ハリジー日本公演1998よれよれ日記 9月21日~10月4日

 5年ぶりにわたしの先生、ハリジーが日本にやってきました。
 本来ならば、19日、20日には韓国公演の予定がありました。ところが、来日2週間ほど前にハリジーから電話が入り、韓国公演は取りやめになりました。
「ヒロシ、助けてくれ。実はオレの勘違いで19日にロンドン公演を入れてしまったのに今日気がついた。向こうはすでに広報が進んでしまっていて、どうにも断れない。どうしよう。韓国公演を延期するとかできないか」。
 どうしよう、といわれても、ソウルや済州島でも公演準備は進んでいるので、わたしも即答できません。結局、韓国公演のスポンサー、徳山謙二朗さんに相談し、キャンセルやむなしとなり、関係者にはご迷惑をかけることになりました。こういうときには、師匠というのは厄介なものであります。師匠でなければ、完全にケリを入れているところです。
 日本公演は、「東京の夏音楽祭93」でハリジー公演を主催したアリオン音楽財団と天楽企画との共同企画制作でした。今回は、現在最も注目を浴びる若手美人タブラー奏者、というふれこみのアヌラーダー・パールがハリジーに同行しました。ハリジーの演奏は、前回よりも技術的完成度と深みがぐっと増した感じでした。以下は、ちょっと長いですが、ツアーのよれよれ顛末です。28歳の若いアヌラーダーの印象が強かったので、彼女の話題が多くなりすぎたきらいはありますけど。


 

 21日早朝、関空着のアヌラーダーを迎えに行きました。「荷物は極力少な目に」と、メールであれほど注意したにもかかわらず、彼女の荷物は、他人の、つまりわたしの腕も計算に入れた多さでした。タブラーの入ったケース、予備タブラー、スーツケース大1、中1、ショルダーバッグ1。ジーンズ姿の彼女は、さっそく笑顔で「ハーイ、ヒロシ。キャン・ユー・ヘルプ・ミー」。先が思いやられる第一声でした。
 関空から日航便に乗り換えて羽田に着くと、さらに二本の腕が待ってたのでわたしはちょっと一安心。アリオン音楽財団の飯田一夫さんが出迎えてくれたのです。小田急センチュリーホテル相模大野にチェックインした後、アヌラーダーとラーメン、中華どんぶりのランチ。「デパートへ行きたい」というので、伊勢丹巡りをしました。女性の買い物につきあうと頭痛のするわたしをよそに、彼女は時計や洋服や習字用筆やアクセサリーなどを執拗な熱心さでチェックしていました。
 東京駅で再び飯田さんと待ち合わせて成田空港へ行き、ハリジーを出迎えました。小ぶりのスーツケースとバーンスリー1本、クルター・パジャマ姿で、到着出口からひょいと現れたハリジーは、目の下を真っ黒にした疲労ぶりでした。それもそのはずです。彼は、19日にロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールのオールナイトコンサートで、20日の早朝に演奏し、ホールからそのまま空港へ向かい、まずボンベイに飛び、そして、深夜12時すぎにボンベイ到着後、自宅で仮眠を取るまもなく、早朝5時のキャセイ便に乗り、ようやく日本に着いたというわけです。19日、20日はほとんど睡眠をとらず、ほぼまる一日、飛行機の座席に座り続けたことになります。
 よれよれのハリジーを部屋に案内したあと、わたしと飯田さんは、近所の居酒屋でインド人演奏家無事到着を祝いて、長かった一日を完結させました。

