4月5日(日)

 6時起床。備え付けのインスタントコーヒーをあわただしく2杯飲み仕事を終える。7時7分、1階のレセプションに集合。今日はフランクフルト経由でオーストリアのインスブルックまで飛び、夜に公演の予定だ。
 昨日のCD19枚分の売り上げと、サンドイッチ、ファンタ、ヨーグルトの入った朝食パックをレセプションで受け取る。倉橋氏とブルーノがわれわれを見送りに来たので記念撮影。倉橋氏はこのあとロッテルダムや他のオランダの都市へワークショップに出かけるとのことだった。

オーストリアへ移動
 
 律儀なフランツのバスはすでにホテル前で待っていた。
 1時間もかからずスキポール空港着。親切にカートを集めてくれたフランツともお別れだ。euphotos
 ルフトハンザのカウンターでチェックイン。ここでちょっと問題が発生した。池上の登場者名簿登録が良生ではなく良慶となっていたのだ。本人と証明できなければ乗れないことになる。
「日本人では書き方と読み方が異なる場合があるのだ」と説得(ごまかし)してなんとかなった。兄の良慶のツアー参加断念にともない交代として良生の参加を伝えたのは半年も前のことだが、手違いがあったようだ。
 セキュリティー・チェックでまたまたちょっとしたトラブル。
 黒人の係官が朝食パックを見ていった。
「これとこれは、駄目。いいですね」といいつつ隣の大きなポリバケツのゴミ箱にファンタ、ヨーグルトを無造作に投げ入れた。液体の持ち込みが禁止されているためだ。ついでX線を通ったリュックを指差す。
「中のものをすべて出してもらえませんか。まずこれはダメとして」と化粧箱に入った日本酒を取り上げて、ウインクする。
「はあい、こればゴミ箱行きですよ」と申し述べ、いったんテーブルに置いた。「基本的にダメだけど見逃してもいい」というサインだろうか。
「ふむふむ、ふむふむ。これは? あっ楽器ね。オッケー。でと、ふむふむふむふむ、問題なし、と。でこれですが、ざあんねんながら処分です」
 まだ箱の封もといていない日本酒を、彼は肩の高さに持ち上げた右腕でつかみ笑みを浮かべつつ手を離した。酒瓶は直立したままゴミ箱へ落ちゴトンと鈍い音をたてた。再び私を見た係官はにやっとした。なんともいやみな男だ。こうして、ジョーへの手みやげとしてほぼ1週間手元に置いてきたものがあっさりと没収されてしまった。
 休憩や交代の時には係官同士はこんな会話をしているんだろうなあ。
「ひひひ、封を切ってない高いスコッチ、捨ててやった。いい身なりだったから金持ちだったと思う。いい気味だ」
「ねえねえ、聞いて聞いて。この間さあ、ものすごく着飾った中年女性のバッグにむっちゃ高そうな香水があってさあ、あらあ、いい香水ですわねといったのよ。そしたら彼女がうれしそうにして、とても高価なものですわよ、っていうの。でね、それはここでお預かりすることになるんです、といったら彼女の表情がみるみる変わってね、おっかない顔になったの。上品そうだったのに、変わるもんですよ」
 まあ、あまり喜びの多い職場とはいえないのでこんなところで憂さ晴らしをしているのかもしれない。
 昨日の晩「あれ、飲んじゃおうか」と河合にいうと「あれはやばいっすよ。ジョーの土産でしょう。せっかくわざわざ持ってきたのに」というので飲むのは止めたのだ。今思えば飲んでしまえばよかった。悔しい。
「よれよれ日記の最大のネタですよね」などと宍戸が隣で冷やかす。 
 池上も詳しく調べられていた。後で聞くと、本当に僧侶なのかとか、しつこく聞かれたという。龍笛も楽器かどうか調べられたらしい。
 それを見ていた佐野が笑いながら、
「よっちょ(良生)のが手間どっとるとね。なんば悪いもん持ってるんちゃうかあ」
 といいつつ左腕の袖をまくった。
「あれ、時計がない。あれっ、ちょっと待てよ。どこやろう」
 ポケットやショルダーバッグを開いてあわてて探し始めた。
 ショッピングバッグの中はもちろん、ウエストバッグにもなかった。
「そういえば、あっこの黒人のとこでトレイに時計入れたばい」
 さっそく、くだんの係官のところまで戻った。コートと一緒にトレイに置いたはずだと訴えているようだ。コートごとふたたびX線を通すが見当たらない。手助けしようとも思ったが佐野は自力でなんとかできそうだったので放っておいた。
 佐野はぶつぶついいながら検査テーブル周辺を探していたが、見つからずに戻ってきた。
「あいつら、とったんとちゃうやろか」
「どっかに入ってるんちゃう」と橋本。
 佐野は何度も何度も荷物を引っ掻き回して探索するがない。と、ショッピングバックの底にじっとしていた時計を見つけた。
 こんなすったもんだの後、1時間ほどでフランクフルト空港に到着。ここでプロップジェットのボンバルディア機に乗り換えた。ワダスの席は窓際だったが、プロペラのところだったので視界が狭い。
 しばらくして機はアルプスにさしかかった。限られた視界に雪を抱いた急峻なアルプスの山々が入ってきた。お坊さんたちも「おー、アルプスだあ」と興奮してカメラを向ける。山頂まで続くスキー場も眼下に見えた。

