AFO 1998~Asian Tour よれよれ日記風報告 マニラ編(3月22日~3月28日)

 21日、ハノイから香港経由でマニラに入った。もちろんエコノミークラスだった。空港に到着し、ベルトコンベアーから出てきたスーツケースを見たスズコは「あっれえー、壊れてるう、どうしよう」。頑丈そうなスーツケースの角がひび割れ、中身が一部見えるような状態だった。わたしはすぐにキャセイの係員に事故証明書を出してもらった。こうしておけば、後で取り替えてもらえるのだ。
 マニラの宿泊は、日系資本のマニラ・ダイアモンド・ホテル。27階建ての超高層ホテルだ。建物も部屋もゴージャスな雰囲気ではあるが、内装や従業員の物腰、とりまく空気に品性というものが感じられない。ミニスカートの若いフィリピン人女性が、いかにもゴルフの好きそうな中小企業経営者風日本人オッサンと手を組んで歩くのが目に付いた。後日ここでマッサージをしてもらったオバサンが「ジャパニーズ、スケベ」などといっていたので、どうやらその筋の人々もよく利用するホテルのようである。玄関近くの路上には、警官や警備会社職員の監視の元、不当解雇を叫ぶ元従業員が仮設テントを作って座り込み音楽をガンガン流していた。
「ホテルの近所に、日本食の居酒屋がある」という本村パピーの事前調査報告を受けたわれわれは、早速「居酒屋ケンタ」に行った。派手な大漁はっぴを着けたフィリピン人女性従業員に案内された店内は、メンタイおろし、梅ザーサイ、冷や奴、だしまき、野菜炒め、餃子、ざるそば、茶そば、塩から、エビてんぷら、オクラ、冷酒などというメニューを書いた短冊がにぎやかに壁面を飾り、まったく日本の一般的な居酒屋と雰囲気も値段も変わらない。それを見ているうちに、なんでマニラまできて、かつもうすぐ日本に帰るというのに、かつ安くもないのにこういうところで飲んで騒ぐ必然性があるのか、という疑問がふつふつとわき起こったわたしと竹井は、ビールだけを飲んで早々と退散し、近所の現地食レストランに行くのであった。豚の煮物、野菜炒め、焼きそば、サンミゲルビール2本ずつで一人230ペソ=400円ほどだった。ケンタ組は一人2千円近かったので、値段の差は歴然としている。ホテル周辺はマニラの中心街からは離れているが、外国人を当て込んだ店が多い。しかし、あやしい雰囲気の安くておいしそうな現地の食堂も数多くあり、わたしはどうしてもそちらの方面に惹かれるのだ。
 外国に行って高価な日本食を食べる、という行為は、わたしには未だに魅力を感じない。また、あなたも行くなら私も、というムレル行為もたまらない。ツアーも3週間目を迎え、メンバーの間にも濃淡のあるムレが次第に形成されつつあるように見受けられた。このころになると、非社交的ナヤンを中心としたインド隊や、仲良し中国隊も固まって独自行動路線をとっていた。

