2011年9月10日(土)

 機が下降を始めた。窓からまばらなオレンジ色の線が見えた。高速道路の街路灯だった。車はあまり見えない。機は低層の住宅街の上を降りていった。噂の世界一高いビルらしきものは見えなかった。

ばかでかいドバイ空港

 機は予定よりも1時間近く早くドバイ空港に到着した。午前4時10分だった。
 乗り継ぎ表示に従って長い距離を歩く。空港の建物はモダンだが、建築的に強い印象はない。普通の近代的なピカピカした空港だ。1階、2階にある出発ゲートの数がものすごい。しかも出発ゲートは建物にそって直列に並んでいる。そのため建物全体が細長いデザインになり、建物内の移動距離が果てしなく長い。周囲は砂漠で土地はたっぷりあるわけだからゲートを放射状に配置することはできたであろうに。
 トランジットの指示に従って両側に免税店の並ぶ広い場所に出た。デュッセルドルフ行きのフライトは予定では8時20分。時間はたっぷりある。フライト情報板にゲート表示がなかったので、7時30分に白いベンツ前集合ということで解散した。
 ドバイ空港の広さは想像を超えた。深夜にも関わらず免税店はどこも開いてにぎわっていた。電気屋でパワーポイント用のポインター(69DHM=約3600円)を購入した。周辺の免税店をぶらぶらと眺め歩いた。どの空港でも同じように、ブランド品の化粧品、電気製品、高級アルコール類、タバコなど。買いたいと思うようなものは何もない。
 フライト情報板を見ると、デュッセルドルフ行きの出発ゲートが138番と表示されていた。ひょっとするとお坊さんたちも向かっているかもしれないと思い行ってみることにした。ベンツのある2階をずっとずっと進むと1階のゲートに降りるエスカレータがあった。出発ゲート100番台はすべて1階になるのだ。かなりの距離を歩いてようやく138番に着いた。しかし乗客らしい姿はなく閑散としている。まだ時間はあり余るほどなので、来た道を戻る。
 途中にイギリス風パブがあった。中をのぞくと人がタバコを吸いながら談笑している。2階で訊ねたときには喫煙場所はないと聞いたのでうれしくなり、中に入って一服した。英語で話す30代後半くらいの白人女性二人が座っていた。その横でタバコを吸った。彼女らは南アフリカ人で、ビジネスで中国に向かうという。
 パブを出たところにも喫煙所が何カ所かあったので頭にメモした。1階のコンコースをひたすら歩き2階の白ベンツのあたりに出ようとした。しかし、途中あってもいいはずの2階に上がるエスカレータもエレベーターも見当たらない。1階2階の連絡通路が1カ所であるはずがないという思い込みが間違っていたようだ。結局行ったり来たりで1時間以上は歩いた。
 最初に使ったエスカレータを探し当て2階に出てまた延々と歩きようやく白ベンツの場所にたどり着いた。白ベンツの待ち合わせの場所と138番ゲートはどうやらこの縦に長い空港の両端にあるらしい。ものすごい距離を歩いたことになる。
 集合時間の7時半にはまだ時間があるので、当然誰もいない。歩き疲れて床上にある鉄パイプに腰を下ろして周囲を見渡すと、石川の姿が見えた。同じようにパイプに腰を下ろしてヘッドフォンで音楽を聴いていた。そのうち、河合と和田がやってきた。他のお坊さんたちも138番ゲート行きの途中にいるはずだというので一緒に移動し、彼らに合流した。聞けば彼らは、エミレーツの機内食バイキングができる待合所を発見し、そこでたらふく食べてきたという。「みいーんな、タダ」「腹パンパンやわ」。池上と橋本が憎々しげにいう。うーむ、めざとく見つけるなあ。