 22日の朝食の後、毎日新聞社会部山本紀子記者のインタビューがありました。「ひと」欄に掲載された記事は、ツアーもとうに終わった10月14日朝刊に出ました。部屋で休息をとるハリジーとアヌラーダーに、ミルク、ミネラルウォーター、バナナ、ヨーグルトなどを差し入れた後、わたしは、ハリジーの時計修理、アメリカの友人から送られてきたハーブティーのための計量スプーン入手、画家であるアヌラーダーの母親のために買う予定の習字道具店の探索に走り回りました。ツアーでは常にこうした細々としたリクエストのために走り回るのが常なのです。
 一眠りしてようやく体調を回復させたハリジーから早速レッスンを受けました。6時から8時まで。世界のトップアーティストから直に一対一でレッスンを受けることができるのが、このツアーのわたしの特権なのです。怠けていたわたしの練習に強烈な渇を入れる素晴らしいレッスンでした。レッスン後、みんなで近所のイタリア料理店でピザ、パスタのディナー。ここでアヌラーダーは、ハリジーに勧められてワインを飲み、エビの入ったピザを食べ、来日前の宣言「わたしは完全なベジタリアン。酒飲まない。シーフードのアレルギー」がもろくも崩れ去るのでありました。この段階では、思考が柔軟なのか、宣言がいい加減なのかの判断はつきませんでしたが、その後の展開によって後者であることが徐々に明らかになっていくのです。

 23日。前夜に入った音響の川崎義博選手、ハリジーと朝食。「よく眠れなかったし、わたしは10時すぎないと食欲がわかないの」というアヌラーダーは、部屋で寝ていました。
 この日は、グリーンホール相模大野での日本公演初日でした。ホテルから徒歩5分のところをタクシーで10分かけて会場入りしました。楽屋に入ったハリジーがTokyo Journalの取材を受けているころ、アヌラーダーが「わああ、わたしのラハラーマシンのアダプターがなくなった。ヒロシがなくした。どないしてくれるねん」と騒ぎ出しました。タクシーを降りてから楽屋までの間に紛失したようです。彼女は執拗に通過ルートを探索しましたが見つからない。わたしはハリジーと一緒に演奏することになっているので練習はせなあかんし、舞台のチェックはせなあかんし、このツアーに合わせて制作したジーベックのAPAS-CDの販売員安居クンを激励せなあかんし、販売予定のわたしの訳書の到着確認などで、ただでさえ忙しいのに、彼女に引きずられて笛をもったままうろうろなのでした。
 グリーンホール相模大野は思ったよりもコンパクトで、舞台と客席との距離も近く、聴衆には理想的だったと思います。コンサート内容は、前半の、折からの台風到来を意識してか、ラーガ・シュッダ・サーラングの長いアーラープだけの演奏。ついで、なんとか修理したラハラーマシンを使ってアヌラーダーのタブラーソロの後、ラーガ・ビーンパラースィーのアーラープとガット、そして最後に民謡を披露しました。ハリジーのスムーズな音の移動と華麗な旋律は、5年前の来日時よりもずっと深みを増したような気がします。アヌラーダーのタブラーも大受けで、とても女性とは思えない力強さがありましたが、オレガオレガ症候群の傾向も多分に見られました。音響のプロである川崎さんのセットしたマイクを楽器にぐいっと近づけたり、もっと音を大きくしろ、と注文したりするのは、どうもザキールやファザルの悪影響のようです。「伴奏者ではなく共演者であるわたしの弟子、ヒロシ」などと紹介されたわたしは、普段まったく練習していないラーガだったこともありしどろもどろの共演でありました。タンブーラーは、娘、音々(ねね)と一緒にきてくれた吉見泉美さん。公演後、楽屋には多くの人が訪れてとても書き切れませんが、本物のグルジーの前でわたしに向かって「グルジー」などと呼ぶアミットの弟子北田クン、横笛研究会の山口さん、野生尺八と称する大由鬼山さんなどが見えてました。
 公演後は、インド人をホテルに帰して、飯田さん、川崎さん、明日からイギリスなのだといっていた川崎さんの友人の作家、寮美千子さん、そしてホールの担当者中村さんとで打ち上げでした。中村さんは、役所の内部的抵抗をものともせず、ユニークな企画をして頑張っている人です。

 24日は移動日。相模原から新宿の京王プラザホテルに移動しました。近くのイタリア料理店「インフォルノ」でたっぷりのランチをとり昼寝の後、レッスンを受けました。レッスン後、どこで夕食しようかと考えていると、ピットインの本村さんから「今、『鼎』っつうとこで、エミチャン、梅津和時さん、多田さんと飲んでるのよね。よかったらこない」というお誘いを受けました。鼎は、和食系飲み屋なのでインド人にはあまり喜ばしかったと思えませんが、ハリジーは「うんうん、こういうのいいなあ」といいつつわれわれの勧める魚や豆腐を肴に日本酒を飲むのでした。自称ベジタリアンのアヌラーダーは、「これなに、これなに」と出された料理におぼつかない箸さばきで突っつくのみ。途中、別の宴会から抜け出してきた仙波清彦さんも見えましたが、ハリジーに挨拶しただけですぐ帰っていきました。ちょっとトイレ、といったまま行方不明になったアヌラーダー探索などという人騒がせ事件をはらみつつ、東京新宿の夜はこのようにして騒がしく過ぎていくのでありました。