 22日はフリー。9時ごろ1階のレストランに行くと、丸本が一人で朝食をとっていた。「昨日、スタッフたちとカラオケバーにいったんだけど、あんまり面白くなかった。女の子が横にくっついて飲むんだけど、東京のどこそこで働いていたなんていう女の子が日本語で話しかけてきて、まるで新宿のフィリピン・パブと変わらないんですよ」という。
 この日は、マニラ観光ということも考えたが、ここは東京のような巨大な都市。空港からの道すがらの光景を見ると、日本人小金持ちすり寄り的雰囲気が感じられ、歩いて見たい都市には思えない。ビルの連なる近代都市だが、どことなくがさつな雰囲気がする。ということで、日中はスズコのスーツケース問題解決待機状態ということもありずっとホテルにいた。
 夕方は、「みんなを招待したい」というグレースの申し出があり、体調不調ないし独自事情のあるサンチャン、タナ、佐藤、深見、大久保、笠原あやのを除いたミュージシャンが彼女の自宅でディナーをごちそうになった。
 ホテルからバスで40分ほどで到着。町工場のような鉄の門扉をくぐると、左手にガレージがあり、そこで鶏の丸焼きが進行中だった。一部2階建て住宅はかなり広く、シンプルな白い壁に民芸風のタペストリー、楽器などがさりげなくおいてあった。奥には中央にテーブルを置いた部屋があり、この2つの部屋だけでも相当広い。その奥の部屋の右手に12畳ほどのキッチンがあった。ノースリーブ短パン姿のグレースが、そのキッチンで手伝い人に料理の指示をしていた。ステージでの彼女の姿は神々しく見えるが、この日はまるで娘のタオと見間違うような少女に見えた。
 料理は、三度豆、じゃがいも、バナナ、牛肉の入ったスープ、丸焼きのチキン、タイに似た魚、ご飯、氷入りビール、ココナツ果肉のジュース、バナナのデザート、野菜炒めなど。「これまでで最大のパーティー」というグレースの用意した大量の食べ物はおいしかった。大工は「酒あればもっといい」とちょっと寂しがっていたが。豊かなちりちり髪の夫のボブもこまめに立ち働いていた。彼もミュージシャンでギターを弾く。
 食事が終わってしばらくしてからミニ演奏会になった。言い出しっぺのわたしは、賈、竹井、シンチャン、香西かおりらと花笠音頭、真室川舟歌、竹田の子守歌を披露した。熱があって調子悪いというナヤン、ドゥルバ、アニーシュのインドトリオも、バウルの歌、ラビンドラサンギートを歌った。ドゥルバはシンチャンの三味線をドローン代わりに使う。大工、シンチャンの民謡の後、グレースもギターをもって歌い出した。その側でボブが津軽三味線を弾いた。
 しばらくして、かねてからグレースが提案していた録音を、ということになった。本村パピー、エミチャン、シンチャン、竹井、賈、アニーシュとわたし以外のメンバーはホテルに戻った。残ったわれわれは、隣の家を通り抜け、彼らの狭いプライベートスタジオへ行った。狭いがちゃんとした機材も揃った立派なスタジオである。われわれは、一人ずつそれぞれ2分くらい録音した。

 23日もフリー。ホテル周辺のみの行動半径だった。前夜、グレースの家から帰った後に明け方まで飲んだのがたたったのか、腹痛を伴う下痢だった。竹井、シンチャン、ヨッチャン、ハルピョンとで近くの食堂へ行き、きしめん、焼きそばといった軽い昼食をとった。この日は珍しく陽光が強く、久しぶりに太陽を見た。ストリングス隊は3時からホテル内でハルピョンの曲のリハーサル。プールへいくと、香西かおり、マネージャーの原、梅津、竹井、シンチャンらがいた。
 わたしは、ひと泳ぎしたあとホテルの指圧マッサージを受けた。顔の造作の大きい40代の小太りのオバチャンだった。つぼに的確に圧力を加える技術はなかなかだ。「このホテルには日本人が多く滞在し、ほとんどがスケベだ、アラブ人もくるがわたしは嫌いだ」などといいながら、わたしの肩胛骨のあたりをグイっと押してくる。あまりの痛さに飛び上がった。

