4月7日(火)

 6時起床。珍しいことにコーヒー、タバコの引き金に頼らずに朝の仕事を終えた。7時ころ部屋から出て階段を下りたところで散歩から帰ってきた佐野に会った。
「ちょっとドナウの川岸を散歩してきた。きっもちいいすよお」euphotos
 早起きの佐野はいつも早朝散歩をする。
 中庭を囲む廊下をぐるっと回って食堂へ。それほど大きくない部屋の中央に朝食の準備ができていた。そこから丸いパン、ハム4種、チーズをとって食べていると、宿屋の主人らしい白髪老人がすっと現れて「コーヒー、紅茶、どっち?」とドイツ語で訊いてきた。彼は英語はあまりわからないようだ。コーヒーを頼んでしばらく1人で朝食をとる。まだ誰も起きてくる気配がない。

ディナー・パフォーマンスからプレス向けコンサートへ

 今日は公開リハーサルとテレビ取材がある予定だ。ジョーとやりとりしていた元のプランではディナー・パフォーマンスの予定だった。このプランはけっこう面白そうだったのだが、集客が思わしくないということでキャンセルになったのだ。ジョーからの最初のメールはこうだった。
「復活祭のあいだキリスト教徒は断食する。断食といっても野菜と魚はよいとされる。これでもけっこういい加減だ。うさぎを食べることすらある。その場合はうさぎの肉をしばらく水に漬けておく。水につかっていたものだからこれは魚だということで食べるのだ。というわけで、イースター期間内のフェスティバルなので食とアートについてのパフォーマンスを考えている。僕の考えはこうだ。まず、会場に大きな食卓を準備する。その中央に大きな生きたマグロを置く。それをプロの調理人がさばいて刺身とか寿司にして客に配る。そのときにお坊さんたちに聲明を唱えてもらう、と考えているのだがどうだろう」
 かなり意表をついた計画だった。南に相談してみると「うーん、いちおう仏教では殺生を禁じているわけだしなあ。難しいなあ」
 これを伝えるとジョーは「わかった。僕は仏教徒の意見に賛成だし尊重したい。この話はやめよう」といってきた。その後このプランは、一般的なディナーの席で七聲会が食作法(じきさほう)を2度行うということになった。われわれはそのための準備もしていたが、日本を出る直前にジョーからこんなメールが入った。
「お客が集まらないのでディナー・パフォーマンスはキャンセルにした」
 こんなわけで今日地元のテレビ局の取材を受けたり、9日に一緒に演奏することになったレジデンス・アーティストであるmamoruと共演も含めてのプレス向けの公開リハーサルを行うことになった。ジョーは、プレス向けのコンサートだからね、といっていた。途中で共演者として浮上してきたmamoruとは事前にメールのやりとりをかわしていたが、実際にどういうパフォーマンスをする人なのかわからなかった。

公演会場Minoritenkirche

euphotos euphotos
euphotos euphotos

 部屋に戻って練習と日記。10時になったので2階踊り場へ行った。踊り場ロビーに全員が集合していた。
 笙用のヒーターは電気コンロが使えるとわかった。
euphotos 全員で歩いて会場の教会へ。3階建てくらいの古い石造建物に挟まれた、ドナウと平行する粗い石畳の道を2ブロックほど歩いた。山側に広場が見えた。ホテル前の広場と同じように広場はゆるい坂になっていた。広場の奥が会場となる教会、Minoritenkircheである。
 古い教会の内部はかなりモダンに改装されている。催し物のチラシやポスターが展示されているガラス扉の入り口を抜けるとすぐ左が教会内部になる。現在、教会としては使われていない。内部は天井の高い縦長の空間だった。フェスティバルのパフォーマンス空間として使われるようになってから宗教的な装飾は取り払われたようだ。右手奥に高さ1m、間口8m、奥行き8mほどの仮設舞台が作られていた。その舞台の後方に20cmほどの高さのプラットホーム。その奥の、かつての祭壇スペースはがらんとした空間になっていて、舞台に奥行きを与えていた。
 客席床面からの小階段を上ったあたりで、横長のメガネ、薄い鼻ひげのひょろっとした青年が小さな音具や電子機材の設営をしていた。彼がmamoruだった。

