七聲会をめぐること2 仏教世界は音楽だらけ1

浄土にも音楽が

 僧侶たちによって唱えられる経典を含め、おびただしい数の仏教経典には音楽に関する記述が数多く見られる。たとえば、先日録音した七聲会による『仏説阿弥陀経』にも、われわれの死後世界である浄土には霊妙なる音楽が流れていることが述べられている。
 このお経は、漢文のために意味がよく分からないこともあって、僧侶たちによって唱えられると荘厳な印象を受ける。しかし、書かれていることは、浄土の具体的な描写が主である。浄土には、底に純金の砂のある美しい水で満ちあふれた池があり、水面には、黄、赤、白、青色の蓮華が浮かび、池の周囲は四辺が金、銀、瑠璃、水晶でできた階段である。四辺が階段状になった池というと、かつて3年ほど住んでいたベナレスの沐浴場を思い出すが、おそらく似たようなものであるかもしれない。そして、天楽つまり天の音楽が常に流れている、という描写がそれに続く。
 天楽のジャンルにはもちろん触れていないので、それがジャズなのかロックなのか演歌なのか西洋クラシックなのかレゲエなのかネーネーズなのか津軽三味線なのかは分からない。ただ、このお経を書き記したのは古代インドの人々であるから、天楽というのは当時のインドの音楽なのであろうと思う。さらに数節あとには、10万種類の音質をもった天の楽器が奏でられ、樹々につく鈴の網がそよ風がつれて妙なる音がするとある。今でいうアンビエントミュージック風な感じであろうか。
 浄土教の教えではまた、われわれが死ぬとき、楽器をもった楽人を伴った「お迎え」がきて、浄土へ案内することになっている。死んだら無音の場所にいくのかと漠然と思っていたのだが、どうも音楽も聞けるようだ。この『仏説阿弥陀経』に限らず、浄土三部経の他の『無量寿経』『観無量寿経』の描き出す華麗な浄土世界は、音楽だけではなく絵画や彫刻などにも描かれ、日本のあらゆる芸術に大きな影響を与えた。

お釈迦さまは音楽とともに生まれた

 音楽の記述は、こうした死後世界についてだけではもちろんない。とにかくたくさんあるので、仏教世界は音楽だらけといっても過言ではない。大山公淳著『仏教音楽と声明』には、生誕から涅槃までの釈迦その人の周囲にも音楽が常に満ちていた、と次のような逸話を経典から紹介している。
 生まれるとき、白い象に乗り、輝く光を放射する釈迦が、母親の摩耶夫人の夢のなかに現れる。そのとき琴や太鼓や歌も同時に聞こえきたというし、マック起動時のジャーンみたいに、誕生のときにもさまざまな音楽が聞こえた。(『修行本縁起巻上菩薩降神品第二』)。こうして生まれた釈迦は、王子として宮殿で育てられる。王は王子を宮殿にとどめたくてさまざまなアトラクションを用意する。それぞれ千個ずつののハープ、箏、五弦、小鼓、琴、琵琶、細鼓、太鼓、笙、しちりきなどの楽器に、千種類の歌や踊りの用意された管弦楽団室のようなものを宮殿内に設け、四六時中音楽が聞こえるようにした。(『仏本行集経第十四』)。
 こうした音楽だらけの環境で成長した釈迦は、しかし、ある日、楽人たちが眠りこけている隙をついて出家する。出家の理由は、あらゆる人間の苦の原因とその解放の方法を瞑想修行によって探ることにあったが、生まれてからとにかく音楽に囲まれていたので、ちょっとひと休みしたいと考えたからなのかもしれない。
 かくて29歳で出家した釈迦は、6年間の瞑想とヨーガ修行を経て、覚者つまりブッダとなる。35歳のときである。こう書きながらぼくは、うーん、そうか35歳で悟ったのか、46になっても欲だらけの拙者とはえらい違いだなあ、などと考えてしまうのでありました。ともあれ、釈迦のまわりは再び音楽に囲まれる。覚者となったことに歓喜した釈迦は、昼夜を知らず自ら天の楽器の演奏に熱中し、それに呼応するかのように諸天も、花やお香を添えて祝福の音楽を奏でたからである。覚者となり、サルナートで最初の説法を始めるときや、仏教をまず広めるのにふさわしい地として王舎城へ行ったときも、みずから音楽を奏でる。といってもその音楽は、かつての人間界のものではなく天の音楽なのだという(『過去現在因果経第三』)。また、彼が涅槃を迎えたときも当然ながら音楽が流れた。『北本涅槃経』にはそのときの楽器名すらちゃんと書いてあるという。
 こうした記述が事実かどうかは分からない。しかし、インドでは出家修行者が神を讃える歌を歌ったりすることは今でも行われているので、釈迦本人も布教のために音楽を利用したであろうと想像することは的外れではないだろう。経典は崇拝者の書いたものだから話を割り引いて考えたとしても、釈迦本人は楽器なども案外上手かったのかもしれない。

