バーンスリーとインドの音楽

 インド音楽の楽器としてはシタールが有名だ。そしてバーンスリーも広く知られれている。インドでは古くからクリシュナ神の楽器として愛されてきたし、近年はわたしのグルであるハリプラサード・チャウラスィアーをはじめ、優れた演奏家が多く登場し、人気が高い。
 20本の弦をもち、精妙な彫刻が施されて華麗なシタールに比べ、バーンスリーはまっすぐの長い竹の筒に、歌口と指穴が6個という単純な構造で、装飾といえば色のついた紐が巻いてあるくらい。安価で、軽くて、持ち運びにも便利だ。
 見た目はシンプルなバーンスリーだが、あらゆる楽器の例にもれず、習得には集中した長期間の訓練が必要である。インド音楽は特に音程に厳密で、どんな速度でも正確な高さの音を出すこと、また特有の修飾技法を会得することなども要求される。吹くときはリコーダーやフルートのような替え指は使わない。指穴の開閉を少しずらして加減することで、音の高さを微妙に調節し、ポルタメントのようにある音からある音へ滑らせる。古典音楽で使われる標準的なバーンスリーの最低音はBで、これは6個の指穴すべてを塞いで吹いた状態。音域は最大で2オクターブ半である。
 わたしが演奏するのは北インドの古典音楽(ヒンドゥスターニー音楽)だが、南インドにはカルナータカ音楽と呼ばれる古典音楽があり、呼び名は異なるが同じ竹の横笛が使われる。北インドでは11世紀以降イスラーム王朝の支配下にあったため、音楽も中東の影響を受け、独特のスタイルになった。旋律もリズムもある程度決まった大作曲家たちによる曲の多いカルナータカ音楽に比べ、ジャズのような即興演奏の要素が強く、演奏家個人の自由度が高い。そのためか欧米や日本でも演奏する人が多く、音楽ジャンルとして世界的に定着している。
 南北の古典音楽いずれも、多種類の音階型であるラーガを旋律創造の基礎とし、一定のパターンが繰り返されるターラをリズムの基礎としている。両者とも声楽が基本で、楽器による演奏ではいかに声楽に近い表現ができるかに演奏の力点が置かれる。その点からいえば、呼気によって音を出すバーンスリーの方が、弦を弾く楽器よりもより声楽に近い表現が可能といえるかもしれない。

・ラーガとは
 バーンスリーでもシタールでも、あるいは声楽でも、ヒンドゥスターニー音楽でもっとも重要とされること。それは、ラーガと呼ばれるさまざまな音階型に内在する特有のムードを表現することだ。歌詞を伴った声楽でも、歌詞の内容以上にラーガ自体の表現に重点が置かれる。
 ご承知のように音階とは1オクターブの中で使われる音を階段状に並べたものだ。西洋音楽ではドレミファソラシドという1オクターブ7音、長調か短調の調子で成り立つ音階だが、世界の民族音楽では西洋とは異なる多様な音階が使われる。
 音階を、1オクターブ12音から選びとられた5、6、7個の音による音列と考えれば、その組み合わせは無数に可能である。ラーガとはそうした組み合わせ可能な音列から音楽表現に適したものを取捨選択し、それぞれに名前、特有の感情、演奏する季節や時間帯、特有の旋律の動き、主要音などの性格を付与したものだ。
 例として以下の5音音階を考えてみよう。
  サSa リRi ガGa パPa ダDha
 近似の音階を西洋音名で表すと、
  ド レ ミ ソ ラ
 となる。
 この音列を持つラーガは3種類あるが、最も知られているのがラーガ・ブーパーリー。このラーガで強調される音はガ(ミ)、演奏にふさわしい時間は午後7時から10時の間とされる。
 さて、この5音を適当に並べて音を出してみると、日本や中国の伝統音楽にも似た「雰囲気」になる。なぜならこの音階はわれわれの伝統音楽によく使われているからだ。この「雰囲気」をインド人は「音階に内在する特有のラサ(感情、ムード)」ととらえた。
 演奏前のインド音楽演奏家は、通常、聴衆にラーガの名前を表明する。曲のタイトルではなく、声楽家であれば歌詞の内容でもなく、ラーガの名前だけである。たとえば演奏者が「これから演奏するのはラーガ・ブーパーリーです」と表明すれば、上記の音だけを使って即興的に旋律を紡ぎ出していくのである。ちなみに1曲の演奏時間はとても長く、1時間程度は普通だ。
 現在、知られているラーガは1000種類ほどだが、普通の演奏家がきちんと音階構造まで識別できるラーガは多くて300、完全にマスターして演奏できるものはせいぜい25くらいだろうといわれている。

