AFO 1998~Asian Tour よれよれ日記風報告 ムンバイ編(3月8日~3月13日)

 8日、1週間のデリーの滞在による直腸方面弛緩的インディアン・イニシエーションの洗礼を受けた人が増加しつつあるなか、かなり暑いムンバイに入った。ホテルは、超高層の高級ホテル、オベロイ・タワーズ。全員、海の見えない側の部屋だった。アーシシは「海の見えない側の部屋とはけしからん。オベロイの連中はわれわれを馬鹿にしてる」とごね、一人だけ部屋を代わる。インドではごね得がときには通用するのだ。
 到着したその日、我々よりも先にきていたナヤンの演奏するコンサートを聞くために海岸沿いのチョウパティーにあるホールへほぼ全員で出かけた。ナヤンは、サロードのブッダデーヴ・ダスグプタのタブラー伴奏をした後、聴衆に向かってわれわれがきていることを告げる。彼を含め、AFOインド隊は全員ムンバイ在住なので、ホテルには泊まらずそれぞれ自宅から通うことになった。

 9日はフリー。ムンバイは、いわばわたしの地元。仙波、梅津、賈鵬芳、新井田、佐藤、田中顕、大工、ベニさんらを楽器屋巡りへ案内した。どやどやとやってきて楽器を触り、勝手に音をだしまくる日系東洋人の出現に最初の店の店員もたまげたに違いない。ダーダルの楽器屋にも行ってみたが休みだった。帰りは、タクシーでもよかったが、せっかくだからと電車に乗ることにした。身動きできないほど電車は混んでいた。ぬるぬるの鉄の吊り輪や支柱につかまったメンバーたちは、人いきれと汗の臭いに満ちたインドの電車移動を楽しんだようだ。ベニさんは、そんな車内にもかかわらず、ビデオ撮影に余念がない。ほら、君だよ、と撮影されたばかりの自分の映像をベニさんに見せられたインド人青年は口をポカンと開けてたまげる。
 夕方は、ホテル最上階で日本領事館主催の記者会見。こざっぱりとした格好の主要メンバーがインタビューを受ける。しかし「この辺の記者会見は、こういう軽食・酒つきというのが習慣で、これを目当てに来る人もいる」と領事館の小西さんがいうように、まともな質問もない記者会見はインド人たちの宴会になっていった。それにしても、ポケットに手をつっこんだまま挨拶する武藤領事の激しいブロークン英語と、ある種傲慢に見える態度にはちょっと恥ずかしいものがあった。インド人女性の通訳も不正確だ。記者会見宴会は、インタビューを受けるべきわれわれの存在は薄くなり、ほとんど社交サロンと化していた。で、終わりそうにない記者会見宴会を抜け出した久米、仙波、中国3人組、木下、竹井、わたしは「香港」でラーメンを食べ、インド門、タージホテルを散策した。しつこく営業努力を繰り返す馬車に乗ってホテルに帰還。ホテルに帰ったのはかなり遅かったが、すでに各室ではバーが開かれ、酒類関係大量消費の構図にみじんの変化も見られない。常に冷静なツアーマネージャー波多野が「いやあ、わたし日本酒好きなんですよ」と目をとろんとさせていたのは意外だった。

 10日はリハーサル。会場のタタ・シアターは、ホテルから徒歩5分バス7分の距離にあり、収容人数は千名ほど。ホールは、半円形の階段状客席が舞台を見おろす形である。音響機器の使用を前提としていないよく響くホールなので、音響スタッフたちはバランス調整に苦労していた。また、われわれのような大仕掛けの公演にとっては舞台が手狭で配置設計も難しかったと思う。すぐ真後ろのパーカッションの佐藤が楽器を叩くたびに強烈な音圧が首筋を襲ってくる。自宅に帰って気が緩んだゴーシュ兄弟が「例の件どうなってる」などとリハーサル中なのに業務的会話を続ける。わたしは「てめえら、ええかげんにせんかい」と怒り目で注意した。本村パピーも、東京のリハーサルから集中力に乏しいナヤンの態度に、「いやだったら家に帰ってもらう」と業を煮やす。
 本村パピー、仙波のテレビインタビューもあった。インド人質問者の英語の質問をムンバイ在住のコーディネイター、マサコ・チャクラバールティさんが日本語に通訳し、二人の日本語の答をわたしがヒンディー語で返すこともそうだが、質問を受ける二人の間に立ちマイクを差し出すわたしのポジションも珍妙である。
 リハーサル終了後、日本領事館でレセプションがあった。久しぶりの日本酒や天ぷらもどきなどがうれしい。一般に日本人外交官との会話はおおむね退屈なものだ。自分に注目してほしい、話を聞いてほしいという人が圧倒的に多い。個に特化した話題に偏りがちで、楽しみを共有するような話題に乏しいように見受けられる。こちらはひたすら聞き役になってしまう。以前、招待を受けことのあるアメリカやオランダの領事は、ユーモアのセンスもあり楽しかっただけに、その違いがどこからくるのか考えされらる。

