AFO 1998 よれよれ日記風報告 東京編およびその後(4月6日~4月10日)

 帰国後、自宅で寝ころんでいるわたしのところに「今、どこどこっつう飲み屋でだれそれだれそれと一緒なの。はははは。だれそれに変わるね、はあい、元気ですか、どうのこうのでだれそれに変わるね、ひひひひひ、ははははは」といった電話が再三かかってきた。東京組のAFO隊にはその後も宴会がずっと進行中のようである。AFOアルコール大量消費傾向に少しも変化が見られない。懲りない人々だ。

 4月6日、頭の中にAFO浮かれ気分をじゃっかん残したわたしは、張林と車内でおしゃべりしつつ新幹線で上京した。名古屋周辺から話題が料理になり、互いに繰り出すうまそうな料理の数々に次第に空腹感を高揚させて京王プラザホテルに入った。やはりこの日にチェックインすることになっていた大工夫妻やインド隊はまだ到着していなかった。グレースはすでに部屋にいて、電話すると「ハーイ、スワーミー」と元気そうだった。スワーミーとは、ヒンドゥー聖者に対する尊称である。ナヤンがわたしをそう呼び始めたのだ。わたしが小言をいうので、たまらんやっちゃ、と名付けたようだ。
 ホテルから、仙波の携帯電話にとりあえず連絡し、食事に行くことになった。グレースも誘ったのだが、練習する、というのでパス。まったく、よく練習する歌手だ。
 ホテルにやってきた仙波は「随園へ行こう。あそこはおいしい。でも、ぼくは方向音痴には自信がある。うまくたどり着けるかどうか自信はないけど、あのあたりだからとりあえずいってみよう」と頼りなかったが、なんとか「随園」にたどり着いた。同じころ新宿周辺にいたタケカオとも連絡がつき、4人でなかなかの北京料理をいただきました。そのあと「呑酒家」でちょっと飲みその日は終了。

 7日、これまでのツアーでは公演前日にもリハーサルをしていたが、東京公演では本番前当日のみだった。会場へ向かう前、相変わらず悩めるナヤンをホテルに残し、アニーシュ、ドゥルバといっしょに近くのイタリア料理店で定食ランチ。二人ともジョークを連発する構図に変化はない。しかし、たいていのネタはもう聞いてしまっているので、品質低下は否めない。ナヤンは、高血圧的体調不調、睡眠不足、妹のトゥリカーの離婚という家族問題、学校運営問題、この公演直後に控える2ヶ月間アメリカツアー想念に頭が占領され、みるもかわいそうな憔悴ぶり。そのほとんどの原因は自らが産み出していることに気がつけばずっと楽になるとは思うが、どうにもならない。
 公演会場は、2千人収容の新宿文化センターだった。ほぼ10日ぶりに会うメンバーは、写真を見せあったり、思い出話に余念がない。1ヶ月も同じ行動をともにすると、それぞれの考えや性格などもよく分かってきて、呼吸もよく合う。演奏曲と演奏者の関係も同様である。曲のほうもわれわれの性格を知り、親しく近づいてくる。このような雰囲気は当然、ほぼ満席の客席にも伝わったようだ。
 本番の「Dance in the Silk」という曲が始まろうとしたとき、「これまでずうーと演奏してきて、こんなごど初めて。もおうあせっちゃった」という小青の古箏弦切れ再装填事件があった。その間合いを梅津のしゃべりが埋めた。「マニラでは停電があったり、とアジアツアーではいろんなことがあったが、われわれは動じなかった。それにしても、まあだあ、シャオチーン。あ、まだみたい、でも、こんな長いMC聞くとは思ってなかったでしょうね、みなさん、えーと、あ、オーケー。では・・・」。わたしは、ハノイで購入した軍用ヘルメットと八百屋前掛けで踊った。本村パピーの「えーと、めいっぱい楽しみましょう」という言葉どおり、ミュージシャンもスタッフも観客も楽しめたコンサートだったと思う。
 前回のアジアツアーと違い、今回はより一体感のある「バンド」に近づいた感がある。それぞれがソリストとしても自立しているメンバーたちにとって、「バンド」に組み込まれていくことは、自己を抑制し全体のサウンドのために妥協することがかなり要求される。1時間でも2時間でもソロ演奏のできる演奏家が、曲によってはたった8小節のソロパートや、譜面に書かれた短いメロディーのなかで自己表現を実現しなければならない。当然、そうした個人の葛藤やエゴとの折り合いをそれぞれが見つけていくことになるのだが、そうした折り合い作業のちょっとした苦役を忘れさせてしまう一体感もまた、音楽を作るものにとっての喜びである。わたしは、隣に座ってシタールを弾くナヤンが、それまでの悩めるだだっ子的態度と違い、体調の悪さにもかかわらず子供のようにうれしそうに演奏していたのを見て、ようやくAFOがバンドになったと実感した。
 公演後、「インド隊にぜひ一度きて欲しい」という申し出で、われわれは佐藤とともにタナの家に行った。すでにお宅では奥さんがピザ、ワインなどを用意しわれわれを待っていた。猫の爪を恐れるアニーシュも、ジョーク銃を打ちっぱなすドゥルバも、二番煎じのジョークを繰り返すナヤンも、信じられない食欲を見せるのであった。
 一方、他のメンバーたちは、中川鬼門飲食店「うちな~家」で盛り上がっていた。佐藤君、アニーシュとわたしは、その盛り上がった「うちな~家」に合流。わたしは、ラフティ泡盛下痢促進体験があったのでビールだけにした。