mamoru

euphotos
mamoru

 彼のホームページの略歴にはこうあった。
 --77年生まれ。2001年にニューヨーク市立大学卒業後、自作の音具や音響機材を用いて、間や、空間性を強く意識した様々な「響き」を即興的に組み上げてゆくサウンドパフォーマンス、複数の独立した音源を複数のスピーカーを用い空間的に音像を造作するマルチソース・マルチチャンネル型のインスタレーション作品などを国内外のギャラリー、美術館、その他の場所で発表。--
 彼は堺生まれの32歳。神戸大学農学部に「瞬間的に在籍」したがすぐに退学しニューヨークへ渡った。事前にメールのやりとりをしたが、彼と直接会うのはこのときが初めてだ。自信のあるさわやかな表情の青年だった。レジデンス・アーティストとしてここクレムスに数ヶ月滞在している。

控え室

 mamoruとしゃべっているところへジョーがやって来た。七聲会の舞台配置や動線などについて打ち合わせ。また、舞台技術者だというLisiやテレビ取材のバーバラとカメラマン、助手などがつぎつぎにやって来て挨拶し、取材順序などについて話した。ひと通り打ち合わせが終わったところでポーラがわれわれを控え室まで案内してくれた。
 舞台下手側機材置き場のドアを開けると明るい中庭の見える広い廊下に出る。天井までのガラス壁が芝の中庭と廊下を仕切っているので廊下はとても明るい。廊下は広い階段のところで直角に曲がり、その奥に部屋が続いていた。奥から二つめの部屋がわれわれの控え室だった。かなり広い控え室には大きなテーブル、ソファ、フルーツやナッツなどの軽食と飲み物が用意された長テーブルがあった。腰窓からは広い芝生の庭が見えた。橋本、池上、佐野、ワダスは窓下のラジエーターを乗り越えて庭に出てタバコを吸う。広い庭からは岩だらけの裏山が見えた。euphotos

 

リハーサル

 舞台に戻るとmamoruのテレビ取材中だった。その後、ワダスとmamoruのセッションのリハーサル。9日のプログラムは、まず彼のソロ・パフォーマンス、途中からワダスが加わり共演するという予定になっていた。
 2人とも初めて一緒に演奏することになるので最初は探り合いだ。mamoruは繊細な音作りをする。がんがん自分を主張するタイプではない。また即興セッションには慣れている。お互いに音を出し合ってみると問題はなさそうだ。われわれのリハーサルの間にゴージャスな衣装を着けたお坊さんたちが入ってきて待機していた。

euphotos euphotos

 続いて七聲会のリハーサル。テレビ局は散華、mamoru+HIROSとのセッションの様子を取りたいという。前夜の連絡では、衣装はつけるが立って歌う聲明を1曲だけということだったので、散華の花と華籠は持ってきていなかった。
「えー、そんなー。だったら最初からいっておけよなあ。ちゃんと何を持っていくのか事前に調べておけよ」
 橋本はこう不満を述べ、池上と宍戸が華と華籠を取りにホテルに戻ることになった。時間がないのでジョーが彼らを車で連れて行き、15分ほどで戻ってきた。
 舞台と相対する身廊の後方ドアから笏念仏入道。河合の笙、池上の竜笛、橋本の篳篥が高い天井によく響く。全員舞台に座り甲念仏を唱える。豊かな倍音を伴った池上の句頭が心地よい。
「ここの教会はすごく響くけど、響きすぎるってことがないなあ」
 とmamoruに申し述べると、
「けっこう音質には気を配っているようですよ。ほら、天井から細長い布がぶら下がっているでしょう。あれはかなりハイテクな布みたい。無駄な反響を押さえる特殊な吸収布だといってた」

