声明と古代インドの聖典「ヴェーダ」詠唱

  インドにおいて古代から現代まで連綿と「歌い」つがれている叙事詩ヴェーダの詠唱は、音楽的にみれば声明と基本的に同じ構造である。つまり、主音となるべき一定の基準音(核音といっている)を重心として旋律が上下する構造である。だから、4つあるヴェーダの一つ『サーマ・ヴェーダ』の詠唱を聞いてみると、ほとんど日本の声明とまったく同じに聞こえてくる。異なる点は、漢語ないし和文とサンスクリット語のアクセントと、節回しに使われる音の高さである。このような構造は、ヴェーダ詠唱や声明ばかりでなく、インド古典音楽や日本の伝統的な歌曲をはじめいわゆる民族音楽にも多く見られる。
 当初ヴェーダは、低音(アヌダーッタ)、高音(ウダーッタ)、中音(スヴァリタ)の3音のみで詠唱されたが、使用する音数が次第に増え、『サーマ・ヴェーダ』では7音が使われた。これは、最初の棒読みに近いものから、次第に音楽的響きをもった歌に変化していったということである。この古代インドのヴェーダ詠唱という原初の形が、やがて自立した芸術音楽であるインド古典音楽の基層を形作っていくことになる。
 一方、日本の声明は、ヴェーダ詠唱と似たような形から、中国、日本と渡ってくるにしたがい少しずつ変化し、現在のような節回しに落ちついた。しかし、変化したとはいっても、さきに述べたように音楽的には共通の構造をもっているので、声明とインドのヴェーダ詠唱は同じ屋根の下に住む家族といえる。
 ところで、声明という言葉は、古代インドのバラモンたちが修得すべき学問の一つ、シャブダ・ヴィディヤーというサンスクリット語を漢訳したものである。シャブダは言葉、ヴィディヤーは光という意味である。われわれが現在イメージする声明、つまり、仏教の儀式音楽とはことなり、もともとは文字や文法、文章解釈、音韻法などを扱う学問であった。
 したがって、われわれが現在使っている声明という言葉は、本来の意味の一部を表している。仏教が中国経由でわが国に招来された初期には、本来の意味で理解されていたらしい。しかし、鎌倉時代の仏教の変革によって、仏教の儀式音楽を指す言葉へと狭義に変化したようである。今では、声明は、一般に仏教における男声による無伴奏の単声歌と理解されている。