怒りの搭乗手続き

 8時ころ、搭乗案内のアナウンスがあった。われわれも列に加わった。外に出たところでバスに乗込む。他の空港だと搭乗機までせいぜい数分だが、10分くらいかかった。曇りガラス越しに大きな搭乗機が見えたところでバスが停車した。ところがすぐに開くはずの扉が開かない。30分ほどその状態だった。ほとんどの乗客は立ったままだ。と、バスが動き出した。なんとバスが引返すではないか。アナウンスがないのでどういう事情なのかまったく分からない。機体かセキュリティーに問題が発生したのかもしれない。バスは来たときと同じルートをたどり10分ほどで到着ゲートに着いた。
 バスから降りたわれわれは「138番ゲートに向かうよう」と指示された。再びセキュリティーチェックを受けて長い道のりを歩いた。乗客はどうなってんだ顔でゲートに到着し、搭乗の指示を待つ。やはりこの間、何の説明もない。しばらくして、フライトが10時30分になったとのアナウンスが聞こえた。乗客から「ええっー」という声が聞こえた。
 隣り合った席にインド人女性と男の子が座っていた。女性にヒンディーで話しかけた。プネーからだという。2歳だという息子のアルナヴがなついてきた。ヒンディー語が分からないようだ。ラップトップをにらんでいた若い父親が「僕らはマラティー語なので」という。
 搭乗案内で人々が動き出した。さきほどと同じようにバスに乗った。同じコースを10分ほど進んで同じ搭乗機に横付けした。20分ほどじっと待った。やはり扉は開かずバスは再び動き出した。あろうことか、バスは同じ道を戻り始めた。ただでさえ待ち疲れの乗客は「ええーっ。嘘やろお」と叫ぶ。そして同じ場所に戻ると再び138番ゲートへ行けとの指示。ここに至り、プッツンした何人かが係員につっかかった。
「いったいどういうことなんだ。何が起きたんだ。さっきのでいい加減うんざりしているのに、この扱いは何なんだ。責任者を出せ。不誠実だ・・・」
 客から抗議を受けた係員はただただ申し訳ないというばかりでらちがあかない。
 再び同じ場所で同じようにセキュリティーチェック。背の高い白人男性が抗議した。
「冗談じゃないよ。おれはもうここを4回も通ってるんだぜえ」
 そして乗客は同じ長いコースを歩いて138番ゲートへ。なんというバカバカしい繰り返しだろう。どの乗客もあきれかえり、不満を述べる。2度も同じコースを繰り返したというのに、やはりなんの説明もない。ゲートに入るたびにふたたびボーディングパスをチェックする。ゲート入り口には何人かの乗客がスタッフに詰め寄っていた。
 しばらくしてアナウンスがあった。
「航空機のトラブルがあった。別の機で12時30分のフライトになった。みなさんには申し訳ない。飲み物を用意しているのでご容赦を」
 説明はこれだけだった。
 係員が紙パック入りのオレンジやリンゴのジュース、ミネラル水を配り始めた。この時点ですでにフライト予定時刻から2時間遅れの10時30分だった。
 猛烈な空腹を覚えた。フライトまでまだ2時間もある。食事に行きませんか、とお坊さんたちにいうと「もう動きたない。ここで待ってますわ」の返事。彼らはたらふく食べていたことを思い出した。

悪運をもたらすのは誰か

 石川と食事に行くことにした。途中タバコを吸って、サンドイッチ屋のテーブルに座った。ツナサンドが700円、ギリシア・サラダが800円。高い。一品ずつ頼んで、二人で分けて食べた。と、コーヒーを運んできたウェイターがトレイを引っ掛けてサラダ用のドレッシングを横倒しにした。どろっとした液体がテーブルに広がった。われわれのズボンに達する前に難を逃れたが、間一髪だった。
「石川さん、なんか運んできていない?」というと「まじでお払いしてもらった方がいいかなあ」と苦笑いしてつぶやいた。
 石川とは9月1日の島根以来ほとんど一緒だったのだが、神戸から大阪市内に入るときの渋滞に始まり、空港から大阪市内を抜けるときも事故で大渋滞に巻き込まれたり、トゥランのビザ不備による出入国問題、台風直撃による庭火祭の中止、神戸へ帰る高速道路の閉鎖(結果は開通したが)などなど、予期せぬトラブルが続いた。冗談で「石川さんのせいかも」といっていたのを思い出したようだ。
 狭い喫煙室では多くのスモーカーが目をしばしばさせてタバコを吸っていた。換気装置が機能していないか、能力が極端に低いのか、部屋中に白い煙が充満していた。デュッセルドルフ待機組のドイツ人、大阪から妹と一緒にデュッセルドルフに住む姉を訪ねにきたという30歳くらいの女性も喫煙室にいた。エミレーツのふとどきな扱いにみな愚痴をこぼした。同じ災難を共有したせいか、乗客同士の間に仲間意識が芽生えたようだった。
 138番ゲートへ戻り、隣に座った女性2人組に訊ねた。「ドイツ語で、何が起きているの、ってどういうの」「あら、わたしたちオランダ人だけど、それってたぶんWas ist Rossかな」と教えてくれた。普段はオランダの小さな町でソーシャルワーカーとして働いている。今回はタイへ2週間行ってきた。チェンマイにも行った、という。
 出発予定の12時30分になった。全員バスへ向かう。これで今日三度目のプロセスだ。バスが動き出した。10分ほど走り搭乗機の横で止まった。止まっている時間がちょっと長い。またか、と思ったとたん先のバスから降りた乗客が搭乗機に吸い込まれるのが見えた。今度は間違いなさそうだ。

ようやく飛んだ

 ドバイとデュッセルドルフのフライトは約6時間。窓からの風景が次第に変化していくのが分かる。まず緑のほとんどない薄い茶色の砂漠。イラク上空になると大地の色が雪と見まがう白に変わった。さらに機はトルコ上空へ。平坦な砂漠から起伏のある地形に変わる。緑は少ないが大小の河川が起伏を縫って走り、小さな集落が点在して見える。そして黒海からヨーロッパへ。次第に緑が多くなり、平野部が続く。ふと真下のドナウ川沿いにブダペストの街が見えた。しばらくすると今度はウィーンが現れた。そして間もなく一昨年公演したクレムスの小さな町並みが見えた。それも3秒ほどで後方に去った。機はなだらかに起伏する緑の大地に点在するドイツの街をかすめ、ほどなく高度を落とし着陸態勢に入った。