 25日は、調布グリーンホールで桐朋音楽短大レクチャー・デモでした。われわれが到着したときは、桐朋音楽短大の主催者が、午後4時から会場を借りることができなかったということで、大わらわの舞台準備が進行中でした。われわれも、あっちこっち移動させられ、ドタバタしつつなんとか本番には舞台に座ることが出来ました。音楽専攻の学生が主な聴衆なので、最初はわたしがインド音楽について解説しました。後半は、ハリジーが日本民謡の音階と同じラーガ・ブーパーリーをたっぷりと披露しました。聴衆はキャパ一杯の200名ほど。
 AFOで一緒だった梅津和時さん、森田芳子さん夫妻(ヨッチャンは相模原公演にもチラッと顔を見せました)、インド大使夫妻、インド音楽研究会の田中多佳子さん(子連れ)、成沢さん(奥様が桐朋の教授という関係で今回の公演が実現)、相模原からの追っかけで北田クン、東京在住インド人友人などが公演後の楽屋まで駆けつけてくれました。
 打ち上げは、近所の高級純和風料理の「白川郷」。白川の合掌づくり屋敷を移築したという堂々とした料理屋です。学長をはじめとした大学関係者の手厚いもてなしを受けました。「日本のこういう伝統的な場所が大好きです」とハリジーは、竹筒にはいった燗酒を飲んでご機嫌でした。わたしは、自称ベジタリアンのアヌラーダーに、「このいぼのついた食べ物は、日本人の最も好むものである。どうしても食べるべきだ。何事も経験なのだから」とタコ摂食を強要したところ、なんと食べてしまった。あとで、それがタコであると知らされた彼女は、その夜、夢の中でタコにうなされた、といっていました。ひひひひひひ。泉美さんのダンナ、タブラーの吉見征樹選手も打ち上げに参加しました。
 桐朋音楽短大の森下教授、堀悦子教授、山崎さん、野口さん、いろいろとお世話になりました。

 26日は、東京から滋賀県水口町まで移動して公演という強行スケジュールでした。東京の友人に早朝観光に連れていってもらい10時近くにホテルに戻ってきたアヌラーダーの朝食をせかせ、タクシーで飯田さんの待つ東京駅に。生まれて初めて赤帽オジサンの助けを借りて新幹線のグリーン車に飛び乗り、荷物運搬人として大阪から走ってきた寺原太郎車と米原で合流。すぐさまわれわれはタクシーで水口に向かうのでありました。それにしても、この列車移動時の荷物運搬は、アヌラーダーの他者依存的多数荷物のためかなりの苦行でした。このころになると、彼女はわれわれが彼女の重い荷物をもつのは当然であるかのように、まるで女王様のようにわれわれに命令をするのです。
 水口センチュリーホテルに入ると、飯田さんが「昨日から高知に電話しているけどつながらない。で、今日ようやくつながったんですけど、向こうは大変なことになっている。台風で美術館が水浸しになり公演はキャンセルということになりました」と告知。そこで、切符やホテルの手配を変更せざるを得ませんでした。ハリジーにキャンセルのことを告げると「人間が自然に勝手なことをするから、自然が罰を与えたのだ。フロリダやバングラデシュも洪水だし、この現象は世界的なのだ。われわれはこれを受け入れるしかないではないか」とのご託宣。ハリジー(ハリとは神様の意味)の言葉は重々しく響く。
 さて、水口公演は、会場スタッフたちの気持ちのよいサポートもあり、素晴らしいものになりました。このホール2度目のハリジーも、前半にラーガ・マールワーのアーラープ、後半にラーガ・ハンスドワニの素晴らしい演奏を聴かせてくれました。アヌラーダーのソロも、大音響でしたが好評でした。京都からスティーブン・ギル夫妻、たまたま東京からきていた福島出身バラモン行者頭的パーカッションのアサチャンなども見えていました。
 ここで演奏することが心地よいのは、館長の竹山靖玄さんや上村秀裕さんをはじめ、中村道男さんらボランティアスタッフが、みんな本当に楽しんで仕事をやっているのが感じられるからです。とくに今回は、楽屋待機中のわれわれに、なんとあつあつのアルー・パラーター(マッシュポテト入りパンケーキ)とアチャール(漬け物)、スパイス入りのチャイの差し入れもありました。まともなインド風家庭料理に飢えていたハリジーとアヌラーダーは大喜びでした。アヌラーダーは、よほどうれしかったのか、「キャーバート・ヘ(どえりゃーえーが)」を乱発し6枚も食べました。ホール別室での打ち上げは、おいしいパラーターに腕を振るった女性ボランティアが、本格的なカレーも作ってくれて、インド人はご満悦でした。
 この日は、音響の川崎義博選手、寺原太郎・林百合子ユニット、飯田一夫さん、わたしも水口泊。

