手をやってじっと音を確かめていた。隣に座るヨーゲーシュがインド人にしては色白なのでシャーヒードの褐色の肌が際立つ。圧倒的な自信による岩石のような存在感。同時にちらっと傲慢さも垣間見えた、ような気がした。ヨーゲーシュの右手には、目つきの涼しげな青年がシタールを抱えて座り、やはり念入りにチューニングをしていた。
幕が開く前に急いで席に戻った。19時50分に幕が開いた。まず、袖から登場したルーパクが演奏者一人一人に花束を渡した。そこから演奏開始までが長かった。もういいだろう、といいたくなるほど念入りな調弦、マイクやモニタースピーカーのバランス調整、再び調弦の最終調整。実際の演奏が始まったのは20時10分だった。聴衆はそれをじりじりしながら待った。
アーラ-プが始まった。短いフレーズが何度も繰り返される。しかし一つ一つのフレーズは少しずつ変化した。そしてまたチューニング。彼は音程に異常なほど厳密だった。チューニングが落ち着いてくると次第にラーガの構造が花開いてきた。最初は分からなかったが、ラーガはシュヤーム・カリヤーンだった。前に座る男の耳元で、
「シュヤーム・カリヤーンだなっす」
というと
「んだっす」
と頷いた。
演奏はアーラ-プ、ジョール、ジャーラーと続き、彼の醸し出す音楽に聴衆が徐々に引き寄せられていった。巧みな技術と表現力が素晴らしい。たまに与えられてソロを弾いた青年のシタールも魅力的だった。ガット部分は、まずヨーゲーシュのソロから始まった。ぎりぎりまで押さえられていたバネがはじけるような歯切れのいいタブラー・ソロが会場を圧倒する。ヨーゲ-シュは一段と成長したようだ。ゆっくりとしたティーン・タールから始まり、テンポが少しずつ加速されていく。終盤のテンポはものすごいスピードになった。すべてが終わった瞬間、会場から拍手の波が沸き起こった。時計を見ると、9時23分だった。急いで楽屋へ行き、すぐに帰るというヨーゲ-シュに携帯の番号を聞いた。彼は今、プ-ナに住んでいるという。
舞台では最後の出演者であるキショーリー・アモーンカルの準備が進行していた。スタッフ楽屋にいたローヒニーが、
「ヒロス、腹減ったべ。スージーだ。食ってけろ」
と紙皿を手渡した。バイクの後ろで抱えて運んで来たものだ。スージーを急いでかき込み、まだ幕が降りている舞台へ行った。あこがれのキショーリー・アモーンカルは、まだ平台には座っていなかった。タブラ-、ハ-ルモーニアム、ヴァイオリン、二人のタンブーラー兼伴奏女性声楽家たちが座って準備していた。タブラー奏者は、ずっと以前にキショーリーのコンサートで伴奏していた男だった。専属なのだろう。ヴァイオリンとハ-ルモーニアム伴奏者は若い男だった。そこへ、鮮やかなえんじ色の絹のサリーに黒いショールを羽織ったキショーリーが、ゆっくり登場し中央に座った。細面に白濁半透明フレームの大きな眼鏡が光る。束ねた艶のある漆黒の長い髪がうなじの部分で黒いショールに潜り込んでいた。彼女は60代半ばのはずだが、白髪はまったくない。染めているのかもしれない。下向き加減でタンブーラーの音をじっと聞いていた彼女は、後ろを振り返り、女性からタンブーラーを受け取って調弦した。その様子を撮影した後、急いで自分の席に戻った。
幕が開き、カークーが各演奏者に花束を渡した。ピンクのシャルワールを着てピンクの口紅をつけたラグーの娘ルルが、けなげに助手をしていた。シャーヒードがそうだったように、キショーリーも、調弦やマイク、モニタースピーカーの調整に時間をかけた。彼女はとくにスピーカーから出る音質にこだわっていた。自分の出力をもっともっとと要求するので、ときおり鋭い強烈なハウリングのキーン音が鼓膜を直撃する。
