七聲会をめぐること4 現代の声明

復元された「極楽声歌」

 昨年の11月、大津市の伝統芸能会館で、数百年ぶりに復元されたという「極楽声歌(ごくらくしょうか)」を聞いた。これは、声明研究で名高い片岡義道によって復曲されたもので、20名余の天台真盛宗の僧侶、13名の雅楽演奏家たちによって演奏された。「極楽声歌」は、前回にも触れた真源の「順次往生講式」(1114)に収められているものである。歌詞は和文によって書かれているので和文声明といわれるが、雅楽といっしよに唱えられるところに特徴がある。歌詞の内容は、阿弥陀仏への礼讃、浄土へのあこがれを願望するものである。プログラム解説によると、当時のヨーロッパですら、管弦楽付きカンタータともいうべきものが存在していなかったので、「極楽声歌」はおそらく世界で最も「進んだ」音楽だったという。
 聞いてみると、雅楽のゆったりした楽音にのせて唱えられる声明の響きからは、平安のみやびさと荘厳な香りがたち登り、一気に850年前にタイムスリップしたような気分にさせた。舞台の僧侶たちと雅楽演奏家たちの華やかな色彩の衣装もきらびやかで、簡素を旨とする能舞台と好対照であった。
 さて、この「極楽声歌」は、宗教儀式であると同時に、一種の芸術的パフォーマンスである。それが「次第に演奏されなくなり、遂には完全に忘れられて今日に到った」(プログラム解説)のはなぜであろうか。さまざまな理由が考えられる。費用のかかる儀式の維持運営に必要な経済的状況の変化、主催者や鑑賞者の嗜好の変化など。「極楽声歌」にかぎらず、歴史の舞台から消えていった伝統芸能は無数にあるが、それぞれに消滅の必然性があったために今日まで残ることはなかったわけである。しかし、後世の人々が、歴史に埋もれていた伝統を掘りかえし、新たな生命力を与えることもときとしてありうる。「極楽声歌」がそのような伝統の儀式あるいは芸能の一つになるのか、今後をみないとなんともいえない。わたしが「極楽声歌」を聞きながら思ったことの一つは、いかに魅力的であっても伝統は永遠のものではないということである。

声明の復興と国立劇場の果たした役割

 さて、復元された「極楽声歌」でも主要な役割を果たす声明の伝統は、これまでの千年以上の歴史的社会的な変化にもかかわらず、現代においても特殊な儀式および芸能の一様式として生きている。しかし、現実には真剣に研究し実践する僧侶たちや鑑賞する人たちがきわめて少なく、かなり特殊な伝統として認知されているにすぎない。こうした現状で、かつて「諸人の耳を悦ばしめ・・・衆類の心を快からしむ」(凝念大徳『声明源流記』)音楽であったこの伝統が、芸術パフォーマンスの一つとして、また、人々の信仰のつなぎ役として生き生きと復興することは可能だろうか。
 寺院の中の儀式において歌われる音楽が、一般の人にも聞くことができるようになったのは、1966年に国立劇場公演として登場してからのことである。声明という言葉がある程度一般化したのも、国立劇場公演のおかげだといってよい。国立劇場では以来、コンスタントに各派の声明を中心とした仏教音楽が紹介されてきた。これらの公演では、国立の劇場という性格から、仏教音楽の宗教的な側面よりも芸術的なそれに光があてられている。

