10月10日 (金)
6時起床。2日目で起床時間が1時間遅くなった。まだ寝ている宍戸を横目で見ながらインスタントコーヒーを飲んだあと、タバコを吸いに外に出た。ドイツ語を話す団体が出発準備をしていた。全員、ものすごく背が高い。
定例となった満英朝食をたっぷりとって食堂に近いトイレで用事を済ます。パキスタン系の従業員が「交代だ。また来てけろ。ケンブリッジに行くのだったらM25は避けた方がいい。混むよ」といって帰っていった。部屋に帰って猛烈な水圧のシャワーを浴びた後しばらく練習。
今日はケンブリッジへ移動だ。寄り道をしなければここから約2時間の道のりだ。チェックアウト時間の11時にホテルを出発した。SHARANには専属運転手と化した橋本、佐野、宍戸、Poloには河合、和田、ワダスが乗り込んだ。今日はワダスがハンドルを握ることにした。ナビーにTravelodge CambridgeのポストコードCB21 6APを入力するとたちまちルート検索を始める。チェックインは3時なので移動時間はたっぷりある。
ブラックネルから高速に出る手前でナビーがやさしくささやく。
「左に曲がるのよ」
彼女は幹線道路とはとても見えない細い道路へ導こうとする。方向指示器を出そうと右手のレバーを押し下げる。するとワイパーがせわしなく動き出した。イギリスの車は右レバーがワイパー、左レバーが方向指示用なのだ。昨日、河合の運転を見ていたので頭では分かっているつもりだったが、とっさのときはどうしても慣れないものだ。また、久しぶりのマニュアル車なので信号待ちのとき何度かエンストまでしてしまった。
ナビーのいうまま左折すると木々の多い緩やかな坂道になった。ところがしばらくしないうちに工事中で行き止まりになっていた。ナビーは最短距離のルートを選んだのだろうが工事の情報まで入っていなかったらしい。ワダスは仕方なく個人の敷地らしい空き地に車を乗り入れてUターンしようとした。1回では回りきれないのでバックに入れようとしたがオーバートップに入れてしまった。
「あっ、中川さん、そこバックとちゃいますよ。あっ、あっ」
普段は口数の少ない和田も後ろから、
「おっ、おう」と声を出す。
Poloはずるずると生け垣に突っ込んだ。日本のマニュアル車だとたいていバックは右下である。しかしPoloのバックギアは左上にあり、しかもいったん押さないとギアが入らない。
「がはははは。あーあ、やってもおた。しーらないっ」
和田が茶化す。
後続SHARANの橋本と佐野が窓ガラスを下げてこちらを見てはやし立てた。
「あかんやないすか、そおーんなとこに突っ込んだら。大丈夫ですか、運転」
Poloは超低速だったので生け垣をなでる程度で止まった。傷はついていない。よかった。
地道から高速に入った。M25というロンドンを周回する大環状道路である。混むといわれていたが日本の渋滞ほどではなかった。このM25はこの後何度も走ることになる。イギリスの道路を走るといつも思うことだが、運転は実に気持ちがいい。無駄な標識、標語看板、路肩のガードレール、トンネルがなく開放的なのだ。澄み切った空はあくまで高く頭上に広がり、薄い雲がこちらの移動に伴ってゆっくり動いていく。途中、ウィンザー城、ウィンブルドン、アスコット競馬場、レゴランドといった標識を見つつ時速60マイルほどで順調に走る。
「レゴランドってむっちゃでかい遊園地ですよ。行きたいなあ」と河合。
2000年以来のイギリスである和田に、
「時間ありますから、どこか行きたいとこあったらいって下さい」というと、
「べーつに」
「ウィンザー城なんてどないです? 僕らは2004年に観光しましたけど」
「みんなが行きたいんだったらいってもええけど、でなきゃ、別にええよ」
途中のサービスエリアで一休み。新しい携帯電話でケンブリッジの主催者に何度か電話してみた。しかし、返ってくるのは留守電メッセージのみだった。