euphotos euphotos
euphotos euphotos

チロル、ハールの街へ

 ほどなく機はインスブルック空港に着陸。タラップを降りて空港ビルまで歩く。さわわやかな風とともに急な傾斜の岩山を見上げた。空港は切り立った山々の間の狭い空間にある。空は完璧な快晴で日差しが強い。皆デジカメを取り出して撮影に忙しい。
 小さな空港建物の出口を見ると、ブラックスーツ黒メガネ用心棒風の男が「Shichiseikai」と書いたプレートをもって待っていた。彼にしたがって駐車場のミニバスに荷物を積み込んだ。
 ミニバスはインスブルック市街を迂回し高速道路に入った。20分くらいで岩山を背景にすくっと立つ教会尖塔が見える街に入った。ハールである。
 バスが止まったところは商店街ではないらしく、閑散としている。古びた石壁に「Hotel Goldener Engl」と表示のある建物が今晩のホテルだった。建物の外はカフェ・レストランになっていて、人々が太陽を浴びながら食事をしたりコーヒーを飲んでいた。彼等はときおりスキンヘッド日本人集団に視線を向けてきた。
 エレベーターのところで部屋割りを聞き、めいめい部屋に向かう。貫禄の長身赤毛の女性マリアからそれぞれキーが渡された。全員がシングル・ルームだった。
 402橋本、403池上、ワダス401が同じ階。402と403は隣り合い、窓は表通りに面しているが、401の窓は通りとは直行する位置にしかないので視界は限られる。部屋はたっぷりとした広さだった。昨日までのなんとなく安宿の雰囲気とは大違いだ。バスタブはなかったが、ぴかぴかの白い便器とガラスに囲まれたシャワー室も十分に広く気持ちがいい。

euphotos euphotos euphotos
euphotos euphotos euphotos
euphotos euphotos euphotos

ハンナ

 ホテルのレセプションに今日の主催者であるマリアの娘ハンナが来ていた。ハンナはワダスと同じくらいの背丈で細身。ちょっと目の鋭い知的な表情の女性だった。

euphotos euphotos
ハンナ
スペイン人作曲家


 レセプションで彼女と一緒にいたのはスペイン人作曲家という40代くらいの小柄な中年男だった。彼の作品が今回のイースター・フェスティバルで演奏されたためにここを訪れたが、今日帰国するという。
 ハンナと今晩の公演の進め方を相談した。事前の連絡では、公演に先立って音楽学者である彼女の父親が聲明について解説するということだった。ところが持病の糖尿病が思わしくないらしい。
「なので、解説の部分をわたしとあなたの対談のようにしようかと考えているのですが。どういう質問をするかはあとでホールで相談しましょうか」とハンナがいう。対談するにはお互いにそれなりの知識が必要だ。大丈夫なんだろうかとふと不安になった。