奈良の大アジア音楽祭

 さて、こうしたもろもろの説話や教説を伴った仏教が日本に招来され、国家的な庇護の元に花開いていく。奈良時代には儀式や法会が国家行事として盛大に行われている。そうした法会でも音楽は盛んに演奏された。もっとも盛大なものはなんといっても奈良東大寺の大仏開眼供養会である。これがとんでもない大規模な大アジア音楽祭であったことは、当時の政府公式記録である『続日本紀』や『東大寺要録』などに記録されている。『続日本紀』の記事は短いものだが、それでもその盛大さは目に浮かぶようである。記事をわたくし流に訳すと以下のようになる。
「4月9日、大仏がようやく完成していよいよ開眼ということになった。天皇はこのために東大寺までお出かけになられた。天皇みずから多くの官僚に指示を与え、大法要をプロデュースなされた。その式次第、配置などは元旦の公式儀式と同じであった。五位以上の官僚たちは礼服、六位以下の官僚たちもそれぞれ位官の指定色の正装である。1万人の僧呂、雅楽寮(うたりょう=政府公式音楽院。外国人も多数含まれている)の音楽家たち、各寺の音楽家たちも全員集まってきた。また、貴族や地方の支配者たちは、それぞれ五節(ごせち=5人の舞姫による舞楽)、久米舞(くめまい=音楽に合わせて剣を抜いて舞う)、楯伏(たてふし=兜を着け刀と楯をもって踊る)、踏歌(あられはしり、または、とうか=歌舞の終わりに「万年あられ」とくり返してはやしながら走る)、袍袴(ほうこ=唐の女舞、袴をはいて舞われた)等の歌や踊りを披露した。庭を東西二つに分け、それぞれに声が呼応し、パフォーマンスが展開された。そのありさまはとても文章では表しきれない。仏教が招来されて以来、これほど盛大なイベントは前代未聞である」(『続日本紀』巻十八/孝謙天皇天平勝寶三年十一月~四年二月=AD752)。

インド人もいた

 この行事は国家的な威信をかけたものであるから、必ずしも仏教だけの行事とはいえない。しかし、仏典に書かれた音楽描写も企画制作に影響を与えたことだろう。
 ところで、この大イベントにはインド人も参加している。736年に遣唐使の船でやってきた南インドの僧、菩提仙那である。彼は、開眼師というこの儀式の最も重要な役どころであった。菩提仙那はインド式声明をわが国に伝えたとされている僧である。当時のインド式声明がどのようなものであったか想像できないが、現在でも行われているヴェーダ詠唱に近いものであったかもしれない。ひょっとすると楽器や音楽様式も持ち込んだかもしれない。と考えると、インド音楽を演奏する者としてはちょっとわくわくする話だ。この菩提仙那以外にも、北天竺林邑出身(ベトナムあたりだといわれる)の僧仏哲や唐からの僧も参加している。いずれにせよ、とんでもなく盛大できらびやかな「大アジア音楽祭」が今から1244年も前に開催されたのである。
 この大仏開眼供養会は朝廷がスポンサーとなる「音楽祭」に近いものだが、一般にも仏教行事にともなう音楽は盛んに行われた。大仏開眼供養会が催されたころの音楽はまだ余興的なものだったが、次第に音楽と法会次第が緊密になり、仏教行事と音楽は不可分の関係になっていく。中央政府の行事だけではなく、各寺院のさまざまな行事においても音楽が演奏され、まさに仏教世界は音楽だらけ、になっていくのだ。(つづく)