 8日、東京最後、アジアツアー最後の本当の最終公演。「タンタンメン、タンタンメン」とうるさいドゥルバの要求で、アニーシュとともに新宿西公園に近いラーメン屋でランチ。ナヤンは相変わらずの体調不良と睡眠不足でパスだった。
 本番前、ミュージシャンから募ったお金で購入した記念品(温泉宿泊券とたしか風呂敷)を梅津から手渡され思わずぐっと感情が高揚した本村パピーの、「えーと、いよいよ最後の公演です。本当にツアー中も含めいろんなことがありました。今日は、本当に本当にこれで最後です。わたしからいうことはもうなにもありません。ひたすら、めいっぱい楽しんで下さい」と挨拶。ちょっとこみ上げてくるものがあった。隣のナヤンとドゥルバは日本語が分からないのでキョトンとしていたが、それでも神妙に聞いていた。「おい、スワーミー、本村さんはなんといってるのか」「うん、これでオワリ、エンジョイしよう、てこと」「ああ、そうか」とうなづくナヤン。アニーシュとドゥルバもそれを聞いてうなずく。
 最後の本番は、総仕上げにふさわしいものだった。演奏中のメンバーたちは、互いに目配せをしてうきうきした開放感を共有していた。わたしは「あれ(昨年のリサイタル)以来、地方公演でノーキョーキャプほしいといったらすんごく集まっちゃたのよね」という香西かおりからもらったノーキョーのボーシと、醤油屋前掛けで踊った。できるだけダサク見えるものを選んでかぶったのだが、ダサければダサいほどわたしにはよく似合う、などといわれてしまった。客席の反応も素晴らしかった。楽屋に訪ねてきてくれた友人たちは「とにかく、ミュージシャンたちがまず楽しんでいるのが伝わってきて感動した」と口をそろえていってくれた。
 予定では次の日に「打ち上げ総会」が行われる予定だったが、わたしのあずかり知らないさまざまな事情によって公演直後に敢行されることになった。場所はまたしても「うちな~家」。ここで飲み食いすると必ずわたしが腸内活動不調になることを熟知した本村パピーの陰謀なのか、とも思った。しかし、わたしには選択の余地がない。
 スタッフもほぼ揃った貸し切りの店内で、それぞれが挨拶したり乾杯をするたびに、これまでのさまざまな思いが去来し涙する人たちもいた。本村パピーはもとより、梅津、久米なども男泣きだった。いい大人が、とお思いになる人もいるかもしれないが、彼らが涙するのはよく分かります。われわれのツアーは、いかに分別のあるクールなプロフェッショナルから子供に戻るかの実験のようなものであり、より子供に戻れた人こそ涙する権利があるのである。「AFO98最終アルコール大量消費大会」はそんなこんなのやりとりを交えつつ早朝まで繰り広げられたのであった。わがままなミュージシャンを快く支えてくれたスタッフや関係者の人々、そして、とくに鉄の意志で最後まで破綻なくAFOを引っ張ってきた本村パピーには本当に感謝しています。
 明け方、ピットインの鈴木、張林とホテルに戻りました。早朝に沖縄に帰る大工夫妻を空港まで送ることになっていた鈴木はわたしの部屋で仮眠。結局わたしも起き出して赤い目をこすりつつホテルで大工夫妻に別れを告げた。前日「トバラーマ」で使ったバーンスリーも大工さんに進呈した。苗子さんは「たった今起きたの」と髪バラバラでロビーに現れた。その後、打ち上げのどさくさに紛れて香西かおりとのデートを果たしたアニーシュの買い物につきあい、夜はインド料理「サムラート」で余韻宴会だった。参加者は本村、絵美、島田、アニーシュ、ナヤン、ドゥルバ、グレース、五頭、ダイチャン、仙波。みんな睡眠不足の上、前日の最高潮宴会の後なのでしんみりとした食事会となった。

 10日は、ムンバイに帰るドゥルバ、アニーシュを見送り、部屋でアメリカ行きの荷造りに忙しいナヤンに別れを告げ、五頭に新宿駅まで見送られつつ神戸に帰った。アドレナリン大放出眠れぬ興奮の日々はこうして終わりを告げたのであった。

 その後のある日、仙波からいつにないフォーマルな声音で電話が入った。
「実はね、オレ、入籍したんすよ」携帯なのでまわりの雑音が聞こえてくる。「今、どこからですか」「ん、近所の飲み屋、で相手はだれだと思う」「だいたい想像着くけど。タケカオ?」「そう。分かってたあ」「まあね、ツアー後半では妙にいつも一緒だったじゃない」「まあ、それ以前からだったんだけどね、ちょっと待って、今本人と代わるから」「中川さん元気?実はそういうことになっちゃってえ、なの。よろしくね」「一緒に住んでるの」「いや、まだ籍入れただけ」
 ということで、彼らは結婚したのだった。前回の尾崎・立花についでAFO婚第2弾になった。その後の連絡によると、8月4日には大々的な披露宴会があるということだ。
 またまたある日、本村パピーから「何の用事もないけど」と電話が入り、岡山在住だった張林がついに会社を辞め中国に帰国したと知らされた。