1950年代から今日までのディスコグラフィーおよび文献情報からみたヒンドゥスターニー音楽のラーガの実態
3.資料を扱うに当たっての留意点
データを分析する上では下記の点を留意する必要がある。
①これまで出版されたすべてのレコードを取り上げているわけではない。データから漏れたインド内外で制作されたレコードは少なくないであろう。したがって、今回使用したデータが相当な量とはいえ、これらの資料はあくまで補足可能のものに限定される。
②録音メディアでしか現れない表現方法がある。生演奏ではできない多重録音や、ラーガの時間帯や季節といったテーマにそって短い演奏を配列することなど。
かつてのSPの時代には、演奏家たちは本来なら1時間以上になる演奏を数分間に圧縮していた。録音メディアと現実の音楽の間には大きな隔たりがあったのである。長時間録音の可能なCDというメディアの出現によってこうした差はなくなったといえるが、一方で購買者を意識した曲の配分などにより、録音メディアが必ずしも現実の演奏の姿を現しているとはいえない場合もある。
③ラーガ、ターラ、スタイル、演奏家などの名称表記は、録音メディアによってまちまちであり、ミススペルやあきらかに誤りと思われる記述が多く見受けられた。統計処理をする上で不都合なので、基本的にはヒンディー語のローマナイズ表記に準じて統一する必要があった。
以下は訂正および統一で考慮した点である。
・ヒンディー語ローマナイズにおいて付加記号の必要な文字はスプレッド・シートでは処理できないため単純な英文テキストで表記せざるを得なかった。
例: ड→D、छ→CH、च→C、श्→S、ण→N、ष→S、ट→T、ठ→TH、ऋ→R
したがって、一般的な英語表記とは異なる場合がある。修正すると意味が不明確なものは一般 的な英語表記にしたものもまれにある。
例:Bageshri→Bagesri、Mishra→Misra、Chandrakauns→Candra Kauns、Desh→Des Gaudi→Gauri、Pancham→Pancam、Shuddha→Suddhなど
・綴りの異なる表記は一つに統一した。
Kanada、Kannda→Kanhra、Kausik→Kaunsi
・二つの単語が複合して一つになっている場合、元の単語を識別しやすいように分けて表記した。 Gunkauns、Jogkauns、Nandkaunsなど→Gun Kauns、Jog Kauns、Nad Kauns
・同じ意味に使われている名称は一つに統一した。
Darbari→Darbari Kanhra
・明らかにミススペルと思われるものは下記のように修正した。
Jalar Kedar→Jaldhar Kedar、Kaunhi Kanhra→Kaunsi Kanhra、Sohni Baar→Sohni Bahar
Kohari Kalyan→Kuheri Kalyan(Kuheli=霧)
Jaitshrti→Jaitsri
・たびたび混同されるBとVは下記のように統一した。
例:Bibhas→Vibhas、Vasant→Basant
・WはすべてVに変更した。
Bilawal→Bilaval、Asawari→Asavari、Barwa→Barva、Marwa→Marvaなど
・一般に長音を表す英語表記で書かれたものを下記のように修正した。
Bhoopali→Bhupali、Shree→Sri
・一般的なラーガの名称とは考えにくいものは除外した。
例:Bahuli、Bihu、Wasadari、Farghana、Suddh、Bihu、Manavi、Sanjari、Sindh、Shat
訂正した名称の一覧は表1を参照。
④ラーガ名の記載のない演奏曲がある(表2)。
|
種別 |
ラーガ名有 |
ラーガ名無 |
計 |
DHKM |
声楽 |
368 |
580 |
948 |
|
器楽 |
662 |
222 |
884 |
小計 |
|
1,030 |
802 |
1,832 |
IDisc |
声楽 |
584 |
96 |
680 |
|
器楽 |
896 |
148 |
1,044 |
小計 |
|
1,480 |
244 |
1,724 |
合計 |
|
2,510 |
1,046 |
3,556 |
表.2 ラーガ名記載の有無
表2で示したように、約三分の一がラーガ名の記載がない。特にDHKMにある声楽の大半のレコードにはラーガ名の記載がない。
ラーガ名の記載がない主な理由は、以下のような点からある程度説明できる。
1.声楽には、トゥムリーThumuri、タッパーTappa、ダードラーDadra、バジャンBhajan、ガザルGazalなど、古典音楽以外の「軽古典」や宗教歌のレコードが多く含まれる。一般に「軽古典」の場合は、ラーガ名よりも歌詞の一部がタイトルとして紹介される例が多い。DHKMのラーガ表記のない声楽レコード・タイトル数580はすべてこうしたものであった。下記はその主な内訳である。()はタイトル数。
アバングAbhang(11)、トゥムリー(14)、ダードラー(21)、バジャン(112)、ガザル(138)、キールタンKirtan(31)。
DHKMでは、つまり初期の録音メディアでは、カヤールKhayalなどの古典音楽よりもこうした「軽古典」が多かったことが分かる。いっぽう、CDが主要メディアであるIDiscでは、ラーガ名がきちんと記載された古典音楽が多くなった。録音された音楽内容の好みもあるが、LPやカセットからCDへという録音メディアの変化がこのような傾向を促したと思われる。
2.器楽では、主奏楽器がタブラーTablaやパカーワジPakhawajなどの打楽器の場合は、当然、ラーガ名の記載はない。打楽器が主奏のレコード・タイトルはDHKMで99、iDiscで62であった。
3.内容は古典音楽の場合でも、別のタイトルで出版されることがある。たとえば、多数の主奏者による短い演奏を集めた「Millennium The Finest Collection Indian Classical」「Musical Journey Through India」といったレコードでは、ラーガ名の記載はほとんどない。
4.実際は特定のラーガに基づいた古典音楽が演奏されているが、販売上の理由から別のイメージ的なタイトルがつけられているものには、ラーガ表記はない。例:"Caravan"、"Nostalgia - Melodies To Caress Your Heart & Soul"、"Sweet Romance"など。
5.西洋楽器などの加わったいわゆるフュージョン音楽ではまれにしかラーガ名の記載はされない。