車はM25からM11に入った。まもなく「目的地に到達しました」というナビーの声。2時頃だった。軽いランチがてら食堂に入った。ここでミネラル・ウォーターを購入。これが実に高い。日本だと100円ほどで売られている量のペットボトルでも1.6ポンドくらい。300円以上だ。みんな重い朝食をたっぷり食べているのであまり食欲はなさそうだった。ワダスはシーザーズ・サラダ(6.19ポンド)を頼んだ。かなりの量だった。
Travelodge Cambridge Fourwentways
Travelodge Cambridge Fourwentways |
食後、外に出て佐野、宍戸とタバコを吸っていてふと見回すとちょっと離れたところに見慣れた青と紺の看板が見えた。今晩泊まるTravelodge Cambridge Fourwentwaysだった。平屋の建物なので見えにくかったのだ。ホテルへはガソリンスタンドの横から入るようになっていた。すぐそばにLittle Chefという全国チェーンの食堂があった。
駐車場からは緑がずっと続く平野が見渡せた。手前は柵のある公園のようになっていて、案内板があった。青銅器時代の遺跡跡地とあった。
正式なチェックイン時間には間があったが受付の赤い髪の若い女の子は、
「ちょっと早いけどいいわよ」
といってくれた。早口でかつ聞いたこともない単語が混じる恐ろしく分かりにくい英語だった。
前夜までの組み合わせをシャッフルし新しい部屋割りにした。車の搭乗や宿泊の組み合わせをときどきシャッフルして固定しないためだ。9号室が佐野・宍戸、11号室が橋本・和田、13号室が河合・HIROSという組み合わせ。宍戸が昨晩の反省会のとき橋本からけっこう厳しい叱責を受けていたので、橋本・宍戸という組み合わせは避けた。
荷物を解いてから再び今夜の主催者に連絡を取ろうとしたが、相変わらず今日の公演案内の留守電になっていた。
メールもチェックしたい。レセプションにコンピュータがあったので受付の女の子に聞いてみた。
「メールチェックとかできる?」
歯列矯正中の金具を見せつつ彼女は即座にいった。
「あたし、そういうの、全然分からなあいの」
「だってそこにコンピュータがあるでしょう。インターネットつながっているんじゃないの?」
「つながってないよ、これ」
ということでメールチェックは再び断念。
何度か試してようやく5時過ぎに今夜の主催者であるスネトリ女史とつながった。彼女に6時会場入りを告げた。昨日のブラックネルの担当者もそうだったが、どうもイギリスの公演スタッフは公演時間ぎりぎりにしか準備をしないようだ。
国道沿いのホテルとケンブリッジ市内はちょっと離れていた。ナビーは15分後に着くと表示していたので5時40分にホテルを出発した。昨日と同じようにSHARAN1台に全員乗り込む。
10分ほど走るとケンブリッジの市街に出た。この街は以前通過したことがある。2003年に近郊のHavant Arts Center公演の次の日、ケンブリッジ大学観光のために立ち寄ろうとした。しかし雨だったのでじっくりと街を見る時間はなかった。2004年にはやはり近郊の小さな村Braintreeの納屋を改造したHighbarnで公演をしたので見物の機会はあった。そのときは時間がなかったので市街地を見ていない。
街のたたずまいは、有名な大学町という共通のイメージがあったせいか、どことなくオックスフォードと似ているように感じられた。密着した古い低層の建物、小さな商店街、古い教会、そして広々とした芝の前庭をもつ大学の建物。ただ、ところどころに新しいガラス張りのビルや新築の住宅も見えた。
ナビーには今夜の会場のポストコードを入力していたのだが、それらしき建物ではないところで「目的地に到着した」と宣言。交通の多いところなので路肩にとめて探すわけにはいかない。ナビーには沈黙してもらって仕方なく地図を頼りに一方通行の多い街路を走り回りようやく探し当てた。レンガ色の住宅街の一角にある白い3階建ての小さな建物がそうだった。外観は街のコミュニティーセンターのような趣だった。幅広い紺色のエントランス・ドアの上の白い壁面にCambridge Buddhist Centerと書かれてある。大きな会館のような場所をイメージしていたのでちょっと失望した。
