AFO 1998~Asian Tour よれよれ日記風報告 ハノイ編(3月14日~3月21日)

 14日、ムンバイを深夜に飛びバンコク空港で数時間待ってハノイへ飛んだ。全員エコノミークラスだった。最初のビジネスクラスはやはり、つかの間の贅沢だったようだ。ともあれ、われわれはまとまった睡眠時間もとれず、ほぼ朦朧状態のまま、お昼過ぎにハノイ空港に着いたのだった。
 到着機内から外を見ると、広くない構内に緑色の旧式ソ連製戦闘機や民間機がちらほら見えた。ガラーンとした印象だった。TG682便のタラップを降りてまず目に付いたのが、どこかで見たような空港バス。緑地に白のたすき掛け模様が中央でクロスしたフロントの模様は、まぎれもない神戸市営バスではないか。表示窓に[急64][板宿(名倉町回り)]と書かれたバスに親しみと哀れみを覚えたわたしは、「しっかり頑張るんだよ」とボディーを叩いた。
 空港から市街へ向かう景色は、日本、インド、中国の田舎を混ぜたような懐かしい雰囲気だった。インド的に見えるのは、煉瓦構造にモルタル塗布という建築素材やデザイン、バルコニー手すりのごてごてした装飾、間口の狭い店に道路まではみ出す雑多な商品、シャッターの形状などがそっくりだったからだ。ドゥルバ「うへー、まるでカルカッタだね」とつぶやく。
 ハノイのホテルは、韓国の大宇財閥系のHanoi Daewoo Hotel。煉瓦づくりの低層建物群から突出してそびえ立つガラス張りの高層高級ホテルだ。
 ホテルに着いたわたしは、睡眠不足でよれよれだったが、グレース、ナヤン、ドゥルバ、アニーシュとで向かいの食堂へ入った。言葉がまったく通じない。身振り手振りで注文すると全然別のものが出てきたり勘定の計算に手間取ったりと、なかなか面白いヴェトナム第1食だった。食後は完全にダウンして、久しぶりの長時間の睡眠だった。

 15日はフリー。バスで市内観光。中原、梅津、新井田以外のメンバーが参加した。ロビーでかわるがわる記念写真を撮った後、波多野、通訳代わりの現地スタッフ、ハンさんとともに乗り込んだバスは、まずホーチミン廟へ向かった。あるメンバーの「ホーチミンって誰?」などという質問に「ええ?」とたまげる大工は「いったい日本の教育はどうなったんだ」と嘆く。若いメンバーにとっては、ヴェトナム戦争はすでに遠い過去の出来事なのだ。まるで巨大な墓石のような灰黒色の廟は、だだっ広い広場を見おろすように建っていた。隣の博物館でヴェトナム人の抵抗の歴史を見て、反戦運動をやっていたころの学生時代を思い出した。広場で出会ったヴェトナムの若い男女はみな屈託がなく、ほぼ100年間もフランスやアメリカに抵抗してきた民族のイメージからはほど遠い。ところで、博物館の漢字資料を見ていたら、ハノイのことを「河内」と書くことが分かった。したがって、ハノイ民謡は河内音頭なのである。なんのこっちゃ。
 ホーチミン廟からベイ・マウ湖の側の禅寺へ行った。バスを降りたとたん、帽子、絵はがき、会話集、Tシャツなどを売る少年少女たちが群がってきた。お寺では、誰かの葬式だったのか、本堂に集まった人たちがお経を唱えていた。
 市内の繁華街に向かい、細いビーフンのうどん、フォーを食べた。ビーフのフォーが5000ドン、ビールが10000ドン、しめて一人15000ドン(=150円)。感激的コストパフォーマンスの高さである。アニーシュとわたしは食料品市場や商店街を散策し、途中で同行者とはぐれたスズコと軽食屋でコーヒーと生春巻きを摂食。店にいた若い娘があまりにわたしの友人に似ているので写真を撮らせてもらった。
 街で見るヴェトナムの人たちの顔だけ見ていると、まるで山形の田舎にいるような思いがする。思わず「じさま、どごさえぐな」と声をかけたくなるほどだ。日本人とよく似た顔立ちなのだ。女性は美人が多い。河内おばこだらけである。
 街は自転車とバイクの二輪車であふれている。ものすごい交通量だ。しかし道路を横断するのは簡単なのである。とぎれるのを待っていたらいつまでも渡れないが、ゆっくり堂々と渡れば、みながよけて通るからだ。