 27日は、大阪まで移動でした。大量荷物運搬人の太郎君と川崎さんを先に送り出した後、竹山館長に草津まで送ってもらったインド人2名、飯田さんとともに、電車でまず京都へいきました。七聲会の南忠信住職の大光寺へ突然おしかけて、奥様から抹茶を点てていただき、そのあと清水寺を散策しました。晴れていたら、時間をかけてお二人に京都見物してもらおうと思っていたのですが、あいにく小雨がぱらつく天気。また、だいたいにおいて、ハリジーはあまり観光には興味がないのでこのくらいでよかったのかもしれません。
 京都見物を簡単に済ませたわれわれは、大阪に入り、キタの新地のど真ん中にある全日空ホテルにチェックイン。インド人は疲れがたまってきたと見えて、すぐ昼寝体勢でした。夕方から3時間ほどのレッスンの後は、道頓堀の「モティ」で遅いディナーでした。

 28日、わたしはたまった洗濯物をトランクに詰め込んで神戸まで一時帰宅、飯田さんは滋賀方面に仕事、ということでハリジーとアヌラーダーはホテルに放置状態でした。
 自宅に帰ったわたしは、アヌラーダーの「わたしの航空券をハリジーと一緒の便に変更せよ。わたしの家族にこのメッセージをメールせよ」との指令で休む間もありません。彼女の航空券は日程・乗降地固定なので、いくら航空会社に相談しても不可なのだ、と説明しても納得しない。
 夜は、丸ビル地下の「アショカ」でディナー。自宅のお手伝い少年のお土産のためにと、まったく使っていないわたしのカメラをハリジーに進呈するとムチャクチャに喜んでいました。

 29日、フェニックスホール公演。アショカ弁当などをインド人に差し入れして午後まではだらだらと過ごし、4時にホールへ。梅田に近い高層ビルにある300人収容のホールは、ステージの後ろがガラス張りになっていて、聴衆は夜景を見ながら音楽を聴くことができます。普段は、クラシック系音楽家たちのプログラムが組まれていますが、最近はいわゆる民族音楽にも力を入れています。ここで1月に行われた賈鵬芳さんと姜小青さんのコンサートのことは以前紹介しましたよね。
 コンサートは、タブラーソロはなく、前半がプーリヤ・カリヤーン、後半がデーシュ、おまけがバイラヴィ・ドゥーン。クラシックを聞き慣れている担当の赤松さんも、支配人の大矢さんも、ハリジーの演奏を聴いて「すごいね」と感想を申し述べる。
 楽屋には、ソウル公演のスポンサーである徳山謙二朗さんが、済州島公演の主催をする事になっていた金女史をともなってハリジーに会いに来ました。ハリジーは「今回は僕のミスで本当に申し訳ないことをした。今度は絶対にこんなことはない。韓国での公演を楽しみにしている」と弁明しつつ徳山さんを抱きしめていました。他に、住金物産の池田さん、エア・インディアの末永さんなどたくさんの人たちが見えていました。
 大阪でタンブーラーを弾いたのは、太郎君と田中理子さん。ハリジーは、理子という名前をコピー機メーカーのリコーを連想し覚えやすかったためか、大きな声でうれしそうに「リコー」と何度も呼んでおどけるのでありました。
 打ち上げは、ホールのある超高層の同和火災ビル最上階「燦」。徳山さんにいただいた打ち上げ費用を有効に活用させていただき、大阪の夜景を見ながらワインなどをしこたま飲みました。