中に入って受付の中年女性に来意を告げた。まもなく奥から担当者のスネトリ女史とルチという白髪の男が現れ「やあやあ。待ってたんだ」といってわれわれを出迎えてくれた。スネトリという聞き慣れない名前からワダスはなんとなくチベット仏教のお坊さんかと思っていたが違っていた。豊かな茶の巻き毛が肩まである50代の白人女性だった。
彼女の案内でまずわれわれは控え室へ。臨時の控え室は子供の遊戯室のような絨緞敷きの部屋だった。いったん荷物を置いて劇場に出るとルチが待っていた。かすかな無精髭にメガネ、真っ赤なシャツにフリースのチョッキ、黒いジーンズ姿のルチは、「これが今日の会場です」とわれわれを奥に導いた。
ルチ |
スネトリ |
公演会場は古色蒼然たる年代物の劇場だった。小さな会館入り口からは想像できない大きなスペースだった。劇場入り口にあった来歴を見ると、この劇場が作られたのは1808年とあった。間口は狭いが奥行きが深い。1階客席からは2メートル近い高さの舞台、その舞台を中2階と3階の客席がを馬蹄形に囲んでいる。3階客席の正面の天井からは畳2枚ほどある大きなチベット様式の仏画が左右に1枚ずつ吊り下げられていた。
ルチが、舞台と同一平面にある中2階客席の端にある簡単なPAミキサーを指差し自信なさそうにいった。
「いちおうマイク1本用意してあるけど、必要ならもう1本増やせる。必要ない? OK。音量のバランスとかは貴殿が確認してほしい。iPodにつなげるかって? どうだろう。多分いけるんじゃないかなあ。拙者は存ぜぬが。いろいろと試してくだされ。何しろこういう機械に触ったのは初めてなんだ。つい2日前にいわれて」
PAミキサーはおそらく講演用のものだろう。音量調整はフェーダーではなくつまみダイヤル式だ。iPodをつなげるのは問題なかった。
ワダスとルチがこんなやりとりをしているとき、七聲会のメンバーは舞台を見回し、立ち位置や順序を確認し、音響や照明がどうなるのかなどということとは関係なく「じゃあ、やってみようか」とリハーサルを始めた。ワダスにPAミキサーを任せたルチは高い天井から掛け軸を吊るすのにいろいろと工夫していたが、いきなり坊さんたちが本番の準備を始めたので当惑気味でワダスを見た。3階にいた照明の助手らしい男も場当たりを待っていた。七聲会のメンバーはそういった現地スタッフの存在を完全に無視し自分たちだけのリハーサルをしようとしていたのだ。こうした傾向は前回のイギリスツアーのときにも見られた。そのときはワダスは注意するよう皆に告げたのだったが、今回の様子から見て彼らはほとんど学習していないことが分かる。公演時間が迫っているという事情はあるにせよ困ったもんだ。
ひと通りリハーサルを終えると、宍戸は3階客席中央にビデオカメラをセットし、ルチに操作を頼んでいた。今回ビデオ・カメラをもってきていたのは宍戸だけだった。彼はすべての公演を録画する目的でもってきていた。カメラ本体、三脚、充電器、テープと重い機材をもち歩いたり充電やテープの整理などは面倒だが、撮影が趣味の宍戸には苦にならないという。録画したものをもち帰ってどうするのかでは宍戸とちょっと議論になった。
タバコ吸いのワダス、宍戸、橋本、佐野が外に出た。そこへ河合、和田も合流。橋本が河合と宍戸に指令を出した。
「お前ら、どっかでワイン買うてこい。本番までまだ40分あるさかいいけるやろ」
河合と宍戸は七聲会の中では最若手なのでよく使い走りをさせられる。
そこへ現れたルチと立ち話をした。小間使いのように準備作業を行っていた彼はなんとこのセンターの所長であった。ケンブリッジの人口の1パーセントは仏教徒だという。
「教育レベルが高く、ベトナムなどからの亡命者も多く住んでいる町だからだ。おそらくイギリスで最も仏教徒の多い町だ。毎週行われるこのセンターの催しにはたいてい300人から400人くらいが集まるんだ」
「日本の仏教は関係していないんですか」
