七聲会をめぐること1

京都大原三千院

 ずっと前から、声明の中心地として有名な大原を一度は訪ねてみたいと思っていて、その念願がかなった。4月のなかごろ、京都大原の三千院に初めていってきた。4月に入って寒さがぶり返したため、普段ならとっくに散っていなければならない桜の花がまだ残っていた。今では京都の観光寺院の主要なひとつとして拝観する客が絶えまなく訪れ、他の名刹同様なんとなくざわついた雰囲気だ。しかし俗世から離れた静かな大原の里は、かつては僧侶たちの音楽修行には最適の環境であったにちがいない。
 三千院のパンフレットには、「大原の地一帯は、千有余年の昔から魚山と呼ばれ、天台声明(仏教音楽)の修行の地として盛え、極楽往生を願う人々の信仰を集めたところです。上院の来迎院、下院の勝林院をはさんだ、律・呂(りょ)の二川の川面に、深い樹立ちに、さらには路傍の石に至るまで、僧侶の唱える声明の音が響きわたったことでしょう」とある。
 この説明を読むまで、大原には魚山という山があるのかとわたしは思っていた。しかし別にその名の山があるわけではなく、このあたり一帯をいう地名らしい。ともあれ、この魚山という地名は、声明修行の中心地として広く知られていたので声明の代名詞のようになってきた。宗快上人(13世紀)の『魚山目録』、密教系の『魚山 芥集(たいがいしゅう)』などの声明集に冠されて使われている。
 魚山には、来迎院をはさんで律と呂という二つの細い川があった。この律と呂というのは、声明だけでなく日本の伝統音楽の基本的な旋法の名称である。この旋法に関しては、詳しくまた触れたい。

魚山

 ところで、この地名はもともと日本のものではない。古代インド人のコスモグラフィー上の須弥山(スメール)の周囲にある九山八海の第7番目の地持山という山の形が魚に似ていることからきているという記述が倶舎論にあるという。また、中国にも同名の山が山東省にあり、大原のそれと同様に声明の根本道場として有名だということである。その魚山と仏教音楽は、そもそもは中国の故事からの連想でつながったようだ。その故事とはこうだ。魏の武帝第四子に曹植という人がいた。曹植は天才的博学者で、仏典もすらすら読めたという。あるとき、その曹植が魚山を訪れたとき、空中から梵天の響きを聞いた。深く感動した彼はそのメロディーを写し取り声明の譜を制定したという。
 天台声明の根本道場である大原は、このように古代インドのコスモグラフィーや中国の伝説と関係が深いのである。こじつけになるかも知れないが、わたしが声明に興味をいだく理由のひとつも、インド古典音楽と声明がともに古代インドの世界観や音楽観を通して接点をもっているということからきている。

最も古い音楽形式

 さて、お経や声明など、言葉に節をつけて唱えられる形式が何千年も続いていることは驚きである。これらは、お坊さんたちにとっては日常的なものであり、音楽であることすら意識することは少ないかも知れないが、現在まで続く音楽としては世界でも最古の形式のひとつであろう。古代インドのバラモンたちのヴェーダ詠唱もいまだに続けられているし、その伝統の流れにある日本仏教の声明も延々と命脈を保っている。古代インドの音楽理論書『ナーティヤ・シャーストラ』(紀元2~6世紀に成立)などに記載されたものから想像すると、時代によって途中さまざまな変化はあったにせよ、音楽的な基本構造は古代のそれとそう著しく変わっていない。エンタテインメントとしての音楽は、インドではその後、複雑な理論をともなった芸術形式として整えられ現在の古典音楽にまで続いているが、古代インドにおいてバラモンたちが唱えたやり方が一方では日本仏教の読経や声明にまでつながっていると考えるとその伝統の時空を越えた息の長さに驚いてしまう。