 11日、ムンバイ公演初日。客席は8割ほど埋まっていた。舞台裏で着替えも済ませ開演をまっていると、定刻になってもなかなかゴーサインが出ない。どうなってるのか、と劇場のスバス・チャンドラン副支配人に聞くと「いやあ、州首相がくることになっているがまだ見えないんですよ。これだから政治家はね」などとつぶやく。
 音響バランスのせいか、ミュージシャンに聞こえてくる音がなんとなくもやーっとしていて開放感を感じることができなかった。聞きに来た友人は「大音響がうるさいし、それぞれの楽器の音が明瞭ではない」といっていた。
 公演後、舞踊家で編集者でもある人がわたしのところにきて「いやあ、あなたのヒンディー語挨拶はよかった。それにあんなに舞踊がうまいとはね」などと、わたしの演奏よりも、MCやメチャクチャなカタックもどき舞踊をほめられて複雑な気分だった。この日もグレースの声調が悪く、彼女のパートを一部大工が歌った。彼女はこのツアーにけっこうナーバスになっていたのかもしれない。

 12日、ムンバイ公演2日目にしてインド最終公演。午前中、楽器みたあーい、というハルピョンとヨッチャンを連れて楽器屋へ。ハルピョンがおもちゃのようなミニ・タブラー、ヨッチャンがサーランギーを購入。手荷物の増えつつあるヨッチャンは、その後、おそらく、このサーランギーのために腰を痛めることになった。
 公演は、ホール音響の慣れやプログラムのコンパクト化によって充実していた。また、前日に比べて聴衆の反応もよく、演奏していて気持ちよかった。役所のエライサンがくる初日は出来があまりよくないのかもしれない。いずれにせよ、わたしが留学していた頃はAFOのようなバンドは珍奇な目で見られていたに違いないので、AFOの音楽がインドという伝統音楽大国で暖かい反応を得たことの意味は大きいのではないか。インドの音楽享受状況も少しずつ変わってきていることを実感した。
 劇場3階の控え室で簡単なビール打ち上げがあった。そこへ、アニーシュの友人の映画監督ティップー、プロデューサーのスニールがやってきた。「すんごく興奮した。こんなんムンバイでもしてみたい」と熱っぽく語っていた。若いときのフランシス・コッポラといった風貌のティップーが、「来年にはやりたい、ついてはこれを一服どうだ」と普通でない煙草を差し出すので、わたしは「うん、是非やりましょう」といいつつまわしのみに参加した。これがかなり強烈にヒットした。

 インドの正月「ホーリー祭」の13日は、ハノイ出発の夜までフリー。「街に出れば色粉や色水攻撃に会う」という警告をよそに、梅津、坂井、田中顕、笠原、大工たちとタクシー2台を借り切り、ムンバイ市内観光。街は思ったほど人出はないものの、ときおりバイクで通り過ぎる青年たちや道路にたむろする人たちの衣服が色粉だらけだった。「女王のネックレス」を眼下に見おろすハンギングガーデン、物乞い技術見本市のようなハジアリ、バナーラスの雰囲気によく似たバーンガンガーとまわった。ハジアリの砂州の両サイドで参拝客に小銭を乞う「からだの不自由な人たち」の強烈なありさまに、「オレ、こういうの苦手なんだよな」という梅津や、「ちょっと気分悪い」とつぶやくあやのはショックを受けたようだ。
 夕方、フロントでチェックアウトの勘定書を見ていたとき、意識不明的中川博志の賈鵬芳抱擁事件というものが突然発生した。失神したわたしを抱き留めた賈が最初に発した言葉は「中川さん、顔、悪い」。顔色が悪い、というところを言い間違ったのだ。と、思う。この件に関してはさまざまな方面で差し障りもあると思われるので詳しくは紹介しないが、本村パピーに「お前な、四の五のいいたかないけど・・・」としっかり油を絞られた、とだけ書いておく。睡眠以外の失神は生まれて初めてだった。