インタビュー

euphotos 公演の最終プログラムである全員セッションも無事終わり、南以外のお坊さんたちは着替えのため控え室に退出した。残った南はテレビ局のインタビューを受ける。カメラや照明のセッティングのあいだ、南は顔に汗を浮かべて待つ。通訳はワダスがすることになった。
 インタビュアーの質問は、儀式の意味、実際に歌うことの宗教的意味の違いなど。
 南が質問に応える。
「阿弥陀経には、浄土には音楽が溢れている。旋律をもって歌うことで、阿弥陀の功徳に帰依する」
「儀式はすべて阿弥陀仏に対するもの。その名前を念仏するものはすべて救済される。日本仏教に、聖道門と浄土門の二つがある。聖道門は、禅のように、厳しい修業したものに悟りの道が開かれる。浄土門の考え方。みずからの心を観察すると、どうしても欲があることがわかる。そうした厳しい修行のかなわない一般人が救済される方法は、唯一、阿弥陀仏の念仏によって我を忘れることが必要。その阿弥陀仏を称え、功徳に帰依するのが儀式」
 南はこんなふうに日本語で答えたわけだが、英語にするのはやはり難しい。途中かなりつっかえてしまった。ついで南はラジオの取材を受けた。
「今日の夕方ウィーンへ行くんですよ」とmamoruがいった。しかもミュージシャンの内橋和久さんの奥さんの華英さんとも会うという。かつて神戸に住んでいた内橋さんは、娘さんの心臓疾患の治療もあり、ウィーンに引っ越してきていた。華英さんの自作詩歌曲のコンサートが今晩8時からMAKであり、mamoruはそれに行くというのだ。神戸時代から知り合いの彼らに会えるかもしれないのでいい機会だ。
「電車で行きます」というので同行を願い出た。
「ただね、普通なら電車で1時間ほどですけど、こっちの時刻表はむちゃくちゃなんです。2時間かかることもありますよ。それに、終電車が早いのでウィーン泊まりになるかもしれませんけど」
 明日は七聲会にとっては完全な休日。ワダスが単独でウィーンに行っても問題はない。

熱暑ランチ後、いきなり

 リハーサルと取材がすべて終わった。ポーラの案内で近くのレストランへランチに出た。案内されたレストランからは道路をはさんでドナウ河と艀が見えた。この日は猛烈に暑い日だった。陽射しが刺すように強い。屋外のテーブルにみんな座ったが、日傘で覆いきれない席も出てくる。橋本が宍戸に日傘位置の調整を指示する。全員でビールの乾杯のあと、ハンガリー風リゾットとトマトソース・チキンとかぼちゃなどの昼食をとった。隣の小さな店のアイスクリームがデザート。

euphotos euphotos
euphotos euphotos
euphotos euphotos


 ホテルに戻る。お坊さんたちは自由時間になったので各自部屋で休憩。ワダスは今夜のウィーン行きを相談するため、しばらく教会にいるというmamoruに会いに行った。だが彼はどこにも見当たらない。彼がいるかもしれないと2階のフェスティバルの事務所へ行ってみた。広々とした事務所だ。コピー機などの事務機などが置かれた広い廊下に沿って、スタッフたち2、3人がゆったり仕事のできる部屋が続く。ポーラの部屋の横がジョーの部屋だった。ジョーがコンピュータののった大きな机を前にして座っていた。その背後には横机、CDなどが並んだ天井までの棚があった。
 ワダスが今日mamoruとウィーンに行くことを話すと、しばらく考えてジョーがいった。
「お坊さんたちはどうしてもウィーンに行きたいか。だったら今日ではどうだろう。いいジャズクラブがある。そこへ行くというのはどうか。向こうで華英にも会えるし」
「本当?お坊さんたちは喜ぶよ。さっそく知らせてもいいかな」
「OK。じゃあ、そうしよう」
 ジョーはその場で車の手配をした。いきなりワダスの予定は変更になった。
 教会へ戻るとmamoruが音具セットの微調整をしていた。しばらくレジデンスに戻っていたという。ジョーの「お坊さんウィーン連れ出し提案」を話すと「ええ、ほんまにいきなりですね」と答える。
 mamoruの携帯を借りて華英さんに電話した。
「ええーっ、ヒロスさんですか。こっちに来ていると聞いてたけど。会いたいですね。わたし、明日日本へ行くんですよ。ジョーがジャズクラブに連れて行くって。有名なとこですね。だったらわたしもそこへ行くかも。じゃあ、そこで会いましょう」
 ホテルに戻るとすでにお坊さんたちがうきうきしながら待機していた。河合が体と頭が重いのでパスしたいといっていたが、結局は全員で行くことになった。