 30日は、本来は大阪から高知への移動日になっていましたが、高知公演がキャンセルになってしまったので、そのまま大阪に滞在でした。ツアーが始まって以来、ぐずついた天気が続きまともに観光をしていないということもあり、この日は買い物と観光に当てることにしました。
 移動は、寺原太郎くんの軽自動車で、違法5人乗車超過密状態でした。
 まず、日本橋へ行き、アヌラーダーの要望のコンピュータ・メモリを購入。機種やバージョンによってメモリが違う上、彼女の人間不信と安値追求のため、合うものを探すのに一苦労でした。ついで心斎橋の楽器屋でチューナーを購入。ここでも、これはいいけど高い、もっとよくて安いやつはないのか、とてんやわんや。さらに、母親の土産の習字筆購入の段では、筆の品質なんて分かるはずがないのに、初老のやさしそうな店員が出す筆をためつすがめつ検分する。わたしとハリジーはとてもつきあいきれないので、散歩にでました。結局、太郎君と百合子さんの忍耐強いアテンドで購入を果たしたのですが、聞くと、彼女にとっては単に安さが基準だったようです。
 まったく、「目の前にいる人間をすべて召使い化してしまうお姫様」(太郎)のアヌラーダーにつきあうのは大変なのです。それにしても、「女というものはみんな一緒だよ」と、じっと待つハリジーはまったく忍耐強い。
 アヌラーダーの買い物がようやく終わり、海遊館へ向けて出発したとたん、上機嫌の彼女がにわかに「あっ、サングラスがない」と騒ぎ始めました。「わああ、どうしよう、どうしよう。多分、どこかの店に置き忘れたのだ。悪いけど、戻って」「時間もあまりないし、もうあきらめたら」「いや、あれはレイバンなのよ」ということで、サングラス探索行ドタバタ劇の幕が開く。
「タローはあそこ、ユリコはあそこ、ヒロシは私と一緒にあそこ。手分けした方が早い。さあ」と命令を受けたわれわれはあちこちを走り回る。あわれ、インドの人間国宝、世界のバーンスリー奏者ハリジーは、「ったく。しょうがねえな。やれやれ、今日はアヌラーダーデーだな」と車に取り残されるのでした。
 太郎君、百合子さんが見あたらないことを報告すると、まったく二人を信用しないアヌラーダーは、「わたし、もう一度まわる」。結局見つからず、半泣き状態で戻ってきた彼女は、海遊館への道すがらもあきらめきれない。「たかが、サングラスじゃないか。また買えるよ」とわたしがいうと「あれは、特別のグラスなの。ボンベイでバーゲンのときに買ったのよ。デザインも特別だし、もうあんな安い値段で買えないのよ」。これを聞いた太郎・百合子ユニットは絶句状態でした。
 そんなこんなで、海遊館に着いたのは3時過ぎ。「ほら見て見ろ。この魚たちはまるでおれたちの世界のようだ。面白いなあ、な、アヌラーダー。ほれほれ、こっちのも」と海遊館に大感激のハリジーにつられて彼女もちょっと機嫌を戻したかのように見えました。しかし、彼女はしぶとい。ホテルに向かう車で「日本橋の店にいってくれない」と命令を下す。結局そこでも見つからずホテルに戻りましたが、「ヒロシ、もう一度、いった店全部に電話して探してもらうようたのんでよ」という。半ばやけ気味のわたしは「妃殿下の仰せのままに」と返事しつつ何もしませんでした。くたびれつつも印象深い、大阪見物の段でありました。

