4月9日(木)

 8時起床。食堂へ行ったが七聲会メンバーの姿は見えない。まだ寝ているのだろうか。ドイツ語を話す中年のカップルが朝食をとっていた。
 午前中は練習、日記、読書。無線LANでインターネットがつながるのでニュースなどを見て過ごす。
 お昼ころ、洗濯をしていた河合を誘って街へ散歩。ゆっくりと街に出ることができるのは今日だけだ。スーパーマーケットで大量のチーズ、ソーセージ、ハムなどを購入した。日本に比べてずっと安くおいしいので自家用として見境なく買ってしまった。ものすごく重く、臭い。途中の小さな店で買ったケバブをコーラで流し込みつつ2時ころ会場へ。すでに皆は揃っていた。

最終コンサート準備

eupict 今日のコンサートは、まずmamoruのソロ・パフォーマンス、途中でワダスが舞台に登場し一緒にセッションするのが第1部、休憩を挟んで七聲会が笏念仏で入道し散華、礼讃、甲念仏。その後にmamoruとワダスが加わり七聲会の阿弥陀経とセッションし終了、という構成である。
 舞台ではmamoruがリハーサルをしていた。イスに座った彼は、舞台上手のコーナーに板の上に雑然と並べられたエフェクター、ミキサー、ペットボトル、ストロー、邦楽用調子笛、線のつながった四角い板、ギターのネックだけに見える自作の弦楽器などをときどきいじり、客席右奥柱にセットされた音響ブースの青年2人とやりとりとし音質や音量を調節していた。mamoru演奏コーナーの背後には大きなスクリーンが設置され、彼の演奏する様子を聴衆が見られるようになっていた。eupict
 ジョーは客席を移動しながら全体の様子をチェックしていた。きびきびした動作ではないので、なんとなくその辺をうろうろする背の高いオッサンのようにも見える。
 舞台下手のコーナーにワダスが座り、mamoruとのセッションパートのリハーサル。ワダスは麻黄色の七聲会ネーム入り作務衣姿。一昨日に一緒に合わせているのでリハーサルはスムーズに進んだ。本番でも問題なさそうだ。われわれのリハーサルが終わったので背後のスクリーンが取り除かれ、七聲会の座るひな壇が現れた。ジョーはひな壇の後に長いスタンドを立て先端から掛け軸を吊り下げた。
 すでに本番用の衣装をつけて客席で待機していたお坊さんたちが、舞台の準備が終わったのを確認して舞台に上がり円座に着座した。いつものようにiPodのドローンが流れたのを確認してワダスがまずアーラープを演奏する。アーラープが終わると橋本の句頭で仏説阿弥陀経の読経。お坊さんたちの声が高い天井の空間に響き渡る。ものすごい迫力にmamoruは目を見開く。最後の全員セッションも問題なさそうだ。

eupict eupict
eupict eupict
eupict eupict
eupict
作務衣をプレゼントされて喜ぶジョー

ジョー、仏教徒になる?

 仏説阿弥陀経が終わったところで、客席に座ってわれわれのリハーサルを眺めていたジョーにこういった。
「ジョー、ここに上がってきてくれないか。あなたにちょっと用事があるのだ」
 えっ、どういうこと、という顔のジョーが舞台に上がってきた。
「ここに座ってほしい」
 ワダスはmamoruの座っていたストゥールを南の正面に置いて示した。
 ジョーは、厳かな表情のお坊さんたちを見ながらにやにや顔で訊ねる。
「何かの儀式なんですか」
「今から行う儀式によってあなたは仏教者になります」
 南が神妙な表情でこう告げた。南以外のお坊さんたちは厳かな表情で斜め下方を見つめる。低いストゥールに座ったジョーは背中を丸めて長い足を開き、手を添えてぎこちなく居住まいを正した。
 南が瞑目しつつ静かに経文を唱え始めた。ジョーは腰の位置を何度もずらしながら下目使いに南の顔を見てあわてて視線を落とした。
 しばらく読経が続いた後、南が「南無阿弥陀仏」と唱えると他のお坊さんたちが続いて唱和した。きょとんとしているジョーに南がはにかむように英語ででいった。
「リピート・アフター・ミー」
 これにはみんなもくすくす笑いだ。
 ジョーが頷き、お坊さんたちの唱和に合わせて「ナームーアミダーブー」と唱える。横で見ていたワダスは思わず笑いをこらえた。
 ひととおり儀式が終わったとき、ワダスが大声で歌い出した。
「ハピー・バースデー・トゥー・ユー。ハピー・バースデー・トゥー・ユー。ハピー・バースデー・デア・ジョー。ハピー・バースデー・トゥー・ユー」
 舞台にいる全員が途中から加わり大合唱になった。われわれの企みを察したジョーが神妙な表情から一転して笑顔になり全員を見回した。
「あなたは奇しくも仏教の創始者であるお釈迦さまと同じ4月8日が誕生でしたね。1日遅れになりましたが、このことを祝して儀式を行いましたので、あなたは正式な立派な仏教者になりました」
 南がジョーにこう告げつつ、かねて用意してあったリボン付きの紙包みを手渡し合掌した。ジョーは受け取ったものを足の間に置いて合掌を返す。
「開けてもいいか」というジョーの問いかけに河合が声をかけた。
「オープン」
 ジョーはおそるおそる紙包みを破いて中味を見る。ジョーのサイズに近い河合の灰色の作務衣が出てきた。
「お坊さんたちの作業着だ」とワダスがいうと、ジョーは驚いた顔で上着を広げてTシャツの上から羽織りはじめた。そこで皆が拍手を送った。ジョーが潤んだような目でお坊さんたちを見ていった。
「ありがとう。こーんなことって。ありがとう」