声明への興味

 仏教のお坊さんたちが唱えるお経や声明にわたしが興味を覚えたのは、インドから帰国して初めて企画した催しがきっかけである。87年に知恩院の大殿前で行われた「三上人大遠忌記念印度西域音楽法要/天楽西来(てんがくさいらい)」である。それまでは、僧侶の唱えるお経を「音楽」として意識的に聞いたことはなかった。わたしは、おそらく一般の人たちもそうであろうが、それらを音楽とは考えたこともなく、まず思い浮かべるのは葬式や法事であり、「抹香くさい」というイメージの域をでなかった。しかし、お坊さんたちとリハーサルを重ねるうち、音数が少なく変化にも乏しいはずの単声合唱から何重にもたちのぼる倍音と肉声の大きな量感に接し、音楽的な感動を覚えた。また、お坊さんによって読経や節回しに「じょうず、へた」があること、お坊さんたちの仲間内でそうした「じょうず、へた」とお経の「ありがたさ」が話題になることもあることを知った。こうした体験は、仏教の儀式が音楽や所作を含む「総合的」なパフォーマンスであること、木魚、鉢、拍子木、大小の鐘などの仏具がヴォーカルの伴奏用パーカッションであることをあらためてみなおすことになった。

世俗音楽の源泉、宗教

 こうした見方はなにもわたしの「発見」でもなんでもなく、あたり前のことを単に知らなかったというだけである。声明と仏教はもとより、西洋音楽の源泉であるキリスト教や、歌舞音曲を否定しながら美しいアザーンをもつイスラームなどの例をもちだすまでもなく、もともと宗教と音楽は不可分の関係だといってもよい。そして、エンタテインメントとして自立しているかにみえる世俗音楽の源泉のひとつはつねに宗教であった。日本の伝統音楽にとっても、声明やお経の果たした役割は大きいといわれている。仏教音楽研究者の故大山公淳は『仏教音楽と声明』のなかで「多くの日本声楽の基礎の中その多分は声明に由来すとさえ考え得られる」と述べているし、民族音楽研究に大きな足跡を残した故小泉文夫も、歌謡曲や民謡のもとは声明であろうと考えていた。
 お経や声明は信仰や布教や儀式の手段としての音楽ではあるが、それを修行した僧侶たちのなかには、音楽そのもののもつ美しさに惹かれたものも多かったに違いない。また、そうした人々によって創作された音楽が一般の人々と信仰をつないだことであろう。凝然大徳(1321年没)の『声明源流記』には「声相清雅にして諸人の耳を悦ばしめ音体哀温にして衆類の心を快からしむ」というような記述がある。大原に仏教音楽院ともいうべき勝林院(1014年開基)を開いた寂源、来迎院(1098年開基)を開いた良忍も、「諸人の耳を悦ばしめ」「衆類の心を快からしむ」音楽としての声明をより深めたいと思った僧侶たちだったろう。 

現代の声明

 その寂源や良忍の時代からほぼ一千年たった現代でも、声明の伝統は生き続けている。最近では海外でも声明の公演が行われるようになった。現代音楽の作曲家たちによって新しい声明も作曲されている。しかし、それを唱える肝心の僧侶たちは、それまでの伝統に安住し、みずから新しい工夫や創作をする意欲に乏しいようにみえる。伝統というものは、しっかりした伝統的規則にしたがいながら演奏それ自身が常に新しいインド古典音楽のように、新しい演奏解釈や創作に寛容でなければ死んでしまう。宗教とのつながりからすればなかなか簡単にはいかないかもしれないが、美しい音楽である声明がより広く「諸人の耳を悦ばしめ」「衆類の心を快からしむ」ためには、やはり僧侶たちの創意と工夫が要求されるだろう。
「七聲会」というのは、京都の若手浄土宗系僧侶たちの声明練習グループである。昨年来、この「七聲会」の声明や礼讃の録音を京都のお寺で行っている。知恩院の「天楽西来」で覚えた声明に対する感動、インド音楽と声明の親近性、そして上に書いたような伝統に対する危機意識がこういうことを続けている動機である。
 というわけで、呂律のまわらぬ駄文ひらにご容赦を。