9時50分にキショーリーの演奏が始まった。聞いたことのあるラーガだった。使われている音は分かった。しかしラーガの名前が分からなかった。彼女の音の動きを追ってノートに採譜した。隣に座った若い女性が、キショーリーの動きに会わせて口ずさんでいた。顔立ちが演歌の小林幸子に似ている。
「声楽をやってんながっす」
「んだっす。今演奏してんのが先生だっす」
「ああ、んだがっす。道理でなあ。とごろでよ、今歌っているラーガ分がんねえけど、知ってんべが」
「サンプールナー・マールカウンスだっす」
そういわれて気がついた。彼女のCDにあったことを思い出したのだ。そうか、サンプールナー・マールカウンスだったのか。それにしてもややこしいラーガである。深夜のラーガであるマールカウンスは5音音階だが、キショーリーはそこに2音加えた。マールカウンスの雰囲気を保ったまま、その2音をときおり混ぜ込んでいくのだ。
黒く長い髪、面長の小さな顔、どこかジプシーの星占い師のような雰囲気だ。額には真っ赤な丸いビンディーが描かれ、左右の薬指の指輪がときどききらっと光った。光沢のあるえんじ色のサリーと黒いショールの組み合わせが美しい。スヴァラマンダルを抱えるようにして歌う姿も美しい。ときどき咳をするが気になった。しかし声の強さ、魅力は変わらない。高音域の声がとくにパワフルだった。長いフレーズが繰り返される。彼女は息が長い。何時間でも聞いていたい声だった。
斜め前に座っていた男がわたしを見て、
「あれっ、イギリスで会ったヒロシでねえが」
という。去年(04年)10月の七聲会ウィットビー公演のときに楽屋で会ったヴィーレーシュワル・ガウタムだった。パンチパーマの、ちょっとオカマっぽい視線の男だ。
「オメに何度かメール送ったけど戻ってきた。近くのアンデーリーさ住んでっから、遊びに来てけろ。一緒に何か演奏して遊ぶべ」
「んだな。19日だど都合いいけどな。電話すっから」
こう答えたが、訪ねるかどうかは未定だ。
キショーリーの演奏は、ゆっくりとしたティーン・タールから中テンポのティーン・タールで演奏を終えた。続いて演奏した短めのラーガ・ブーパーリーのバジャンが終わったのは、11時35分だった。とても幸福な100分間だった。
キショーリーの余韻に浸っていると、トモコがアヤミを伴って最前列から移動してきた。
「なんか、寒気するんやわ。早う帰って寝ますわあ」
彼女はこういって楽屋口から出て行った。楽屋に残っていたラグーはじめクルカルニー家の面々に挨拶した。ラグーが訊いた。
「今日は泊まってえぐんだべ」
「明日レッスンがあっからよ、今日は家さ帰る。帰国前日の20日にまだ行ぐがら」
ラグーやローヒニーと会話していると、日本人らしい青年が近づいてきた。
「初めまして。中川さんですね。菅野といいまして、アララカの学校でタブラーを習っています。こんなところでお会いするとは思っていませんでした。本もってます」
インドの音楽会ではこんな風に必ず誰かに会う。油断がならない。菅野君はすがすがしい感じの好青年だった。
キショーリーの楽屋に押しかけたシャイアンとユミに合流し、オートリキシャでボーリーワリー駅へ。電車に乗り込むと、なんと先に出たはずのトモコとアヤミが同じ車両に乗っていた。
われわれの電車はアンデーリーからいきなり急行になり、ヴィレー・パールレー駅を猛スピードで通過してしまった。バーンドラ駅で下車し、文句をいう運転手を無視してタクシーに無理矢理5人座りジュフへ。タクシー代(180ルピー=450円)はわたしが支払った。
長い一日だった。1時30分就寝。