ウィーンへ

 約束の5時すぎ、ジョーが昨日と同じメルセデスのミニバスでやって来たので全員乗り込む。
 車はウィーン市内に入った。途中フンデルト・ヴァッサーのデザインしたけばけばしい建物が見えた。
「フンデルト・ヴァッサーだよ。俺は嫌いだけどね」
 と運転席のジョー。ワダスにとっては37年ぶりのウィーンだが、ほとんど覚えていないので再会の感慨はなかった。考えてみればそのときウィーンにいたのはたった2晩だけなので無理はない。
 ウィーン中心部でジョーが駐車スペースを探しているときに宍戸が激しい便意を訴えた。ジョーがかろうじて見つけたスペースに無理矢理車をつっこんで駐車した。前後の車とはほとんど密着状態だ。
 車が停止した瞬間、脂汗を流した宍戸があわてて町に飛び出していった。緊急事態に迫られた宍戸ことバッコマンが必死にウィーンの街を走る。走る。どこだ。解放地点は。君たちはこの俺の苦悩がわからないのか。涼しい顔をして歩いている場合か。どけっ。どいてくれー。こうして必死の形相のバッコマンは雑踏のなかに消えた。宍戸を待ちながら河合とのバッコマンの話がラドラムのジェーソン・ボーン・シリーズ風に膨らむ。
『バッコマン・アイデンティティー』では、記憶を失ったバッコマンが何者かの操作によって自分の意志では抑えがたい急激な便意におそわれる。その理由を探りつつ大きな陰謀に巻き込まれていく。『バッコマン・スプレマシー』では、恋人とようやく平穏な日々を過ごしていたバッコマンにある組織からの便意操作攻撃にあい、自分を育ててくれた組織の謎の究明に乗り出す。そして『バッコマン・アルティメイタム』では、バッコマンが実は政府の関係する秘密計画によって作られた最終人間バッコ兵器であり、その計画が闇に葬られたとたんにバッコマンは存在してはいけない存在となり暗殺者に追われる。バッコマンは陰謀を暴くために暗殺者たちをしりぞけ、かつて自分を作り出した組織に最後通牒(アルティメイタム)を突きつける。
 平安に満ちた表情の宍戸が戻ってきた。彼がジョーにいった。
「君は命の恩人だ、ありがとう」
 さしだした宍戸の手を握った ジョーが、大声で笑った。
 当人の宍戸も加わり『バッコマン・シリーズ』の話がさらにふくらんでいくのであった。ほんとうに、小説にしたらおもしろいかもしれない。
  ちなみにバッコとは山形語で大便のこと。

