七聲会をめぐること3 仏教世界は音楽だらけ2

「東大寺大仏開眼供養会」以降

 国家としての体裁が整いつつあった奈良時代(710~794)、仏教とその儀式は、国の威信を示す補完物の一つであった。インド人僧菩提仙那を開眼師とした一大アジア音楽祭「東大寺大仏開眼供養会」(752)も、仏教行事というよりは、朝廷の支配力を誇示するイベントに近いものであったろう。大寺院の仏教儀式は、国家の政策と密接に関係があって成り立っていたわけで、それにともなう音楽演奏も、死者への追善供養、仏世界への供養とともに、国家の安定と繁栄への祈願がその大きな目的であった。音楽は重要であったが、儀式というよりむしろ余興としての要素が強かった。
 しかし、東大寺大仏開眼供養会以降、大寺院でも盛んに音楽が奏されるようになっていく様子が、以下のような当時の記録からうかがい知ることができる。
「雅楽寮は高麗楽を、大安寺が林邑楽を、興福寺が天人楽を演奏した」『日本三大実録』貞観十六年(874)三月二十三日条。
「林邑楽人107人が大安寺で音楽の練習をした」同元慶七年(883)二月二十一日条。
 当時、四大寺である大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺はもとより、東大寺、法隆寺、西大寺、四天王寺、橘寺、太秦寺、川原寺などでも、音楽を業とする楽人を抱えていたということが記録に残っている。これらの寺院で行われていた音楽は、中国や朝鮮などの近隣諸国のものが主であり、寺院によって奏される音楽にはそれぞれ特徴があった。

寺院周辺の音風景

 僧侶の読経、多数の楽人の練習の音、儀式の音声や演奏が聞こえていたであろう当時の寺院周辺の音風景は、今日とはかなり違っていたであろう。今日のような自動車騒音はまったくないし、人口もずっと少ないわけだから、街に踏み込んだとたん、方々から、スピーカーを通さない生の楽音が聞こえていたはずである。(とはいえ、日常的にみやびなサウンドスケープを楽しむことができたのは、都や大寺院の周辺に住んでいる人々だけであったろう。山形県東置賜郡宮内町大字小滝村出身であるわたしの先祖たちにとっては、まあ、およそ無縁な世界だったにちがいない。わたしの祖先は東北の山村で「神保」という苗字をもち代々、土地の神官をつとめ、細々と家系を保ってきた。じつは平安時代の都で、多くの使用人たちにかしずかれる貴族として暮らしていた、などとなれば話は別だが、どうも、ちょっと、やっぱり、考えにくいなあ。)

浄土思想と音楽

 さて、当初は国家主導だった仏教であったが、それぞれの寺院で教学や儀式と奏楽の関係などが次第に整えられ、思想としても成熟してくる。10世紀以降になると、とくに浄土思想の発展によって、音楽はエンタテイメントとして以上の要素をもってくる。
 経典に描かれる音楽、つまり仏教世界における音楽とは、天の音楽であり、現世のそれではない。ただ、浄土三部経の一つである『無量寿経』では、仏を供養する機能と当時に、人間の死後世界である浄土の荘厳さを演出する重要な要素として音楽が描かれている。そのため、現世の音楽とも結びつけて考えられるようになってくるのである。
「(さまざまな宝石でできた)樹木の根、幹、枝、小枝、葉、花、果実は、柔らかで、感触がよく、よい香りがあり、また、それらが風に吹かれるとき、美しい、心にかなう音が流れ出て、魅力的であり、耳に逆らわない」
「かの安楽世界においては、時がくると、・・・天界の楽器が奏でられ、天界のアプサラス(天女=筆者註)たちが舞うのである」(『大乗仏典』中央公論社より)
 こうした描写は、人々の極楽往生への願望をさらにかき立てたことであろう。平安後期から鎌倉初期にかけて盛んに作られた浄土変相図や彫刻作品に、さまざまな楽器をもった楽人や舞人が頻繁に登場してくることからみても、当時の人々の音楽に満ちた極楽浄土に対する強い希求を想像することができる。当然、視覚化された演奏風景から現世のサウンドを想像し、その現実化の試みも行われた。