 

 

ドナウ河へ散歩

eupict eupict
eupict eupict

 リハーサルが終わったのは4時ころだった。本番の8時半までは時間がたっぷりある。みんなでドナウ河へ散歩に行った。会場からは歩いて数分だ。遊歩道になっている堤防を駆け下りたところに桟橋があった。「Krems」と書かれている。ドナウを上下する定期航路のものだろう。ゆったりと見えるが、意外と速い流れと対岸を桟橋の手すりにもたれかかり、しばし眺めた。水量も川幅もスケールは違うが、山形の大石田町で同じように川を眺めた記憶が蘇る。「五月雨を集めて速し最上川」(芭蕉)をもじれば「アルプスを集めて速しドナウ河」というとこか。
 記念写真を撮ろうということになった。堤防にある遊び場に白いワイシャツとスボンという恰好の細身の少年がいた。10歳くらいか。艶のある黒髪と褐色の肌であきらかにインド系だった。彼にシャッターを押すよう頼んだ。そしてヒンディー語で訊ねてみた。
「きみはインド人?」
 一瞬きょとんとした顔になった少年が答えた。通じたのだ。
「いいや、パキスタンだよ。ほら、あそこに家族がいる」
 少年の指差した方を見ると、インド系の男たちが木のベンチに座って談笑していた。
 撮影が終わってから男たちの固まっているところへぶらぶらと近づいた。男たちの中で貫禄のありそうな中年にヒンディー語で訊ねた。
「あの子にさっきシャッターを押してもらった。パキスタンからと聞いたけどこの街には長いの?」
「いや、長くない。工場に出稼ぎにきてるんだ。国には仕事がないからね。ところであんたはウルドゥー語をしゃべるようだけどどこで習ったんだい」
「ウルドゥーじゃなくてヒンディーだよ。ま、同じだけど。インドのバナーラスに住んでたんだ」
「ふーん。そうか」
 男は急にワダスへの興味を失い仲間たちと会話を始めた。
 次第に暮れなずむ堤防でぶらぶらしていると、黒い長袖のTシャツ、ジーンズ姿、焦げ茶色の長髪の女性が近づいてきた。首に赤いインド綿の布を巻き付け、肩から赤のジョーラー(インドの布バッグ)を下げている。阿川佐和子に感じが似ている。
「あのう、あなた方は日本から来たお坊さんですか」
「はい、そうです」
 南が僧の黒衣を着けていたのでわかったのだろう。
「今晩、コンサートに出演するんですよね」
「そうだよ。あなたはコンサートへ来ますか」
「もちろんです。そのために私はハンガリー国境に近い街から来たんですから。ものすごく期待しています」
 聞けば、仏教、瞑想、ヨーガなどに興味を持っていて、インドにも行ったことがあるとのこと。名前を聞いたが忘れてしまった。