スキンヘッド一行ウィーンを歩く

 スキンヘッド7名の一行はウィーン一の繁華街にある聖シュテファンスドームへ向かった。euphotos
 重厚な歴史的建築の立ち並ぶウィーンの街は人出でにぎわっていた。暮れなずむ街路にはみ出たカフェは混み合い、おしゃべりや街を眺めるのに忙しそうだ。さまざまな服装の老若男女がひっきりなしに行き交う。ガイドに従う日本人団体旅行者もいた。不思議なジャンプ式乗り物に乗った青年が人ごみの中をぴょこんぴょこんと飛び跳ねていた。
 そこでふと気がついた。聞こえてくるのは車の行き交う音や人の話声だけではないか。音楽の都といわれているのに街頭では音楽がまったく聞こえてこないのだ。これが東京の渋谷とか新宿だったらどうだろう。ジャンルも音量もこちゃまぜになった音楽が街中にあふれかえっているだろう。音楽のない大都市を歩くのはなんと気持ちのよいことか。
 ゴシック様式の壮麗な聖シュテファンスドームはその高い尖塔のためよく目立つ。複雑な幾何学模様のある、急勾配の明るい屋根とすすけたような黒ずんだ外壁が対照的だ。中に入ると、鋳鉄フェンスの先の祭壇で儀式が行われていた。よく反響する司祭の声の合間にパイプオルガンの重々しい音が鳴り響く。街に音楽がないだけに新鮮に聞こえる。ワダスは目をつむってオルガンの音を聞きながら空間の広がりを想像した。しばらくしてジョーが近づいてきていった。
「さ、行こうか」
 ジョーは足早にどんどん歩く。写真を撮ったりしているわれわれ一行は休む間もなく彼に従う。
「ここはウィーンの典型的なカフェ。とても有名だ」
 どの席も埋まっていた。
「うーん、いっぱいだな。じゃあ、次行ってみよう」
 20秒ほど入り口に滞在した後ジョーがまた歩き出す。中央に起伏のある大きな芝の庭を囲んだカフェも客でいっぱいだった。
 われわれはいったん駐車位置まで戻り車に乗り込んだ。車で向かったのはミュージアム・クオーターだった。
 ここの地下駐車場へ入るのがひと苦労だった。ジョーの借りたベンツのミニバスは天井が高く、駐車場の高さ制限ぎりぎりなのだ。坂を下った進入口のところでバスの天井からなにかがこすれる音がした。河合が窓から首を出していった。
「ええっえ、アンテナがゲートの天井に接触してますよお」
 バスの天井との隙間も2、3cmしかない。河合が天井をにらみながらジョーに告げる。
「OK。OK。ストオーップ!! スローリー、スローリー、オッケー」

euphotos euphotos euphotos
euphotos euphotos euphotos
euphotos euphotos euphotos
euphotos euphotos euphotos

 ミュージアム・クオーターは、広大な石畳の中庭を美術館、博物館が取り囲むよう設計されている。暮れなずむ中庭にはものすごい数の人たちが座ったりたたずんだりしていた。われわれはその一角にあるカフェでビールを飲んだ。ここも満席で座る椅子がない。仕方なく石のベンチなどに座った。
 それにしてもすごい人出だ。そして皆おしゃべりに余念がない。いったい何をしゃべっているんだろうか。ジョーがいった。
「長い冬が終わったからね。これまでずっと家に閉じこもっていたので、この季節になるとみんな外に出てくるんだ」
 つづいて車はMAKへ移動。インターネットの案内によれば、MAK(応用美術館)は中世から現代へ至る家具、ガラス製品、陶磁器、銀器、テキスタイルなどが展示されたデザイン美術館だ。ときおり音楽会場として貸し出されるという。入り口に着くとほどなくmamoruと華英さんが現れた。華英さんと会うのは久しぶりだ。以前よりもふっくらとしてウィーンでの生活にもなじんでいる様子だった。

euphotos
内橋華英さん(中央)


