2005年1月18日 (火)-最後のレッスン

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 6時30分起床。朝の練習後、一人でグルクルへ。シャイアンとユミは朝食をとるために外出していた。india05  

 グルクルの玄関のところにサミールが立っていた。

「今日5時半がらこごでびっくりパーティーあるなよ。ハリジーの祝い事だ。本人には教ぇでねえがらいわねでけろな。オメ、来っぺ」

 彼がなんとくこそこそと告げた。

●最後のレッスン

 レッスンは、ラーガ・ビーンパラースィーのアーラ-プ、ジョール、ジャーラ-、ティーンタールのスターイーと第二テーマの練習だった。タブラー伴奏はナヴィーン青年。

 レッスンの途中、ヨップ・ボールとドゥルガー夫人(といっても多分オランダ女性)、黒いティーシャツ姿でちぢれ髪のちいさなお下げをしたアメリカ人ジャズサキソフォン奏者が訪ねてきて、一時レッスンが中断した。

india05 ヨップ・ボールはロッテルダム音楽院のワールドミュージック科のディレクターだ。サーランギー演奏家と同時にインド音楽研究者でもある。ハリジーがロッテルダム音楽院で教鞭をとるようになったのは彼の推薦によるものだ。赤に近い茶の縮れた髪が広い額の後方にふわりと伸び、ライオンのたてがみのようにたなびかせている。度の強い近眼眼鏡、鼻髭周辺に目鼻がちまちまと集まっているが、一見して学者風の落ち着いた表情だ。彼とは、96年のセミナー「インディアン・ミュージック・アンド・ザ・ウェスト」の席で言葉を交わしたことがあった。

 ハリジーが

「次のレッスンは1週間後だべ」

 といったので、この日がわたしの最後のレッスンということになった。ということは生徒仲間に会うのも今日で最後だ。フランス人のエミリー、レイラン、ギョ-ム、スウェーデン人のリカルド、リタ、ネパール人のスニ-ル・シュレースター、イスラエル人のアルノン、住み込み生徒パールト・サルカール、サミール・ラーオ、ヴィシャール・ヴァルダーン3人組、インド人のアヴィラ-ム、オーストリア人のレナータ、ハンガリー人女性、シアトル在住アメリカ人のナッシュなど、一人一人と住所の交換をした。ハリジーにもわたしが21日に帰国することを告げた。

 生徒同士の会話でレッスン室全体がざわざわとなった。ヨップと話していたハリジーが、急に手を叩き全員に呼びかけた。

●今から館内ツアーだ

「今から館内ツアーだ。見だい人はオレの後さついてきてけろ」

 室内にいた全員が彼の後をついて、まず地下室への階段へ向かった。Gurikul1.JPG

 降りたところは、ハリジーの数々の賞状、トロフィー、写真、絵画などで壁面が飾られた縦長の広い空間だった。レッスン室の真下にあたる。

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 ハリジーは

「こごに舞台ば作ったらコンサートでぎんべ」

 と説明した後、続いて

「こごは、ライブラリーだ」

 と書棚を指差した。棚は書籍かまばらに立てかけてあるだけだった。

 細長い広い空間から奥に進む。録音スタジオだった。マンゴー模様の赤い布が張られた天井から数個のダウンライトがベージュのコンクリートの壁面を照らしていた。机の上にミキサーなどの簡単な音響機器が重ねてあった。india05

 われわれはぞろぞろとハリジーの後をついてさらに2階にあがった。住み込み生徒の居住室だった。それぞれの部屋のドアにはシャドジャ、リシャッブ、ガーンダーラ、マディアマというヒンディー語の部屋名が書かれてあった。その上、つまり3階部分にはパンチャムとニシャーダという名のゲストルーム。これらの部屋名はドレミファにあたるインド音名である。ドレミでいえば、2階にド、レ、ミ、ファの4間、3階にソ、シの2間ということになる。宿泊室は6部屋なので1オクターブは完結しなかったようだ。8畳ほどの部屋は、ベッドと机があるだけでシンプルだ。

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 われわれは再び1階に戻った。階段を下りきったところが広いキッチンになっていた。宿泊者たちはここで食事を作る。食器や道具類はすべて戸棚に収まっていてすっきりしていた。ぴかぴかの電子レンジがよく目立った。キッチンの隣はクリシュナ・ラーダ-神像の安置されたプ-ジャー室、その奥がレッスン室になる。

 レッスン室へ出入りするドアを抜けると、ハリジーのプライベード空間だった。中2階がオフィスになっていた。小さな机の上にコンピュータがぽつん置かれただけの小さな部屋だった。