 16日は、会場設営に奮闘するスタッフを除いてフリー。アニーシュ、竹井誠、ベニさん、佐藤、タナ、タケカオ、ヨッチャン、ハルピョン、立花、賈、張、姜、シンチャンと24人乗りのバスをチャーターした。期待に反して遠乗りになってしまった郊外の食堂でヨッチャンにビールをかけられたり、Dan Mieu寺のライブショーを見たり、水上人形劇を見たりの一日だった。中年男女音楽隊による伝統音楽ショーでは、われわれを確認するとにわかに「四季の歌」やら「北国の春」やらを演奏してサービスにつとめるのだが、なにせこちらはみなミュージシャン、なんとかしてえなという雰囲気だった。
 なんといっても素晴らしかったのは水上人形劇だった。市中心部のホアン・キエム湖畔の劇場の内部は、かび臭く、内装も薄汚れ、ここでいったいどんなショーが始まるのか不安を感じたが、始まってみると小さなプールのような舞台に目が釘付けになった。水中で動き回る人形のリアルで滑稽な動き、伴奏の音楽の絶妙さ、どれをとっても一見の価値があると思う。わたしはとくに、ダンバウという一弦琴の精妙な表現に感動した。人形遣いたちは、プール舞台のすだれの裏で腰まで水に浸かり人形を操作する。いわゆる民族芸能の「素朴」さと違い、表現が実に洗練されている。田植え作業、魚釣り、水鳥、魚、女官たちの踊りなど、人形たちのこっけいな動きは今でも脳裏に浮かぶ。
 人形劇から帰ると、この日に日本酒やからすみなどの肴持参で到着した香西かおりや多田を囲んで仙波バー宴会が進行中だった。AFOの酒類消費に拍車がかかってきた。

 17日はリハーサル。ヴェトナム戦争中の死体置き場に使われていたので妙な霊の存在を感じる、とスタッフたちが噂する公演会場、越・ソ文化宮Viet Xo Culture Palaceは、特徴のない外見の巨大な矩形の箱だった。二階席のある2千人収容の大きな会場だ。水滴が見えるのではないかと思われるほど湿度が高く、かび臭かった。舞台の角の暗いところは、いかにも霊が漂っている感じだ。
 スタッフたちは、会場の不安定な電圧に神経をとがらせていた。ヴェトナム人スタッフたちはみな明るい女学生でかわいい。しかし、会場側の管理の人たちは笑うということがない堅苦しさで、かつての社会主義国的官僚主義の片鱗が現れているようだった。
 舞台スタッフたちはここの舞台設営にも苦労したようだ。われわれインド隊の座る床もべこべこしていて座りが悪かった。後で聞くと、現地作業員とのコミュニケーションギャップが大きかったようである。
 リハーサルの途中、突然ハピバースデーソング。張林の誕生日だった。ケーキを手渡された張林は「びっくりしだな。はずがしい」と喜んでいた。
 ヴェトナム公演のゲストは、妊娠でちょっとお腹の大きい人気ポップ歌手ミー・リン。ボーイッシュなヘアスタイルの若いミー・リンは、堂々とした歌いっぷりでとても魅力的だ。しかし、彼女のサウンドは中華系ポップスの流れだ。わたしはもっとニョクマムの香りがするのかと期待していたのだが。伝統音楽のグループの中では、笛のトリウ・ティエン・ヴオン氏がすごかった。穴が10個もある細い竹笛で「これ、自作。半音も全部出せるの」とややこしいメロディーを軽々と吹く。わたしと竹井は、こりゃかなわん、われわれAFO笛隊はクビだな、と嘆くのであった。トランペットスピーカーのついたダンバウ、口腔を増幅器とした胡弓など、ヴェトナム人の楽器に対する柔軟な発想には驚くべきものがある。