ボーフム到着

roland
ローランド

 予告時間より1時間早い午後5時30分にデュッセルドルフ空港に着いた。雨は降っていないがどんよりとして暗い。簡単な入国審査を経てゲートを通ると、ごつい感じの中年男が「Ruhrtriennale」という表示板を掲げて待っていた。われわれの送迎運転手、ローランドだった。縁なし眼鏡、短い白髪に同じ色のひげのやさしい目をした男だ。青みがかった白ワイシャツにジャケットをつけたトーマスも近づいてきた。今回のわれわれの公演担当者である。すらっとした体型で横長の眼鏡、黒い髪は七三に分けられ、ひげも剃りたてだ。ものすごく生真面目な表情をしている。トーマスの横に立っていたのは、黒の長袖Tシャツの上から青いチェックのシャツ、ブルージーンズ姿のひょろっとしたマーセルという日本語通訳。今年4月まで大阪府立大学の学生だったという。目を大きく見開き驚いたような表情だ。彼の日本語は、日常生活は大丈夫だが、ややこしい話は無理のようだった。
 ヨーロッパの涼しく乾燥した気候を期待していたのだが、空港の外に出てみると意外に蒸し暑かった。
 トーマスの車に河合、池上、ローランドのベンツ中型バスに残りが乗込んでボーフムへ向かった。ローランドは、助手席に座ったワダスに言葉を選んで誠実そうに英語で話した。
「このあたりのルール地方は炭坑や製鉄でかつてはドイツ工業の中心地だった。そのため連合軍による徹底した爆撃にあった。したがって、古い建物はほとんどなく、ほとんどの建物は1950年代以降に建てられた」
「自分は生まれも育ちもボーフム。Fiegeといううまい地ビールがあるし、近くにドルトムント、エッセン、デュッセルドルフがあり、それぞれ個性のある文化を持っていてる。どこでも1時間ほどで行けるので、特に何かを体験するために遠くまで行く必要もない。いい美術館もあるし、オペラやコンサートにも行ける。いい仲間も家族もいるし、ボーフムの生活には満足している」
「時間があったら炭坑博物館に行ったらどうか。昔の坑道や炭坑労働の様子がわかる。近くには美術館もある」
 アウトバーンを走り40分ほどでボーフムのホテルに着いた。Hotel Acoraは鉄道高架沿いの主要道路に面した縦に長い5階建てのホテルだった。

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 それぞれシングルの個室が割り当てられた。南、八尾、HIROS以外は1階である。南は4階だったが、ワダスと八尾の部屋は5階の屋根裏部屋だった。5階の部屋のドアは4階にあり専用階段で上がる。大きな斜めの屋根窓からは、数階建て鉄筋コンクリート住宅が見える。みな新しい建物で味気ない表情だ。ただ、どの窓ガラスもきれいに磨かれていて、ドイツ的だと思った。遠くに教会の尖塔が見えた。
 荷物をほどいてすぐに1階の狭いレセプションに集合した。トーマスから日当をもらった。しばらくして、ベルリンから着いたばかりだというクリストフが現れた。今回の七聲会出演を企画したのが彼である。直接会うのは初めてだが何度もメールのやり取りをしたので初めてという印象はない。50過ぎの均整の取れた体、ときおり鋭い視線を投げる。用事のあるトーマス以外の全員でとりあえず居酒屋へ行くことになった。

地ビールで乾杯

 小降りの雨の中、クリストフが市役所周辺まで案内してくれた。灰色をした石造りの無骨な建物が市役所だった。市役所の前が石畳の広場になっていた。広場の左から猛烈なDJの音が聞こえてきた。テントばりの特設舞台が設置され、その周りを若者たちが取り囲んでいた。マーセルが「1週間続く音楽祭の初日なんです」という。地ビールならここ、という市役所横の目当てのレストランが閉まっていたため、Altes Brauhaus Rietkoetterという別のレストランに案内された。薦められるままに地ビールのFiegeでまず乾杯。かなり苦い。クリストフとマーセルが相談してメニューを決めた。地元特産は血のソーセージということらしい。
 クリストフと話す。ベルリン在住の舞台プロデューサー。演劇などを主に扱っているが、たまに今回のような企画も手がける。ドイツだけでなくアメリカや中国などでも仕事をしている。クレムスのジョーのことも知っていた。
 原発の話題になった。彼は、放射能拡散データを隠したり故意に小さく見せる東電、政府になぜ人々は怒らないのかという。チェルノブイリよりもひどいのではないか。大人しい日本人が理解できない。まったく同感だ。気さくにいろんなことを話せる人物のようだった。
 お坊さんたちは、大阪に住んでいたマーセルをいじって盛り上がっていた。
「ガールフレンドはいるんか」
「はい、ええ。います」
「どこに住んでるん」
「岐阜です」
「どこで知り合ったん」
「ええー、あのおー・・・」
 お坊さんたちに仏教の奥深い教えを期待していたかもしれないマーセルは、てんで仏教とは関係のない話ばかりだったので戸惑っていたに違いない。
 土砂降りのなかを走ってホテルに戻り、11時10分あたりで意識を失った。日本では早朝7時である。