七聲会が練習

 

euphotos euphotos
練習
クリスティーナ

七聲会が練習したいという。場所はどうしよう。ハンナに相談すると、自分たちの事務所でよかったら、といってくれた。
 とりあえず見てみますかというので彼女の案内で事務所へ行った。ホテルに密着した隣の建物だった。中に入ると、壁際に印刷物が山のように積んであった。今回のフェスティバルの印刷物だ。分厚いカタログもあったのでチラシ類と一緒にもらう。ハンナはエレベータを使わず階段を登っていくのでワダスも後につく。3階は靴などが玄関扉にあったので住居になっているのだろう。彼女が案内したのは4階の事務室だった。細長い部屋だ。中央に長テーブル、入った左側の壁面にはオーディオ機器の並ぶスティール棚。右奥にはこげ茶色のアップライトピアノがあった。
「ここはいつでも使ってください。彼女がいますので、玄関でいってね」
 と別の事務室から来た若い女性クリスティーナを見た。
 会場へ向かうというハンナと別れていったんホテルに戻り、3時ころ七聲会のメンバーと再びフェスティバル事務局へ。4時過ぎに会場へ行くことにしていたので練習時間は1時間ほどしかない。めったに練習しないお坊さんたちの声を聞きながら日記を書いた。4時前に練習終了。

公演会場Galerie St. Barbara

euphotos euphotos
euphotos euphotos

 いったんホテルに戻りレセプションに再集合し、会場へ歩いた。ホテル横の小さなアイスクリーム屋に並ぶ長い行列を見つつ信号を渡るとすぐ会場だった。外見は地味だが2階建てのかなり大きな建物。楽屋口で待っていた背の高い青年ガズィに案内されて広い控え室へ。同じ並びの隣の部屋は大きなキッチンスペースになっていた。料理教室なんかをするのだろうか。
 ガズィに笙をあぶるヒーターの有無を尋ねると、「あるにはあるが」と持ってきたのは期待したものとは違っていた。河合は「しかたないっすね」といいつつなんとかやりくりしていた。まあ、ないよりはましなので妥協せざるをえない。控え室にはお茶や洋ナシ、りんごなどが用意されてあった。これまでもどの会場の控え室にも同じように準備されていた。この習慣は気持ちがいい。

リハーサル

 ハンナに案内されて劇場へ移動しリハーサル。先ほどの中年に近い青年マルティン・ガルツァナー(ガズィ)と2人の女性スタッフを紹介された。2人ともパンクっぽい雰囲気だが見た目ほど若くはない。黒装束に赤毛のローズィー・ヴィドヴィッチ、やはり上下黒で真っ赤な縁取りのメガネを黒い野球帽のひさしの上にかけたマリア・ゲルムンディ・サンチェス。2人とも音響担当だ。劇場内だというのにみんな平気でタバコを吸っていた。