「HIROSさんがこっちに来ているのは聞いていたのでひょっとしたら会えるかなと思ってた。よかったあ」
 夫の内橋さんは東京に何ヶ月か行っていて、明日、娘さんと日本に行く、娘さんはとても元気で学校に通っているという。今日はこの会場で彼女の詩にメロディーをつけた歌曲が演奏されるというので来ていたのだった。
「わたしもmamoruと後でジャズクラブに行くのでそこでまた」
 ということでいったん彼らとは別れ、お坊さんたちがなんとなくぶらぶらしているミュージアムショップへ行った。デザイン美術館らしく、ヘンチクリンなデザインのグッズがいっぱいあった。モノ好きの佐野はさっそく何かを買っていた。
 そこからくだんのジャズクラブに向かった。ジョー自身もはっきりと道を知らないらしく、ときおり人に聞いてようやくPorgy & Bessの看板が見える場所にたどり着いた。夜道をかなりの距離歩いたのとビールのほろ酔いでへとへとだった。

ジャズクラブ、Porgy & Bess

 場所はリーマーガッセだから聖シュテファンスドームからはそう遠くなかった。ジョーによれば、Porgy & Bessはウィーンでも有名なジャズクラブだ。1993年にオープンし、NPO法人が運営しているという。数階建てのビルの入り口から階段を上って2階へ進むとクラブの受付だった。ポスターが所狭しと貼ってあった。上原ひろみのポスターも見えた。内部は3階まで吹き抜けで舞台を頂点とした馬蹄形になっている。ぱっと見た感じでは新宿ピットインに雰囲気が似ている。2階が喫煙、3階が禁煙と分かれている。ジョーは関係者のような顔をして、よっ、と何人かの人に声をかけて店内に入ったのでわれわれもぞろぞろとくっついて入った。店内でも客から声をかけられていたのでジョーは「顔」なのだろう。
 舞台では、トランペット、トロンボーン、サクソフォン、ピアノ、ドラム、ベースというバンドが演奏していた。後で調べると、演奏していたバンドはTomasz Stanko's Austrian Project、リーダーであるトランペット奏者Tomasz Stanko、サックスSigi Finkel、トロンボーンJohannes Herrlich、ピアノFritz Pauer、ベースPeter Herbert、ドラムスWolfgang Reisingerという編成だったが、まったく知らない名前ばかりだった。横長メガネ、スキンヘッド、ジーンズに白いスニーカー姿のスタンコは、小柄で細身だが堂々とした顔つきをしている。彼のホームページを見ると1942年前後の生まれということだから70歳近い。ポーランド生まれのトランぺッターでヨーロッパ有数の演奏家らしい。スキンヘッドの頭の形が佐野に実に似ていた。

euphotos euphotos


「彼以外のメンバーはオーストリア人だよ」と、隣に座った大柄な神学生が教えてくれた。その神学生は年会費200ユーロを払って2日おきにここにくるという。
 ブロンド長髪、白いチョッキのサックス、歴史教師のような地味な雰囲気のトロンボーン、頭頂部のはげた痩せ型の農夫風のドラム、ベースは数学教師といった感じか。後姿しか見えないピアノは小太りだった。メンバー全員けっこうな年齢に見える。音楽そのものは比較的大人しい、いわゆるジャズ。mamoruが「ああ、レトロ・ジャズをやってるとこですね」といっていたが、やっている人もレトロという感じだ。ここでは実験的な音楽もやっているそうで、内橋さんや大友良英、渋さ知らズも演奏したという。
 お坊さんたちはウィーン市街連れ回し攻撃と空腹もあってくたびれた顔をしていた。ワダスが座っていた3階のバルコニー席周辺になんとなく皆が集まり出した。「なんか食いたいなあ」というので白ワインとラビオリを注文して食べた。店内に入って1時間ほど経ったころ、mamoruと華英さんが現れたのでしばらくおしゃべり。mamoruは今日はウィーンに泊まるという。そうこうしているうちに12時前になっていた。まだ演奏は続いていたが、ジョーに「お坊さんたちは疲れているみたい」と告げると「OK。じゃあ帰ろうか」となった。
 クレムスのホテルに戻ったのは1時ころ。ベッドに横になったらあっという間に意識を失った。

前ページ 次ページ