 18日、ハノイ公演初日。8時の本番開始直前、スタッフたちの恐れていたことが現実になってしまった。舞台の電源が落ちてしまったのだ。しかし、なんとか復旧してコンサートが始まった。8割ほど埋まった客席の反応が素晴らしかった。ヴェトナムの人たちがわれわれの音楽を素直に楽しむ感じが伝わってくる。音質、音量ともムンバイよりはずっと条件はよかったと思う。梅津と大工のたどたどしいヴェトナム語MCに会場は大受けだった。

 19日、公演2日目。前日よりも客席が埋まっていた。梅津の大阪ライブを企画している西宮の清水さんも顔を見せた。
 インドでの気苦労から解放されたためか、はたまた、本村パピーにはっぱをかけられたためか、ナヤンが少し明るさを取り戻し、ゴーシュ兄弟は表面的には友好的になったようだった。わたしは、ヴェトナムに入ってからは意識的にインド隊には密着せず、彼らと他のメンバーとの交流がより進むようにしていたのだが、そのせいかどうか、音楽的にも少しずつ開けた感じがあった。アニーシュはすでにメンバーとも積極的に交流し、チームにとけ込んでいた。また、メンバーの中には、この公演に参加することが己にとってどういう意味を持つのか、といった問題意識が徐々に発生し、チームとしての一体感と同時に深く重い個人的課題が沈殿しつつあるように見受けられた。

 20日はフリー。午前中、昨夜のわれわれの公演のゲストとして伝統音楽を披露したミュージシャンたちの所属するハノイ音楽院へ見学に行った。特徴のないコンクリート造りの校舎は殺風景だが、学生たちの練習する音がほうぼうから聞こえ、音楽学校の持つ華やかな雰囲気が漂っていた。素朴で不格好な手製エレキベース、ピッチのずれたピアノ、ダンバウなどの伝統楽器、塗装の剥げた太鼓類などが雑然と配置された大きな教室では、昨夜のミュージシャンたちがわれわれを待っていた。楽器を持参したわれわれとにわかセッションとなり、公演とは異なる気楽な交流を楽しんだ。「おおお、こりゃすんげえ」とは、よれよれピアノにさわったダイチャン。
 ドゥルバ、アニーシュとわたしは音楽院でみんなと別れ、徒歩で街に出ようとしたが、曲がりくねった細い路地からメインストリートへ抜ける道になかなか到達しない。どぶの臭いのするじめじめした住宅街だった。
 夕方、日本大使館主催のレセプションのために高級中華料理店に出かけた。今回のハノイ公演では大使館の人たちが苦労されたようです。「本当に苦労しましたが、みなさんのコンサートを聴いて苦労も吹っ飛びました。こうして終わってみると感慨もひとしおです」といっていた担当の古館さんはほっとした様子だった。立命館大学の専任講師で現在は大使館の専門調査員である田原氏に、ヴェトナムについていろいろ話を伺った。ヴェトナムの人たちは表面的には戦争の話題はあまりしないが、ぐっとうち解けてくると戦死した家族のことなどを話し出す、ということだ。「ヴェトナム人はシャイだが竹のようにしなやかだ」
 レセプションの後いったんホテルに戻ったわれわれは、ハノイのジャズクラブに乱入した。梅津のジャズミュージシャンの知り合い(戦争中も隠れてジャズをやっていたという強者)の息子がライブ演奏しているクラブだった。彼らの演奏はなかなかで、とてもここがハノイとは思えなかった。その彼らにAFO隊が乱入していく。梅津のサックスはもとより、ドラムの仙波、尺八の竹井、キーボードのダイチャン、演歌ならぬジャズのスタンダードを歌い出す香西かおり、コントラバスを手にした佐藤、ギターのサンチャン、ベースのベニさん、ヴァイオリンのハルピョンとヨッチャン、果ては口タブラーで参加したアニーシュは、ヴェトナム人ミュージシャンを徐々に駆逐し、一時的にはステージを占領してしまった。わたしもぐちゃぐちゃバーンスリーを吹いた。来店していた白人客もおおのりで盛り上がる。
 ヨッチャンと一緒に霧雨の中を自転車シクロでホテルまでゆっくり帰ったわたしは、玄関で偶然一緒になった賈と姜とでホテルのそばのトゥレー湖を散策。遊園地の手回しメリーゴーランドで遊んでいると、管理人に怒られた。
 滞在中ずっと曇りが続き、一度も太陽を見なかった河内の日々はこうして、つつがなく終わった。