euphotos euphotos
ローズィー
ガズィ
euphotos euphotos
マリア・サンチェス
楽屋

 舞台は床面から1mほどの段差があった。客席は中間通路を挟んで階段状に後方まで並んでいた。中間通路の舞台から見て左の隅が音響照明のコントロール卓が設置されていた。卓の上にも灰皿があり、スタッフみんながしょっちゅうタバコを吸っている。こんなことは今のヨーロッパでは珍しいだろう。宍戸のビデオカメラの操作を頼むと、煙草を口にくわえたローズィーがいった。
「いいわよ。任せて」
 客席は400席以上はあるかもしれない。最後部席からだと下の舞台がかなり遠くに見えた。劇場は天井が高くだだっ広いスペースを黒いカーテンで仕切って作られていた。
 中間通路の高さはちょうど2階にあたる。笏念仏入道はカーテンで仕切られた1階から階段を上がり、その2階部分をスタート地点とすることにした。
 ひと通りリハーサルを終えたのでお坊さんたちはいったんホテルに戻った。
 その間ワダスはハンナと打ち合わせ。ホテルでハンナがいっていたように、やはり父親の持病の糖尿病が思わしくないのでスピーチは無理とのこと。
 意外なことにハンナは聲明についてとても詳しかった。フェスティバルの印刷物の聲明に関する原稿もすべて彼女が書いたという。民族音楽学の学位ももっていた。父の代役で大丈夫だろうかと思ったが杞憂だった。
「まず、仏教と音楽についてわたしが質問しますので、それに答えてください。たとえば、今日公演する聲明は、儀式の一部として奈良時代あたりから行われていたとかいう感じで」
 彼女の口から「奈良時代」という言葉がでたのでたまげた。彼女が相当に勉強していることはこの一言だけからでもわかった。こちらとしても大雑把ないい加減な解説はできない。
「聲明には天台と真言という二つの大きな流れがありますが、そのことも触れたほうがいいですか」HIROS
「そうですねえ。話の流れでそうなる場合もあるでしょうね。あなた方の聲明は天台から分かれたものなんですよね」ハンナ
 うーむ。ナラジダイといいテンダイといい、歴史にも詳しそうだ。
「日本の伝統音楽との関係とかも触れましょう」HIROS
「そうですね。ただし、こちらの聴衆は日本の文化に関してはほとんど知らないのでその辺を考慮してください」ハンナ
「もちろん英語でということですよね。ドイツ語ではなく。なにしろわたしのドイツ語は1ミリにも満たないもんですから」HIROS
「あら、ドイツ語がおわかりなんですか」ハンナ
「いや、わかる、というレベルじゃなくて挨拶程度だったらなんとかのレベルです。実は学生だった1972年にこのあたりを旅行したことがあるんです。ミュンヘンに半年ほど住んでいたこともあります」HIROS
「あらあ、じゃあ、ドイツ語もすぐ思い出しますよ」ハンナ
「だめだめ。まったくだめです」HIROS
「もちろん英語でやりましょう。でも、あなたの最初のご挨拶をドイツ語でなさるといいかもしれませんね」ハンナ
「うーん。できるかなあ。考えてみようか」HIROS
 こんな感じで1時間ほど打ち合わせ。対話の流れはいちおう了解したものの、実際にどうなるかはわからない。とはいえハンナとの対談は問題なさそうだ。それにしても、彼女の日本文化や仏教に関する知識は驚きだった。また、最初は独身かと思っていたがそうではなく子供もいるとのこと。

昔を思い出す

 

euphotos
マリア

いったんホテルに戻った。ホテルのレセプション机に長身赤毛のマリアが座っているのが見えた。彼女は南アフリカに長く住んでいて英語も流暢だった。
「ちょっとお願いがあるんだけど。今夜の公演のときに簡単にドイツ語で挨拶したいが、どういったらいいだろうか」
「お安い御用よ。どういう公演? 仏教音楽ですって? あらあ、ぜひ伺いたいわねえ。今からでもチケットとれるかしら」
「わたしからいいましょうか」
「そうね、ぜひお願いしたいわ。ところで、どんな挨拶?」
「今日はこの町で公演できて幸せです。独特な日本文化をご堪能ください、みたいな感じで」
「そうねえ。じゃあ、こんな風にしましょうか」
 こういって彼女はメモ用紙に大きな字で書き始めた。
-------------------
 Guten Abend Meine Damen und Herren
Wir sind Sehr Glucklich Hier in Hall sein zu Durfen
Und Ihnen Eine Spezille Budistische Auffuarung Zu zeigen.
-------------------
「じゃあ、これを読んでみて」
「グーテナーベント マイネ ダーメンウント ヘーレン・・・」
「だめだめ。もっとゆっくり。でも発音はグッドよ」
 シュペツィッレというところがどうしてもひっかかるが、何度が練習してようやくOKが出た。こうしてドイツ語を読んでいると、遠い昔のことを思い出す。