往生の音楽

 中国の影響によって10世紀後半ごろから盛んに著された往生伝は、そうした当時の気分をよく表している。とくに『日本往生極楽記』(985~6)には、具体的な音楽描写も多い。延暦寺座主増命の臨終時には「金色の光があまねく照らし、紫の雲がたなびき、音楽が空中から聞こえ、香気が部屋中に満ちた。和尚は西方に向かって礼をし、阿弥陀仏を念じた」などと書かれている。こうした現象が実際に起こるのだとすれば、往生も悪くない。
 また、往生時に実際に楽人を招いて音楽を演奏させた例として『日本古代音楽史論』の著者、荻美津夫は、その著書のなかで『本朝新修往生伝』の記述を紹介している。それによれば、ある老尼が往生のとき、伶人に命じて音楽を奏させたが、このときしばらくして彼女は「いよいよお迎えのようです。微妙な音楽がなっています。これは人間の音楽ではたとえようがありません」といい終わると端座して命を終えた、という。このような例から、荻美津夫は同著書で「往生時に現世において音楽を奏し天に働きかけるという音楽の超然的な役割をこのなかに見いだすことができる。・・・わが国の人々は、古くからの宗教と音楽の体験から、・・・不可思議な作用をもつ音楽というものによって仏世界に働きかけ、それに対する功徳として仏の慈悲と聖衆の来迎とその浄土の音楽を受け入れるという一つの宗教的パターンを作り上げていったのである」と述べている。

音楽だらけ

 浄土教における仏教と音楽の関係は、さきに挙げた「往生音楽」だけではなく、楽人を招いた小規模な定例法会、日本式宗教歌である和讃の作曲と詠唱、雅楽や催馬楽の曲にのせての讃歌といった形でますます緊密になっていったようである。こうした傾向のなかからは、音楽そのものが仏の教えだ、という考え方も出てくる。『順次往生講式』を制定(1114)した真源などは、往生講における音楽を、浄土における仏の教えに準ずるものとして考えていた。
 空海(774-835)によってもたらされた密教においても、音楽は重要な要素であった。『叡聲論攷』(片岡義道著)によれば、『大毘廬遮那成仏神変加持経』では、密教儀式(胎蔵界曼陀羅供、潅頂会)全体が、いわば一大音楽祭典であると規定し、儀式中のあらゆる典礼が音楽によって行われ、あらゆる歌舞がすなわち印契なり、とする記述のあることを紹介している。また片岡は、密教での最終目標である即身成仏に達するための不可欠かつ最有効の手段が音楽歌舞であり、そのうちには世俗音楽の持つ官能的要素も、もちろん含まれる、と述べている。もうこうなると、まさに仏教世界は音楽だらけではないか。
 一方、仏教音楽の神髄といってもよい声明は、奈良時代にすでに伝わっていたが、空海や最澄(767-822)が唐にわたり天台宗と真言宗をわが国に伝えて以降、本格的に詠唱されるようになる。これまで触れた浄土思想の発展による「音楽だらけ」の仏教世界でも当然、声明は大きな役割を果たしたことだろう。本稿の初回でも触れたが、大原に仏教音楽院ともいうべき勝林院(1014年開基)を開いた寂源、来迎院(1098年開基)を開いた良忍も、こうした時代の雰囲気に大きく影響を受けていたに違いない。
 このように平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての仏教は、いよいよ「音楽だらけ」の様相を帯びながら、人々の間に定着し発展していくのである。

ちょうどこの頃、インドでは

 ちょうどこの頃、インドでは、ジャヤデーヴァ(12世紀~13世紀)が『ギータ・ゴーヴィンダ』を著す。ジャヤデーヴァは、みずからの詩に美しいメロディーをつけ、諸国を歌い歩いていた。ヒンドゥー教の一大宗教運動であるバクティ(神への絶対帰依)運動は、このジャヤデーヴァなどの音楽家・詩人によって、その後、燎原の火のように全インドに広がっていくのである。インド留学中、あるヒンドゥー寺院で、ハルモニウムを手に僧侶が神の讃歌を歌い、信者たちが唱和するキールタンに夜通しつき合ったことがあるが、現在でもインドではその伝統は続いている。宗教と音楽の関係においては、日本とインドでは異なっているが、何かしら共通しているようで興味深い。