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「グルジー、このコンピュータ、自分で使うのがっす」

 と尋ねると、

「まさが。こげな年寄りには使うのは無理だべ」

 と笑い飛ばした。

 階段を上りきった正面がハリジーの寝室兼居室になっていた。出入り口を入った右手には、ソファー、テレビ、カセットやCD収納棚などがあった。壁にはシヴジーと写っている古い写真が飾ってあった。寝室としては相当広いが、全体に清潔でシンプルだった。贅を尽くしたという感じではない。最近のハリジーは、奥さんと息子夫婦が住むカールの家にはめったに行かず、もっぱらこの部屋で寝泊まりしているのだという。

 一通り全館を見終わりプージャー室の角で記念写真を撮って解散となった。

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 india05 ジュフのシャイマール食堂で、ネパール人のスニ-ル、アルノン、トモコとタ-リー定食を食べた。

 ジョーティに戻って4時半まで昼寝。サミールが「祝い事」だといっていたので舞台用の絹のクルターに着替え、待ち合わせていたトモコを待った。時間になっても彼女が現れないので一人でグルクルへ向かった。

●ハリジーの祝い事びっくりパーティー

 グルクルには何人かの生徒たちがすでに来ていた。アヴィシャーの姿も見えた。彼女が今日の「びっくりパーティー」の主催者だった。彼女に聞いて、祝い事の中味と「びっくり」の意味が分かった。ハリジーがウッタル・プラデーシュ州(UP)のサンギート・ナータク・アカデミー(SNA)のチェアマンになったのだ。これまでチェアマンのポストは役人か音楽学者だった。ハリジーのような現役の演奏家がつくのは初めてとのことだ。SNAというのは、音楽、舞踊、演劇などのパフォーミング・アーツの普及促進と研究のために1953年に創設された政府機関である。ニューデリーに本部があり、全国の州都に支部をもつ。UPは、ガンガー中流域の広大な平原に広がる人口約1億4千万の巨大な州。人口でいえばインド最大である。ヒンドゥー教の聖地であるバナーラス、タージ・マハルで有名な都市アーグラー、ハリジーの生まれたアラーハーバードもこの州にある。ハリジーの音楽家としてのキャリアや年齢を考えれば名誉職といっていいかも知れないが、インドの文化行政の一翼を担う機関の長に指名されことは、本人はもとよりわれわれ生徒にとっても喜ばしいことだ。

 生徒たちも次第に集まってきた。ルーパクやラーケーシュの妻、息子、母親、ハリジーの奥さんのアヌラ-ダ-、長男のチンクーと妻と娘も姿を見せた。前妻の息子たち家族以外のハリジーの家族はほぼ全員顔を見せたことになる。

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チンクーと
奥さんのアンヌージーと

 約10年ぶりに会ったチンクー(ラジーヴ・チャウラースィヤー)は、すらっとした長身と整ったハンサムな容貌はほとんど変っていなかった。イギリスの大学の経営学修士を持つ彼は、つい最近までアメリカのMTVに勤めていた。インドに戻ってきたが、インドで仕事を探すか、再びアメリカへ渡って雇い先を探すか、自分のビジネスをするか、まだ決めていないという。父親の跡を継いで音楽家になることはまったく考えてないしその才能もないといっていた。MTVの仕事の関係で日本人ビジネスマンの知り合いもいるという。

 そのチンクーの母親アヌラ-ダ-は、以前より体重を増やしていた。膝が悪いので自分の体を動かすのに不自由だと気ぜわしげにぼやく。高飛車で気ぜわしい話し方はちっとも変っていなかった。「ヴィレー・パールレーのコンサートのときにオメば見だよ」

 彼女がわたしを見ていった。

 レッスン室に集まった人々ががやがやと会話をしているところへハリジーが現れた。

「あれっ、みななにしてんなや」

 アヴィシャーがみなに目配せしてハリジーに告げた。

「コングチュレーション、グルジー」

 これに合わせてみなも口々に唱和した。

「コングチュレーション、グルジー」

「えっ、なんのごどだ」

「サンギート・ナータク・アカデミーUPチェアマン就任のお祝いで今日はみんな集まったなよす」とアヴィシャーが説明した。

「あららー、んだったながす。たまげだなあ」

 そのアヴィシャーと奥さんからそれぞれ差し出された花束をハリジーは神妙受け取った。ついでルーパクがココナツの殻、オイルランプ、小さなお菓子のプラサードを盛ったステンレスの皿をハリジーの前にかざした。

india05 その「儀式」が終わるとハリジーはいつもの椅子に座った。集まった人々が床に座り輪のように取り囲んだ。アヴィシャーやチンクーが、就任の感想や抱負などについて質問した。ハリジーが答えた。