 1972年のことだ。学生だったワダスはその年の5月から約10ヶ月の大旅行をした。横浜から船でナホトカ、列車でハバロフスクへ、そしてモスクワへ飛び、最初のヨーロッパの都市ウィーンにたどり着いた。片道切符の終点がウィーンだった。そこからははっきりとした目的地のない旅だった。当時は大学で第二外国語としてドイツ語は習ったが会話能力はほとんどゼロに等しいし、とうぜん英語もおぼつかない。とはいえ、語学力はなくとも旅行はできるものだ。
 同じ団体のパック旅行で知り合った2人の日本人若者と一緒にウィーンからまずベルンドルフという町へ電車で行った。同行の1人が「早池峰登山に行ったとき、大迫町がベルンドルフと姉妹都市だと聞いた。そこへ行ってみよう」といった。もちろん3人とも大迫町とはまったく関係ない。その小さな町の1軒しかないゲストハウスに泊まった。主人に「大迫町から来た」といったとたん、レセプションにいた娘を呼び寄せ「オオハサマからだってさ。アルバム持ってきてくれ」といった。主人はうれしそうな顔をして、家族が大迫町でいかに歓迎を受けたか、写真を見せながら話し始めた。次の日、彼はわれわれを町長や警察署長に引き合わせた。たしかクービックという姓の40代半ばに見えた町長は、自宅の応接間にわれわれを通し、大迫から来た君たちはベルンドルフのお客様だから、ここに毎日きて食事をしなさいと申し出る。こうなると今さらわれわれが大迫町とは関係ないといえなくなった。結局、2週間ほど滞在している間、いろんな人の案内で観光スポットに連れて行かれたり、食事の招待を受けたりと大忙しだった。町長の息子2人とも仲良くなった。長男は高校生くらいだったと思う。ワダスが、スクーターでこれからヨーロッパを旅行したいというと、格安の原付自転車を見つけてくれ、スピードが出るようにエンジンを半分に切断するという改造までやってくれた。Puffというメーカーのバイクだったが、今でもあるのかどうか。ともあれ、大旅行のスタートとしてはとてもラッキーな日々をすごした。少しずつドイツ語も覚えた。自転車で回るというO君、電車で回るというA君と別れたワダスは、そのプフのバイクにバックパックをくくりつけてベルンドルフを後にした。ザルツブルグ、インスブルックをゆっくりと回った。今日お坊さんたちと一緒に着いたインスブルック空港からの眺めはその当時にも見ていたはずだ。インスブルックでは宿代を浮かすために丘に広がる牧場で野宿もした。その後ミュンヘンに行き、金持ちの家事手伝いの仕事を見つけて帰りの旅費を稼いだ。ミュンヘンには半年ほどいた。当時のミュンヘンはオリンピックが間近に迫り活気のある大都市だった。ワダスを雇ってくれたロイター家の奥様は、最初の面接の日に宣言したとおり、ちょうど1ヶ月目でドイツ語だけの応答になった。それまで彼女は、仕事でよく使う単語の英独対照表を作り、1ヶ月以内に覚えるように、と申し渡していたのだった。だから、しばらくすると日常的なことはドイツ語でなんとかこなせるようになった。こうして大昔のことを書き始めると、つぎつぎといろんなエピソードが脳裏を巡るがこの辺にしておこう。