・ターラ
 ラーガと並んで重要なものが、ターラという独特のリズム体系である。
 通常、4拍子といえば、アクセントのある最初の拍1とし、続いて2、3、4と数えた後、再びアクセントのある1拍がやってくる。一般にリズムサイクルと説明されるインド音楽のターラは、基本的な考え方は同じだが、繰り返されるリズムの拍数の種類が多くあり、途中の拍の分割も単純ではない。一例として以下にジャプ・ターラJhap Talaをあげる(Dhi、Na、Tiとあるのは2個1対の打楽器タブラーの打点と打法を示す口唱歌)。
  Dhi Na  Dhi Dhi Na  Ti Na  Dhi Dhi Na
 このジャプ・ターラは10拍子で、最初の1拍を入れて10拍数え、再び第1拍に戻る。拍のアクセントの分割は、2+3+2+3。
 10拍のこのターラは、日本人にはなじみが薄いが、ヒンドゥスターニー音楽ではごく一般的なターラだ。他には、6、7、8、12、14、16といった拍数のターラがよく使われる。
 ターラを語る際に欠かせないのが、サムと呼ばれる第1拍目の拍である。あらゆる旋律やリズムの変奏がサムで終了する。即興的変奏を絶妙のタイミングでぴったりとサムで解決させるかが演奏家の目指す瞬間であり、聴衆が待ち望む解放の瞬間である。「終わり=始まり」というこの独特のリズム観は、ヒンドゥー教の輪廻転生を思わせて興味深い。

・演奏の実際
 ヒンドゥスターニー音楽の演奏は、アーラープと呼ばれるゆっくりした自由リズムでスタートする。ラーガで使われる音を低音から高音へと、そのラーガ特有のムードを表現し、順次紹介しながら進行する。そして1オクターブの音すべてが紹介されると、次にジョールと呼ばれる、一定の刻みによる変奏が、再び低音から始められ、高音へ向かう。ついでジョールのほぼ4倍の速度でジャーラーという変奏が行われる。この、アーラープ、ジョール、ジャーラーは、まとめてこれもまたアーラープと呼ばれる。打楽器による伴奏はなく、主奏者のみによる演奏である。
 このアーラープが終わると、主奏者はあるターラに基づく決まった旋律を演奏し、タブラー奏者はその旋律からどのターラかを判断し、伴奏を開始する。主奏者がさまざまな旋律を即興的に紡ぎだす間、タブラー奏者はターラの基本パターンを常に提示する。途中で主奏者が定旋律を繰り返すと、タブラー奏者がソロ演奏を披露する。こうしたことが何度か繰り返され、主奏者は次第にテンポを速め、両者の可能な最も速い速度で全体の演奏が終了する。この、ゆっくり始まり最速で終わるという構成はヒンドゥスターニー音楽の大きな特徴だ。

・宇宙の波動を受信する音楽
 古典音楽の演奏全体を一貫して流れる雰囲気は、シャーンタと呼ばれる平安な感情である。そこにあるのは日常の具体的な喜怒哀楽ではない。演奏行為そのものは一人の人間=個我によるが、音楽は演奏者の個我を越えた地平に求められる。
 したがって、インド古典音楽は「梵我一如」・・・大宇宙の根本原理である梵(ブラーフマン)と個我(アートマン)の究極的合一・・・を古来一貫してテーマとしてきたインドの哲学と無縁でない。即興の芸術を追求し続ける小杉武久氏は、このようなインドの音楽の特徴を次のように紹介している。
「音楽は、全宇宙としてのエンバイラメントの中に遍在する超越的な波動であり、音楽家は一種のアンテナと同調回路をもつ受信器であり、自我の音楽を表現するというよりも、むしろ超越的な波動をとらえる媒体である」(『音楽のピクニック』)。
 常にバーンスリーを吹く姿で描かれるクリシュナ神は、宇宙の波動をとらえて再構成する象徴でもある。笛を吹くとは、大げさにいえば、竹筒を通して宇宙の波動を聴衆に伝えようとしているのだ。

                 浜松市楽器博物館総合案内掲載原稿(2015)