 10月1日は完全な休養日。彼らが休んでいるあいだ、そして飯田さんが大津で木暮さんとあっているころ、わたしは、ハリジーのリクエストのコンソメ・キューブ、各種麺類、フィルム、アヌラーダーの墨汁などを買い求めに走っていました。
 夜は、タブラーのレッスンにやってきた田中理子さんとともに、近くのお好み焼き屋「千房」でディナー。わたしとしては、人生に二度とない貴重な1998年10月1日の夕食に、その存在すら許し難いお好み焼きを主役にするのは、できれば避けたかった。しかし、案の定、インド人たちはかわいい元気のよい女性の鉄板パフォーマンスと平べったい粉だらけの食物に大満足でした。ま、でも、その平べったい粉だらけの食物は、残念ながら、けっこうおいしかったのです。

 10月2日は、新大阪で太郎君、川崎義博さんと合流し、名古屋へ移動。名古屋観光ホテルにチェックインしたあと、アヌラーダー、川崎さん、太郎君とで、きしめんを食べ、名古屋城見物に出かけました。その日は珍しく晴れていました。「名古屋城でもいってみっか、ふふふ」と提案すると「ぼくも見たことないけどそうしましょうか、ふふふふ」と皆が苦笑して同意する。金の鯱があるだけで、建物が古いわけでも、特別な展示品があるわけでなし、なあーんもないに等しい名古屋城でした。名古屋で名古屋城見物といっただけで苦笑してしまう理由はこの辺にあるのでしょうか。アヌラーダーは、名古屋城より、三人の騎士を付き従えて外出することを楽しんでいるようでした。
 ディナーは、オープンしたてのアミットのチャイ・カレー屋「チャンドニ」でした。彼と裕美さんが購入したというダクリヤ・ビルは、想像していたよりもずっと立派な4階建てのビルでした。93年にハリジー公演を主催した愛知芸文センターの藤井明子さんも合流し、アットホームな雰囲気のよい晩餐会でありました。味もなかなかでした。どんどんはやればいいですね。「内装工事につきっきりで練習もまともにやっていない」という茶髪アミットは、かいがいしく料理やワインを運ぶのでありました。