 それから37年経ったハールのホテルで、マリアのドイツ語挨拶発音練習を受けている。ドイツ語の響きがとても懐かしく思えた。部屋に戻ってしばらく練習し、なんとか暗記した。
 開演時間が迫ってきたので作務衣に着替えて再び会場へ。坊さんたちはすでに楽屋で着替えをしていた。河合はごついヒーターの前に笙をかざしてあぶっている。
 今日のコンサートの聴衆は400人以上、満員みたいで、ワダスは自分用の座席チケットをもらうためにハンナを探した。1階奥のバーコーナーで、ハンナを探しているとスタッフにいうと、隣でビールを飲んでいた老人がいった。
「ハンナの父親だけど、彼女を探してるって。その辺にいるはずだけどなあ」
 聲明の解説をすることになっていた父親だった。
「ハンナに聞きましたが、体調はいかがですか」
「そうなんだ。どうにも調子が悪くてね。糖尿なんだけど、他にもいろいろあってね。ハンナならうまくやってくれるはずだから心配はいらないけど。そうそう、彼女にハンナを探してもらおう」
 彼は隣にいた中年女性に声をかけた。その女性は「あら、ハンナならあそこよ」と指差す。
 呼びかけるとハンナが近づいてきた。

euphotos
ハンナの母、マリア


「あら、ごめんなさいね。チケット? あら、そうだったわね。今日は満員なのよね。席はあるかしら。舞台下の出入り口あたりにイスをもってくるしかないわね。スタッフにいっておくわ。ところで、わたしの家族を紹介するわ」とワダスを隅のテーブルに案内した。そこには、母親のマリア(実にマリアが多いなあ)と先ほどの父親、そして南米系に見える中年女性がいた。ハンナの兄の奥さんでメキシコ人ということだった。


「もうそろそろ開演ですね。袖にいきましょうか」

euphotos euphotos
euphotos euphotos
euphotos  

ハール公演

 開演時間の8時15分になった。舞台に近い黒カーテンの隙間からハンナがまず登場。舞台にもたれかかるようにして開演の挨拶をした。ついで最前列のカーテン間仕切りのイスに座るワダスを呼び寄せる。マイクを渡されたワダスは、練習してきたドイツ語で挨拶。念のためにメモも用意していたが、短い挨拶なので要らなかった。
「ここまでがわたしのドイツ語の限界です」と英語に切り替えて話す。客席から笑いが出た。
 ハンナとワダスの持ち時間は20分くらいだった。その時間内で聲明、日本仏教、日本文化などを解説しなければならない。しかも、通訳の時間も計算に入れなければならない。それでもハンナは要点を押さえた質問をしてきたので聴衆にはわかりやすかったはずだ。もっとも、話題としては相当につっこんだものなので、どれだけの人々が理解したかはわからない。聲明とは仏教儀式で歌われること、古代インドに発生したこと、散華では華をまくこと、華を拾ってもよいことなどが内容だった。
 25分ほどの対談を終え、舞台袖のカーテンをめくって外に出た。ハンナは「とてもよかった。ありがとう」といってくれた。
 ここで30分ほどの休憩。観客は1階隅に設けられたバー周辺に集まりワインなどを飲んでいた。ワダスはそれを見ながら楽屋へ戻った。お坊さんたちはすでに衣帯をつけて待機していた。河合は衣帯をつけたまま相変わらず笙をあぶっていた。まったく難儀な楽器だ。
 開演時間が近づいてきた。ハンナが呼びにくることになっていたがそれを待たずにみんな控えの空間に移動する。お坊さんたちは公演時間に関してはとても律儀である。舞台横の薄暗い空間でじっと待つ。退屈なので彼らの写真を撮った。暗いところで撮影すると、本来は黄色の衣帯が赤に近い色に見えた。自分の座るイスを確認しに見に行くと、1部でワダスが座っていたイスに見知らぬ男が座っていた。困った。あわててバーにいるハンナにもう1脚用意してもらう。
 ハンナが現れ「そろそろよ」といった。われわれは彼女に従って会場中段へ上がる階段へ向かう。ハンナのゴーサインで河合が笙を吹き始めた。池上の龍笛、橋本の篳篥が続く。続いて佐野が笏を打ち鳴らし、念仏を唱えつつ移動を開始。ワダスは全員が会場内へ移動したのを確認してすぐに舞台袖のカーテンを開けて中に入った。入ってすぐのところに数脚置かれたエクストラの客席に座る。ここからだと舞台の左奥が死角になるが、撮影ポジションとしては最適だろう。主催者のビデオ撮影担当もワダスのすぐ後ろの席で待機していた。まだ若い青年と助手の若い女性だった。撮影ポジションを変えるために移動しようとすると彼のビデオカメラの前を横切ることになる。その度にビデオカメラが稼働中かどうかを確認する必要があった。
 お坊さんたちが後ろから客席の間を通って舞台へ向かう。舞台前の階段下に雪駄が並ぶ。照明に照らされたお坊さんたちの衣帯が黄金に輝く。彼らの後ろには阿弥陀来迎図の掛け軸が中空に浮かび、実にバランスのよい構図だ。ワダスは河合のものと自分のデジカメで撮影した。どれもきちっと焦点があっていてよい写真になった。いったんカーテンの外に出て、会場中段から撮ろうと移動した。
 例によって散華、甲念仏、回向文と聲明が続く。今日は洒水はない。散華では皆が思い切り華を遠くに飛ばす。華を遠くに飛ばす技術は慣れている。会場は音響的によいとはいえなかったが、お坊さんたちの朗々とした声が会場全体に響き渡った。
 回向文を終えたお坊さんたちは、先ほどの控え空間へ通ずる下手へはけ、しばらくそこで待機したあと再び登場しお辞儀。会場からはなかなか途切れない拍手が続いた。