現代音楽の表現語法としての声明

 この一連の公演ではまた、石井真木、近藤譲、藤枝守、西村朗、高橋悠治といったいわゆる現代音楽の作曲家たちにも声明を一つの音楽語法とした作品が委嘱され、発表されている。もちろん、それぞれの作曲家によって取り組み方に違いはあるが、日本古来の伝統である声明の音楽語法を現代的に取り込み、新しい表現の可能性を提示している。たとえば石井真木は、「聲明の伝統音楽的な側面と現代音楽の統合(integration)が意図されているが、これはまた、蛙の詩による『宗教と芸術』の複合的な統合であろう」と述べ、草野心平の現代詩「蛙の声明」の朗読や吟詠を中心とした作品を発表している。また、高橋は、「夢記切(ゆめのきれぎれ)」という作品を書くにあたって、「伝統とは距離をとってたよらず、といってその破壊・解体・現代化でもない。・・・作曲は音響空間の設計図を書くことよりは、行事の式次第案の提出に似ている」と、作曲態度を述べている。このように、作曲家たちは、それぞれ独自のアプローチをしているが、声明を新しい音楽表現の一つの語法として取り上げようとする態度は共通している。
 こうした劇場公演を通して、仏教には豊かな音楽が存在していること、そして声明が現代の音楽表現の一つの語法として可能性をもっていることが広く知られるようになった。また、声明は日本だけではなく欧米においても注目され、Shomyoとして認知され始めている。現にアメリカ人の作曲家、リチャード・タイテルバウムは声明のための作品を書き、それが東西ベルリンの壁に隣接したカトリック教会で1983年に演奏された。一方、声明に対するアプローチは作曲家たちだけではない。昨年ジーベックで行われた七聲会の公演で共演した桜井真樹子のように、ほとんどが男性の僧侶たちによって歌われる声明を音楽として専門的に学習し、独自の公演活動を行うものまで出てきている。

七聲会の公演と今後

 わたしの関わっている七聲会も、こうした流れの一つとしてとらえることができる。昨年ジーベックホールで行った「天界音楽」は、ささやかな新しい音楽的試みをめざしたものであった。そのチラシのコピーに、ちょっと大げさで乱暴だが、わたしはつぎのように書いた。「1.あらゆる日本の声楽伝統の源流といわれる声明を伴った浄土宗法要の実際 、2.単音合唱の一様式としての声明のこれからの可能性を、日本唯一の女性声明師である桜井真樹子さんの実験的な試みとともに提示する、3.共に古代インドの音楽伝統を元にそれぞれ発展してきた声明とインド古典音楽との合奏によって、死後世界である(古代のインド人の想像した:筆者追記)浄土の音楽を想像してみる」。
 声明は、男性による単声の斉唱ではあるが、きたえられた僧侶の発声法、重層してたちのぼる倍音、長い歴史を経て生きてきた伝統の重み、内在する宗教性などによって、他の音楽表現にはない濃密な音楽空間を創出する。それは、音楽的な感動と同時に、われわれ現代のせわしない日常を平安な非日常へと誘い、生や死といった絶対性を考えさせる空間である。わたしは、こうした音楽空間をできるだけ多くの人にも体験してほしかったのである。
 また、インド音楽との合奏は、単に仏教のルーツがインドだからという理由だけではない。インド音楽と声明には、音と音を重層させるハーモニーの考えがなく、基準音を中心として旋律が上下するという音楽的構造上の共通性がある。また、基本的に即興の音楽であるインド音楽には、合奏にたいする柔軟性がある。プログラムの一部では、七聲会の声明とともに、シタールとバーンスリー(竹の横笛)が、声明と共通する音階型(ラーガ)で演奏された。合奏形態の構成はまだまだ考えなければならない点は多いが、一つの試みとしてはある程度今後の方向性を示し得たのではないかと自負している。

伝統のインサイダーとアウトサイダー

 これまで紹介したように、声明は現代芸術パフォーマンスの表現語法の一つとしてある程度は認知されてきているかに見える。しかし、こうしたアプローチをしてきたのは、いわばアウトサイダーである。もちろん、なかには新しい声明を作曲家に委嘱し、それを寺院の儀式に取り入れている例はあるというが、声明の伝統を受け継ぐインサイダーの僧侶たちは、これまではたいていパフォーマーに徹している。それは、アウトサイダーたちによる「新声明」の寺院の儀式へのフィードバックにも、インサイダーが自ら「新声明」を創造するのにも、それまでの慣習と伝統という厚い壁が立ちはだかっているからである。しかし、儀式や声明が、その発生から今のような形であったわけではない。たとえば、日本語で歌われる和讃などは、それまでの漢語や梵語の声明を「正統」とみなす僧侶たちからは、伝統を逸脱したものとして異端視されたに違いない。わたしは、声明という素晴らしい伝統が、「極楽声歌」のように完全に忘れられることなく、今後も生き生きと続くためには、アウトサイダーのアプローチと同時に、インサイダーの積極的な取り組みと変革への寛容さが必要だと思う。かくいうわたしは、アウトサイダーであり、インサイダーからみれば、言うは易し、といわれそうな気がするが。