 24日、リハーサル。会場は、急角度の3階席まであるフィリピン文化センター。収容人数2千人くらいか。それまでの会場と比較すると、ずっときれいで設備もしっかりしているように見えた。港に近い周辺には数々の近代的文化施設が立ち並んでいる。「KKK」という幟がはためいていたが、あれはなんだったのだろうか。現代美術の一種なんだろうか。
 公演地での最初のリハーサルは集中力に欠ける傾向があるようである。このマニラでもそうだった。会場によって音響の雰囲気が異なるため、スタッフの機材調整待ち時間が長いというせいもあるかもしれない。
 神戸でも聞いたゲストのジョーイ・アラヤは、少し太めになっていたが、そのせいでずっと貫禄が付いたように見えた。ギターや二弦のヘガロングを弾きながら独特の太く張りのある声で歌い上げるジョーイは、多才な人のようである。シンガーソングライター、マルチ楽器奏者、編曲、ストーリーテラー、漫談、詩人、哲学者、雑誌コラム執筆者、とプロフィールには書いてあった。グレースのいう「考える歌手」の一人である。わたしがバーンスリーを吹くといったら、ああ、ハリプラサードはいいよね、とわたしの先生のことも知っていた。

 25日、マニラ公演初日。どことなく浮き足だった前日リハーサルでの注意力散漫状態は、ツアーの疲れや体調を崩す人が多いという理由もあったのかもしれない。こうした状態に本村パピーから「たるんでる」と喝が入った。本番前リハーサルが終わる頃、全員三角帽子をかぶり、専用の食堂となっていたテラスで待機していたわれわれは、新井田が現れると、ハピバースデーの大合唱。新井田選手の45回目の誕生日だった。
 列席したお歴々の挨拶、軽快なフィリピン国歌に続いてマニラ公演の幕が開いた。当地の日本語新聞「マニラ新聞」によれば800人だったという聴衆からは、曲が終わるごとに熱心な拍手と歓声がわき起こり盛り上がった。
 さて、このマニラ公演初日では、インドやヴェトナムで起こるのではないかと危ぶまれていた公演中停電が、2部の「俵つみ歌」のときについにやってきた。舞台が突然真っ暗になり、電気楽器系が沈黙するなか、梅津、香西かおり、サンチャン、竹井などアコースティック系が客席の前で演奏を続け大喝采を浴びた。まもなく復旧したが、忘れられない静寂な瞬間だった。こうしたハプニングは、ときとして公演の流れに期待以上のメリハリをもたらす。スタッフたちの苦労は大変だったかもしれないが、会場全体がふんわりと和み、素晴らしい公演になったと思う。こうして、盛り上がりつつ公演が終わった後、汗だくで着替え中に再び停電し真っ暗になった。
 この日は「ケンタ」で打ち上げだった。

 26日、マニラ公演二日目最終公演、つまりアジアツアー最終公演。午前中は、部屋のテレビで映画「How to Make the American Quilt」をみて過ごしているうちに、キャセイ航空から新品のスーツケースが届けられ、スズコ・スーツケース破損事故問題が無事解決した。
 リハーサルの合間にテラスから広場を見おろすと、明日から始まる国際青年舞踊祭のリハーサル中だった。太鼓に合わせた行進の練習をしていた。
 最終公演は前日よりもたくさん入った。前日もそうだったが、大工のアンチョコを見ながらのタガログ語MCは大受けだった。終演したとたん聴衆はオールスタンディング。終演後、ほとんどのミュージシャンがロビーに出てサイン責めにあう。こうしてアジアツアー最終公演は大団円をむかえたのであった。
 終演後はやはり「ケンタ」で打ち上げということだったが、わたしは頭痛や下痢も少し残っていたのでパス。しかし、「ケンタ」打ち上げを終えた大工が2時過ぎにわたしの部屋に訪れ、今回のAFOや音楽活動のことなど、朝の5時くらいまでしゃべり明かした。

 27日はフリー。高級スペイン料理店で大使館主催のレセプションもあったが、ああ、ツアーも終わった、という感慨が頭を占め、あまり印象に残っていない。
 マニラでは、結局、ホテル周辺をうろうろするにとどまり、イメルダ夫人の靴で有名になったマラカニアン宮殿も、ビジネスの中心地マカティ地区も知らず、28日、われわれは暑いフィリピンから寒い日本へと帰国の途についたのであった。