2005年1月20日 (木)-買い物と挨拶訪問
6時起床。シャワーを浴びようと給湯器の蛇口をひねったが、冷たい水が細々と出ただけだった。サーモスイッチを何度いじっても状況は変わらない。小さくて不格好な給湯器に毒づきつつ冷たい水のシャワーで体を洗った。インドにはまともに機能する温水シャワーはあるのだろうか、バーロ。
10時近くまで練習。ダイニングテーブルでチャーイを飲んでいると、ユミがアジャンターへ行くにはどうしたらいいかと訊いてきた。ハリジーの次のレッスンは25日なのでそれまで旅行に出たいという。
「夜行バスで往復2晩、ホテル探しなどにに1日はかかる。ということは、実際に現地にいるのは2日間だけということになりますね。アジャンターで1日、エローラで1日というのはちょっともったいないんじゃないの」
われわれの会話を聞いていたナーギー夫人がいった。日本語の会話がどうして分かったんだろう。
「ヒロスのいう通りだっす。あそごは遠いがらなす」
「カアチャン、アジャンターてなにがあんなや」
ルーマ-が割り込んできた。
笑顔だったナーギー夫人は、一転して夜叉のような表情でルーマーを睨みつけていった。
「オメは黙ってろず」
アジャンターやエローラ旅行についてナーギー夫人とわたしがあれこれ話しているうちに、家主のスィン氏とシャイアンが加わり、なんとなく一家団欒の雰囲気になってきた。
ナーギー夫人が小箱に入った写真をテーブルに広げた。彼らの家族写真だった。
夫人が25歳のときの結婚式の写真。夫は当時32歳だったという。二人とも美男美女で輝いていた。場所は近くのサン・アンド・サン・ホテルだ。夫人がそれを見せながらしみじみいう。
「若がったなあ、あのころは。もうオレも53だっす。パンジャーブがらムンバイさ嫁いできたんだけども、あれ以来実家には帰ってねなよす。昔はよ、すごぐ貧乏でよ。サンダルも一足しかなくてねえ、壊れるまで履いてだもんだっす。今では、服の色さ合わしぇでいろいろな靴をもっているす、服もいっぱい持ってんなだげんど、あんまり幸せでねえ。この娘いっぺした。んだがらどごさも行がんにぇすよ」
彼女は、シャイアンたちの旅行計画をうらやましく思い、いかに現状が厳しいかをわれわれに訴えたかったのだろう。
「オレだのごとば忘しぇねでけろな」
それまで黙って座っていたスィン氏が、不気味な視線でわたしをじっと見て突然いった。
「オレだもオメだば忘しぇねがら、オメだもオレだば忘しぇねでけろなす」
「オメは何、バガ語ってんなや。みんな忘しぇねごで」
ナーギー夫人がこういうと、スィン氏は「んだな」とぼそっと応えて席を立ち外へ出て行った。
「トウチャンは今、仕事ねなよ。建築会社やってだんだけど、会社の金ば持ち逃げしたのがいで、今は家に金もねなよす」
ふらっと出て行ったスィン氏を見ていたルーマーがいった。
「オメはまだいらねごどは語って。黙ってろず」
ナーギー夫人がこういって、ルーマーの頬をぴしゃっと平手打ちした。
それまでの和やかな雰囲気が一瞬で凍りつき、われわれ間借り人たちはきまり悪くそれぞれの部屋に戻った。
ドゥルバに電話した。
「スワパンダーがら電話あってよ。明日はNCPAのコンサートさ行がんなねぐなったがら、オメば空港さ送って行がんにゃぐなったなよ。悪いげんど」
「ああ、んだが。さすけねごで。大丈夫だ」
スワパンダーというのは、有名なタブラー奏者スワパン・チャウドリーのことだ。
1時、アヤミ、トモコと一緒にシヴ・サーガルでランチ。わたしはウタパム、トモコが春巻きドーサイ、磯貝は焼きそば、デザートに三色クルフィー。