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 3日、チェックアウト時に到着したレンタカーで公演地、三重県川越町へ向かいました。
 借りた車は、93年にハリジーが来日したときほしがったルシーダ。ハリジーが「わあっ、わっ。いい車だなあ。どえりゃーえーがあ。これを欲しかったのよ」などと後ろからしゃべってきます。顔に、運転したいなあ、という表情がありありでしたので、高速料金所のところで運転を代わってもらいました。ハンドルをもったハリジーは、ほしがっていたおもちゃを手に入れたようなはしゃぎぶり。万が一を考えて、はじめは高速だけのつもりでしたが、あまりに嬉々としているので、会場のあいあいホールまで運転してもらいました。彼のインタビュー(後述)で、「わたしの弱点はクルマ」といっていたのがうなづけます。ボンベイ式運転なのでヒヤッとする場面はありましたけど、安定した運転で目的地に到着しました。出迎えたホールの諸岡さんらスタッフは、インドの人間国宝であり公演の主奏者が自ら運転してきたので、びっくりしていました。
 川越町あいあいホールは、今回のツアーでは一番大きく、数百人規模のきれいなホールでした。アミットをはじめ、インド音楽愛好家が名古屋から大挙してきてくれたので、ほぼ8割ほどの入りでした。演目は、前半がラーガ・ジョーグのアーラープのみ、タブラーソロ、後半がラーガ・ヤマーン。演奏はやはり素晴らしかったのですが、この前半のアーラープが終わり楽屋に戻ってきたハリジーがついにプッツンしました。
「最初は、スバンカルを連れてくるつもりだったけど、仕方がないのでアヌラーダーにしたんだ。いいか、ヒロシ、君もしってるだろうけど、ヒンドゥスターニー音楽のどのアーティストも、タブラーのソロなんか許さないんだぜ。ジャスラージだって、ビーンセーンジーだって。それが、ソロをするのが当然みたいにいう。それに、タブラーの音がうるさい。素晴らしいプロのカワサキがセットしたマイクの位置を勝手に変えるのもよくない。荷物もあんなに多い。それでいて超過重量分を負担しろっていってんだろう、ヒロシに。自分の荷物なんだから自分で払うべきだろうが・・・」と、ハリジーが執拗にわたしの目を捕らえてしゃべりまくる。黙って聞いているわたしは、今朝のやりとりで彼はかなり頭にきてたんだなあ、と思いました。
 朝食のやりとりというのはこうです。ハリジーが
「今日はアヌラーダーのソロを40分くらいやってもらおうか」と出し抜けにいいました。すると、アヌラーダーは、すごくうれしそうな顔をして
「えっ。そんなのないですよ。わたし、全然なしでもいいし。でもハリジーがそういうだったらやってもいいけど」
「でも、もっと長いソロがやりたいっていってたじゃないか、昨日」
「いや、それは、ヒロシもお客さんも、喜んでいたし、中途半端な時間ではソロは難しいということなんです」
「よし、それじゃ、今日は1部はまるまるアヌラーダーのソロだ、な、ヒロシ、いいだろ」。
 ハリジーにこんな風にふられてしまったわたしは、びっくり。
「えっ、そんな。ダメですよ。今回のツアーはハリジーのものだし、お客さんも納得しない。これまでのように10分くらいのデモンストレーションであれば問題ないけど」
 するとハリジーは
「そうだよな。なっ、アヌラーダー、ヒロシはこういってるけど、どうする」
 失望の色を隠しきれない彼女は
「ええ、わたしは問題ないけどお」
 ハリジーは、わたしの存在を計算に入れつつこの会話を始めたのだなと、そこで分かったのでした。ハリジーは、あれほどのスターなのに、面と向かって他人を非難することをしないタイプなのです。
 というような、ハリジー楽屋プッツン情況がありましたが、公演そのものは大成功でした。主催者の諸岡さんはじめ、川越町の助役さんまで楽屋を訪れ、サインや記念写真をせがんだりと大騒ぎでありました。
 公演後、急いで荷物をまとめたわれわれは、すぐさま神戸へ移動でした。
 今回のツアーでは最もハードな移動です。道中、強引にわたしのCDを聞かされたハリジーは「うん、いいね」などと相づちを打たざるを得なかったのですが、内心は運転したくてたまらない表情をしています。名神のサービスエリアで、合い挽きミンチ混入マーボー丼を食べたハリジーに再びハンドルを代わってもらいました。どうでもいいけど、ハリジーと一緒に「これ、すごくおいしい」と2杯もマーボー丼を食べた「完全ベジタリアン」のアヌラーダーは、ついに禁断の牛肉まで食べてしまったことになります。彼女も本当は肉が好きなのです。
 助手席に移動したアヌラーダーは、めいっぱいのボリュームでラジオをならしました。なんと、ハンドルをもつハリジーは音楽に合わせて上体を揺すり始める。後部座席に座る飯田さんの、きわどい追い越しのたびの「うひゃーっ。おーお」悲鳴をよそに、インドの人間国宝はるんるん気分で名神を快走するのでありました。わたしも気が気でないのでハリジーの後ろからひたすら前方を注視していました。神戸に着いたのは、深夜1時でした。
 インド人をパールシティーホテルに送ったついでに、すでにチェックインをしている仙波清彦師匠を訪ねました。ずっと一人で部屋で飲んでるの、ヨメさんは明日くるのよね、と申し述べる。