・・・自分はUPの出身だ。だからこのような仕事を任されるのはいいことだ。多分、月に1回ほどアカデミーのあるラクナウへ行くことになるだろう。SNAは多額の予算をもつ政府関係機関だが、最近はほとんど初期の目的に適うような活動はしていない。役人が無益に禄を食んでいるだけだ。また、実際の音楽や舞踊などのための空間や宿泊施設などももっていない。単に事務所があるだけだ。それではよくないので、教育施設が併設されるべきだ。とはいえ、指名されたばかりなので、行ってみなければどういうことができるか分からない。できるだけのことをしたい。・・・india05

 プロ用のビデオカメラをもった男が、ハリジーが語っている様子や人々を撮影していた。テレビ局の取材だった。ハリジーがしゃべっているとき、ラーケーシュの息子が前に出てきて、たどたどしくいい出したのでみなは爆笑だった。

「オレも、オ、レも、バーンスリー吹けっぺ。ね、トウチャン、んだよね」

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 わたしがハリジーに尋ねた。

「最近、シヴジーの自伝ば読んで興味深がったげど、グルジーはそういうもんば書くつもりはねえながす」

「オレにとってそういうものば書ぐ意味はねえな。誰かがオレのごどば書いでるねでだけどな。オレにはよ、音楽すかねえべ。んだがらオレが自分で書ぐごどはねえべな。シヴジーみでに、最近は名なすた音楽家が自伝ば出版すんのが流行ってるみでだげど、どこで生まれたどか、どげにして大きくなったなんて、そげなごど何が意味あるんだべが」

 ハリジーはちょっと不機嫌な表情を見せてこういった。シヴジーのスマートなやり方への対抗意識がどこかで働いていたのかも知れない。

「外さ飲い食いするどごば作ったがらみんなそっちに移ってけろ。お祝いのパーティーだべ」

 こうアヴィシャーが全員に申し述べると、ハリジーは椅子から立ちあがり彼女に続いた。

「さあみんな、わらわら外さ出で食うべ」

 敷地内の一角でケータリング業者が軽食を調理していた。マサーラー・ドーサイ、イドリの他に甘いお菓子のグラーブジャーム、ジャレービーなどがサービステーブルに並んでいた。参加者は、食べ物を盛った紙皿を手にもって立ち話。

 裾の長い白いクルターでばりっと決めたルーパクが、

「3月によ、イギリスがら友人が声楽を習いに来んなだげんど、ヒロシ、どごが下宿先ししゃねが」 

 と訊くので、ジュフのブローカーのことを教えた。

india05 古いニコンの一眼レフを首から下げたカメラマンが記念撮影するというので、参加者が再びレッスン室へ移動した。いろんな人間が勝手にああしろこうしろと配置を指示するので、なかなか配置がまとまらなかった。すったもんだの末、撮影は無事完了。テレビ局のスタッフがハリジーにインタビューを行うのを、われわれは取り巻くように見守った。散会したのは8時すぎだった。

●ドゥルバのアパートに立ち寄った

 トモコとドゥルバのアパートに立ち寄った。ドゥルバは、ロンドン在住アメリカ人のニコラスにラーガ・バーゲーシュリーを教えているところだった。50歳くらいのニコラスは、自嘲、皮肉、自信が混然とした渋い顔をしていた。サーランギ-で博士論文を書いたという。妻が古いカヤ-ルのテキストを研究しているといったので、ひょっとするとネルーセンターで会った女性が妻だったのかも知れない。彼のサーランギーは技術的にはかなりの水準だ。ただ、全体に音程が甘い。フレットのないサーランギーは正確な音程を維持するのがとても難しいので、まだまだ修練が必要だろう。

 レッスン中もドゥルバの携帯電話がしょっちゅう鳴り響き、そのつど中断された。ニコラスが帰った後も居残って冗談をいい合った。ドゥルバが、途中にかかってきた電話に長々と応対し、終わりそうになかった。微妙な話題だったのか、彼は電話を耳に当てながら、ちょっとゴメン、といって奥の寝室に引っ込んでしまった。いつ終わるのか見当もつかないので、何もいわずにアパートを出た。トモコをアパートまで送った後、ジョーティに戻った。

 12時ころ就寝。

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