 楽屋に向かったが、全員の記念撮影をしたいとのことで再び舞台に戻る。舞台には多くの人たちが華を拾おうと集まっていた。この華はどいういう意味かといった質問をする人たちもいた。記念写真撮影でようやくお坊さんたちは解放されたが、南さんだけテレビ取材のために残った。例によってワダスが通訳ということになったが、これがなかなかに難しかった。
「みなさんの唱えるお経の意味はなんですか」
「道場におわします阿弥陀様の功徳を讃え回向するのです」
 タタエ? クドク? エコウ? アミダサマ? 困った。英語ではどう訳せばよいのか。第一、日本語でもきちんと意味がわかっているわけではない。ワダスの頭の中は適切な解答を検索してぐるぐる回り、最後に思考停止状態になってしまった。インタビュアーの女性はじっと私を見て待っている。カメラは回っているのでなにか応えなければならない。仕方がないので知っている単語を並べ立ててなんとかその場を糊塗してごまかした。
 汗だくになりながら楽屋に戻ると、着替えを住ませたお坊さんたちが待っていた。それからバーコーナーへ移動。

euphotos
euphotos

 バーコーナーではマリア、ハンナ、メキシコ女性といった主催者家族やスタッフたちがめいめいワインを飲みつつおしゃべりをしていた。イスがないのでいわば立食パーティーだ。われわれを認めると皆が拍手。地元の白ワインで乾杯した。

 

 

 ホテルへ戻ってワダスの部屋で再打ち上げ。
 1時ころ寝ようと思ってベッドに横になっていると誰かがノックする。池上だった。
「すんまへん。鍵を部屋の中に閉じ込めちゃって」
 2人でレセプションへいったが誰もいない。地下のバーへいってバーテンの若い男に事情を話す。バーは飲み客でいっぱいだった。
「うーん、誰に聞いたらいいのかなあ」
 バーテンとのやりとりとを聞いていた中年男が「なんとかできるからついてこい」とバーの外に出た。われわれは彼の後ろについて3階まで行った。彼は合鍵であっさりと池上の部屋のドアを開け、じゃあ、おやすみ、といって去っていった。

euphotos

前ページ 次ページ