アヤミはちょっと落ち込んでいた。グルジー、つまりドゥルバのすごい演奏を聞けば聞くほど、サーランギ-であんなことができるようになるのかと絶望的になるという。わたしもハリジーに習い始めたころは同じように思ったことがあった。師匠との圧倒的な力の差を見せつけられれば誰でもそう感じるのかも知れない。ただ、そう感じるのは、自分の修行程度を客観的に見ることができてきた証拠だ。同じことの繰り返しのなかから確実な獲得感が得られれば、このような絶望感はクリアすべき目標に変る。アヤミの絶望感は誰しも通る修行のプロセスなのだ。
食後、わたしはマラードのショッピングセンターへ買い物に行くつもりだった。前にハリジーのコンサートのあった巨大ショッピングモールだ。二人も一緒に行きたいというのでオートリキシャ3人乗りでマラードへ行った。
巨大な店内の2階にあるBOSEの店を覗いてみた。ノイズキャンセリング・ヘッドフォンがひょっとして安く売っているかも知れないと思ったのだ。若い店員に見せてもらったが25,000ルピー(=62,500円)もしたので買うのはあきらめた。日本よりもずっと高い。3階の大きなCDショップPlanetMでCD数枚と映画「ショーレー(炎)」のDVDをカードで購入。下関の平岡さんから頼まれたラーケーシュのCDはなかった。1階のクロスワード書店でヒンディー語版インド人名辞典を探した。売れ筋の英語本しかなかった。CDコーナーを覗くと、なんとキショーリー・アモーンカル、パルヴィーン・スルターナーのDVDがあったので即購入した。
いったんジョーティに戻り、再びドゥルバに電話した。ピライ博士に購入を依頼していた本が事務所にあるので取りにくるようにとのこと。オーストラリアの音楽学者Michael Kinnear著の『The Gramophone Companyユs First Indian Recordings 1899-1908』のことだ。インド音楽の商用録音最初期のデータを網羅した本で、当時のラーガの種類や演奏家などを知る貴重な資料だ。
SMBのピライ博士の事務所でその本を受け取り、近くのバス停で203番の2階建てバスに乗った。ボーリーワリーへ行くには混雑した電車よりもバスが便利で安い、というピライ博士の助言にしたがったのだ。1時間で着くということなので、ラグーには7時ころに着くと電話した。
やってきたバスの後部出入り口はものすごい混雑だった。乗客の隙間を強引にかいくぐりなんとか2階席前部まで進んだ。ほどなく最前列席に座ることができた。2階建てバスの2階最前列から下界を見下ろすのは気分がいい。蟻の群がる地面を歩く象のような感じだ。幹線道路であるSVロードに入ったとたんバスの進み方がミリ単位になった。自家用車、トラック、オートリキシャ、タクシー、荷物を山のように積んだ手押し車などが隙間なく道路を埋め尽くし、全体がほんのわずかしか動かなくなった。車列は歩道や車の間を行き交う人々の歩く速度よりも遅くなった。交差点の信号を守るものは誰もいない。誰も他者を顧みないオレガオレガワレサキ状況が事態をいっそう悪化させていた。路上で最も大きなわが2階建てバスは、前の車との隙間を埋めるべくのっそり動くのだが、めざとい小型車がその隙間に突っ込んできて進行を阻んでしまう。前方のはるか先まで同じような状況なので、ラグーに予告した時間に到着するのは絶望的になった。
ボーリーワリー駅のバス停で降り、オートリキシャを拾ってラグーの家に着いたのは、はたして9時をまわっていた。たかだか10数キロの距離を移動するのに実に3時間かかったことになる。
「7時に来るど思って待ってだんだけど、何があったなが。みんな心配してだなよ」
玄関に顔を出したわたしにラグーがいった。事情を話すと、
「すかだねなす。ムンバイの交通事情は救いようがねえがらな」
と苦笑いだった。居間には、カークー、アボーリー、ルルとラグーの一家が揃っていた。カークーがすっと立ち上がってキッチンへ行き、チャーイを持ってきてくれた。
「ところで、この間のコンサートで聞いだプラバーカル・カーレーカルのラーガ・ガーウティーはえがったなあ」