 4日は、日本ツアー最後のジーベック公演でした。
 わたしがホールにいったときは、仙波さんと笛の福原寛さんがリハーサル中でした。センバ新妻の香織さんも、ほにゃら~んと見物。
 仙波さんたちとアヌラーダーのセッションをやってもらうことになり、彼女と打ち合わせをしました。仙波さんの、わりに複雑なミニ・オレカマのリズムパターンを彼女に覚えてもらう。「よし、わかった」とパターンを一度聞いた彼女。仙波さんが「あのお、メモとか必要ないの」と聞くと「覚えましたから、ノープロブレム」と自信たっぷりにいう。しかし実際は、何度リハーサルをしても細部が不安定で、本番でも彼女は間違っていました。ま、本番のセッションはそれなりに面白くお客さんも楽しんだと思いますが、仙波さんやわたしの意図する緊密さには欠ける嫌いはありました。
 約3時間におよぶ久しぶりのジーベック公演は、ツアー最後でかつわたしの制作ということを意識してハリジーは力の入った演奏を披露しました。ツアーでは一番よかったと思います。
 1部が仙波清彦+福原寛による解説を交えた歌舞伎音楽のデモ。仙波さんのおもしろ解説もよかったし、なによりも歌舞伎の音楽に触れたことがよかったと思います。ジーベックのスタッフ森信子さんによく似たつるり清涼顔の福原さんの笛の音色が実に美しかった。
 1部の最後に、彼らとアヌラーダーのにわかセッション。相変わらず彼女はマイク位置を勝手に変えるので、タブラーの音がムチャクチャに大きくなってしまいました。バーロ。
 2部は御大によるたっぷりのヒンドゥスターニー音楽。長いアーラープのラーガ・マドゥヴァンティ、ついでラーガ・ヴァーチャスパティ、最後に民謡のおまけ。この民謡のとき、タンブーラーの弦が切れてしまいました。ハリジーが弦を張り替えているとき、わたしに「民謡だ、民謡だ。なにか吹いてなさい、適当に」と命令する。ハリジーのイメージとなるべく違わないようにおそるおそる吹き始めたわたしは、ハリジーがすっと自然に参入してきたので一安心でした。
 ジーベックは、いわばわたしのホームグラウンド。たくさんの友人知人がコンサートにきてくれました。クラット・ヒロコさんと早苗姉妹+藤本君、お母さんの富美子さんの山中ファミリー、今年はじめから体調を崩していたミッチャンと明子さんの岡山シスターズ、アショク・クマールインド総領事、ラリタ・パテル、ダンスリーの岡本さんを通じて最近知り合ったチャーリー・フュネス夫妻、川崎宅にしばらく居候しているマルセイユのフランソワーズ、民族楽器収集の立田先生などの他に、民博にデモンストレーションで訪れている驚異的循環呼吸笛のモンゴル青年などなど。
 打ち上げは、三宮のガンダーラでした。スタッフも入れて相当な人数になってしまい、ほとんど貸し切り状態でした。さらに、寺原太郎・百合子ユニット、仙波さん、福原寛チャンが我が家で二次会。早朝3時くらいまで、アヌラーダー論などで盛り上がりました。

 5日、ホテルにハリジーを訪ねて、碧水ホールの上村秀裕さんに頼まれていたインタビューをしました。内容はわたたしのホームページにアップしていますので、閲覧可能な方は是非ご覧になって下さい。こちらへ
 この日は、わたしは奈良・明日香村石舞台で、舞踊家の山田セツ子さんの音楽を慧奏さんと演奏することになっていましたので、あわただしくハリジーとアヌラーダーに別れを告げ、奈良へ急ぐのでありました。また、この日の夜に「ゲイロード」で行われることになっていたインド総領事主催のレセプションには、大急ぎで奈良から帰ってきましたが、タッチの差で間に合いませんでした。

 6日、早朝に起きたわたしは、関空までハリジーを見送りにいきました。今回のツアーは、高知キャンセルあり、運転あり、アヌラーダーへのプッツンあり、などなど彼にとってもいろいろあったと思いますが、それなりに満足してお帰りになったと思います。
 関空から戻ってホテルにアヌラーダーを訪ねると「もう、ハリジーもいっちゃったのね。今日と明日は、わたしは独自に街を散策するので、ヒロシを解放する」と、願ってもない姫のおごそかな許可。もっとも、あれこれと小言をいって召使い化を拒否するわたしと一緒にいるのを避けたかったのかもしれません。

 8日、彼女のフライトが全日空だったので、K-CATでチェックインできたのはよかったのですが、来日したときよりも荷物も増え、超過重量が許容量を超えてここで一悶着。「ヒロシが払うべきだ」「増えた分は個人的なものであるからそんなものは払う義務はないのだ」「そお~んなあ。だあってわたしもうお金ないし」「ったく、もう、しょうがねえな」最後までオレガオレガ一方的願望達成姿勢を貫き通して、われらがゴーマン姫、アヌラーダーはインドへ帰ったのでありました。彼女には、人間を信頼し、他人の話をもっと聞くようにと最後の説教をしましたけど、分かったかなあ。

サマーチャール・パトゥル第24号から