eupict eupict
eupict eupict

ツアー最後のコンサート

 7時ころに会場へ戻った。位置の代わった楽屋でそれぞれがくつろぐ。橋本、河合、池上は窓から外の庭に出て雅楽の練習。ワダスも教会堂横の広い廊下で練習した。残響が心地よい。宍戸が音を聞きつけたのか近づいてきた。
「いやあ、いい音ですね。僕、まともにバーンスリーの音を聞いたのは初めてですけど、すんごいええ音で感動しました」
 ポーラが「そろそろよ」と楽屋にやってきた。お坊さんたちはすでに着替えをすませ立って待っていた。
 教会堂の真ん中付近まで並べられた客席は埋まっていた。ワダスは楽器をもって最前列に設けられた待機席に座った。隣がジョーだった。
 予定通り公演は8時半に始まった。
 mamoruのパフォーマンスは素晴らしかった。小さな音源の連なりがループ状に増幅され、簡素かつ複雑な音楽が作られていく。小さなストゥールに座ったmamoruは、客席ではなく音源群を広げた板に注がれ淡々と音を紡いでいった。20分ほどのソロの区切りがついたところでワダスが舞台に上がった。
 まずiPodのEドローンを流してもらい、意識的に尺八の音色に近づけた伝統的な音階に基づく即興。それに途中からmamoruの音が加わると、楽音から少しずつ離れた即興へと移行する。リハーサルとは違った感じにはなったが出来はまずまずだったかもしれない。舞台を降りてきたところでジョーが「とてもよかった」といってくれた。客席には、レジデンスの長嶌さんと丸岡さんご夫妻、城戸みゆきさんの顔も見えた。
 休憩の後、第2部である。再びmamoruと隣り合って最前列席に座った。後方のドアが開き、笙、龍笛、篳篥がまず聞こえてきた。そして佐野が笏を打ち「南無阿弥陀仏」と唱え、それに他のお坊さんたちが唱和する。笙の河合に続いて篳篥の橋本、龍笛の池上が会場に入ってきたとたん、声と楽器の音が会場内に響き渡った。聴衆の一部が音源の位置を探して体を巡らす。お坊さんたちが階段の下に雪駄を脱いで舞台に上がり着座した。舞台は客席の床から1mほどの高さだが、七聲会が着座するのはもう一段高い平台である。聴衆は横一列に並んだ僧侶たちを見上げる感じになる。その背後に阿弥陀来迎図の掛け軸が中空に浮んでいた。舞台奥の壁の下から葡萄色の照明が交差する。シンプルだがとても効果的な照明だ。
 散華、甲念仏、回向文が終わった段階でワダスとmamoruが再登場し位置についた。最後の仏説阿弥陀経とのセッションである。まずiPodのドローンを流してもらいワダスのアーラープ。お経の出だしの音をロングトーンで出すと橋本が「ニョーゼーガーモン・・・・」と読経をスタートさせた。mamoruが読経の途中から繊細な音をかぶせてきた。それをしばらく聞いてワダスも加わった。読経のスピードが加速し音量も次第に上がってくる。木魚が最も速いテンポを刻んだとき仏説阿弥陀経はいきなり終わる。まったくの静寂。そして僧侶が客席を見ることなく下手にはけ、ワダスとmamoruもそれに続いた。下手から再び全員登場し、客席にお辞儀をした瞬間、会場から大きな拍手がわき上がりなかなか止まない。
 片付けのために舞台に戻ると残った華を拾う聴衆が群がっていた。華をまくこと、華に書かれた文字、儀式の意味などの質問に応える。自分も聲明を唱えているなどというオジさんもいた。ジョーが近づき「すごい。すごい。すごかった」と手を伸ばしてきた。
 人々が去りスタッフが忙しく後片付けをするなか、ジョーが「これからホイリゲに行くぞお」と宣言。

ホイリゲで打ち上げ

eupict eupict
eupict eupict
 
ポーラ

 われわれはいったんホテルに戻った。戻る途中、橋本が「こっちの車はほとんどマニュアルだよな」という。荷物を持ってぶらぶらと歩くわれわれは帰途に目についた車をチェック。2、3の例外はあったが、たしかに彼のいうようにマニュアル車が多かった。
 ホテルに荷物を置いてわれわれはすぐに6日の晩に行ったKlosterstu¨berlへ向かった。ついた時は閉店時間の11時30分に近く、客の少ない店内はすでに薄暗かった。そこへ七聲会組8名、mamoru、mamoruの仲間の青年3人、ジョー、ポーラの14人がどやどやとなだれ込んだ。ジョーに「時間は大丈夫なのか」と聞くと、手を挙げて「だあいじょうぶ」という。打ち上げは地元料理や地ワインで盛り上がった。まったくここの白ワインは絶品だ。佐野はサラダボールに残ったドレッシングを「こりゃ、黒酢ばい」といいつつ飲み干す。mamoruの仲間の青年3人は来年絶対に日本に行ってライブをしたいという。全員割り勘で勘定すませて店を出たのは1時過ぎだった。
 ホテルに戻ったわれわれは南と佐野の部屋で4時近くまで最終打ち上げだった。

前ページ 次ページ