「ああ、んだったな。んでも、あれはガーウティーでねえよ。確か、ビームだそ。ルル、ほらそごの本はよごしてけろ」
ルルが差し出した大判の分厚い本をパラパラとめくったラグーが、
「ほれ、見てみろ。こごさガーウティーとビームの違い書いてあっぺ。ビームだったんだ、あれは」と該当するページを指差した。
たしかにヒンディー語で書かれた音の動きの解説を読むと、あのとき聞いたのはラーガ・ビームだった。それにしても、ラグーが参照した本はラーガを調べるのに実に便利なようだ。365種のラーガそれぞれについて、使用音、動き、テーマ曲、時間帯、他の同種ラーガとの違いなどが簡潔に記載してあった。茶色の表紙に『シュルティ・ヴィラースShrti Vilas』のタイトル、シャンカル・ヴィシュヌ・カーシーカルの著者名がヒンディー語で書かれてあった。
「こげな本知しゃねがったなあ。いいなあ、こりゃあ。欲しいなあ。どごで手に入るんだべ」
「確か、ダーダルのハリーバウ楽器店に売ってだど思うげんどな。待てよ、近ぐの本屋にあっかもすんねがら聞いでみっから」
ラグーはこういって何カ所か電話で問い合わせたが、ないようだった。
「明日フライトだがら、ダーダルまで行って買ってくる時間ねえな。それにしても欲しいなあ」
わたしがこういうと、ラグーがちょっと思案していった。
「オレだは代わりの本ば買えっから、オメこれ持ってけ」
これを聞いたルルが口を挟んだ。
「ええ、その本はオレも使うんだよお。困るう」
「大丈夫だ。代わりのばすぐに手に入っから」
ラグーがルルにいった。
「えっ、んでもこの本代くらいのルピーもねぐなったすな」
とわたしがいうと、
「持ってってけろ。金もいいがら」
といって本をわたしに差し出した。
結局、その本をもらうことになってしまった。わたしは何度も礼をいい、その重い本を膝の上に乗せた。マルハールジーに、リマイのバーンスリーや塩ビのケースをもらったときのことを思い出し、クルカルニー家には本当に頭が下がる思いだ。
カークーが、
「これも持ってけ」
とマルハ-ルジーの記念冊子を差し出した。めくってみると、後半部に外国人の弟子としてわたしの名前もマラーティー語で記載されていた。わたしがレッスンを受けている古い写真もあった。
ルルが、
「オレの詩ば聞いでけろ」
といって立ち上がり大きな声で詩を朗じ始めた。ラーガの名前を連ねた自作の詩だ。真剣な表情で朗じるのでけなげで可愛い。アボーリーとラグーがすごいだろうという目でわたしを見た。詩を読み終えたルルにカークーがいった。
「オメの作った曲もヒロスに聞いでもらったいいべ」
ルルは顔をパッと輝かせ、急いで部屋からCDを持ってきた。叔母のニヴェーディターの音楽教室に通う生徒たちの演奏をCDに焼いたものだった。ところがCDプレーヤーがない。ラグーの車か事務所のコンピュータでしかかけられない。どうしても聞かせたいルルは事務所の鍵をねだるが、ラグーは笑って取り合わないので膨れっ面になった。それをみんなが笑う。アボーリーがルルにいった。
「カーカーが亡くなったとぎの詩もあんべ。あれ、読んできかしぇろ」
気を取り直したルルがまた立ち上がって詩を読んだ。
その後、1歳のころテレビから流れる歌のトゥ・ルー・ルーという歌詞を何度も歌うのであだ名がルルになったこと、薬瓶に入れていた噛みタバコをルルが隠してしまいそれをマルハールジーが必死に探したこと、カークーがいたずらして歌口に薬をつけたのでバーンスリー嫌いになり結局タブラ-の道に進んだラグーの話など、家族の思い出話で盛り上がった。ここの家族は本当に仲がよく笑いが絶えない。
ローティー、ダ-ル、ニンジンのハルワーという実に質素な夕食をいただき、11時ころ電車に乗ってジョーティに戻った。ルーパクの家に寄りたかったが、時間が遅すぎた。12時半就寝。