「ないね。この町には留学生など日本人も多く住んでいて、お坊さんもいると聞いたが、彼らは彼らで独立していてわれわれとの関わりはない」
橋本にそのことを話すとこういった。
「そりゃあ、あかんなあ。こういうとこにこそ関わりをもたんと。日本の仏教は国内しか見えてへんのやなあ」
入り口から劇場にかけては広いロビーのような空間だった。壁には全英仏教大会の集合写真やチベット系仏画などが飾られていた。小さな仏像、線香、ろうそく、書籍、数珠などの展示コーナー、キッチンを備えた飲食コーナーもあった。そこをスネトリ女史は受付スタッフの中年女性たちと忙しく動き回っていた。
5分ほどオシで本番が始まった。聴衆は80人くらいだろう。会場が比較的大きいので空席がちょっと目立つ。
まず黄色の衣体に身を包んだ宍戸が後のドアから香を捧げもって客席中央を静かに舞台に向かった。聴衆のおしゃべりがたちまち静まる。彼は舞台中央の端に香を置き、奥の阿弥陀来迎図に向かって一礼してそのまま舞台に上がってくる。ほのかな香の薫りが会場に漂う。
宍戸が上手の袖に到達したのをQとして、待機していたワダスが舞台中央に登場した。今夜は途中休憩がないこと、聲明のこと、聲明とワダスのインド音楽ソロの関連を少し解説。ワダスの目の合図でルチがiPodをプレイ・モードにする。シンセサイザーで作ったドローンが会場を包む。この日は深夜のラーガであるバーゲーシュリーを約25分演奏した。
演奏を終えたワダスは自分が使っていた四角い座布団を手にもって下手に移動する。それを客席後方で確認した佐野がパチンと笏を打ち、よく響く声で「南無阿弥陀仏」と発声を開始した。それに呼応して橋本、河合、宍戸、和田が念仏を詠いながら客席中央通路を舞台へ向かって入堂してくる。
全員が舞台の所定位置につくと、和田の先導で「甲念仏」が始まる。この曲は都節系の音階なのでどこか物悲しい雰囲気である。次いですぐさま「散華」へ。先導独唱僧の河合が艶のある伸びやかな声で「散華」を詠い始め、途中から全員が斉唱し華籠(けこ)にもられた華を撒く。カラフルな蓮華図柄の印刷してある紙製の華が客席に振り落ちる。
「散華」が終わり全員が着座すると、宍戸の先導で「回向文」の次第取りが始まる。次第取りというのは、先導の一節を他の僧が繰り返すなか先導が同時に2節目を詠うやり方のことである。西洋音楽でいうカノンに近い。一節ごとにメロディーが異なっているので違った音が重なりそれが和音となって聞こえてくる。
「回向文」に続いて「大懺悔(おおいさんげ)」。この曲は昨晩初めて聞いたもので、拍節のない自由リズムの部分、きちんとした拍節のある部分が合わさった音域の広い曲である。
下手の端に座ったワダスはずっと彼らの聲明を聞く。客席からはワダス独りが静かに端座して瞑想しているように見えているかもしれない。実際は彼らの声のうねりや何重にも立ち上る倍音の響きに聞き惚れていたのだ。
「大懺悔」が終わったことを確認してワダスはルチの方を見てうなずく。ルチがiPodのプレイスイッチを入れると再びドローンが会場を包み、ワダスは1分ほどのソロを演奏する。ワダスのソロ終了のQは最後の長い音で、それが次の「仏説阿弥陀経」の出だしの音だ。
橋本がワダスの長いロングトーン音を確認して木魚とともに「仏説阿弥陀経」を唱え始める。「仏説阿弥陀経」は聲明のようなメロディーはなく単音で唱えられる。ワダスは彼らの読経をドローンとして即興的な旋律を吹く。読経のスピードに合わせ木魚を打つ間隔が次第に加速される。最後は猛烈なスピードになり、唐突に読経が終わる。空間を満たしていた圧倒的な僧侶の声が途絶え、バーンスリーとドローンの音が残される。バーンスリーの音は速やかにドローンの核音に収束する。バーンスリー演奏終了のQは、ワダスがバーンスリーを膝に乗せる動作だ。それを見たルチがiPodのスイッチを止める。こうして全体が終わった。
われわれは一斉に起ち上がり、客席へのお辞儀はせずに静かに上手に退場した。大きな拍手が沸いた。その拍手の中をわれわれは再び舞台に登場し客席にお辞儀をした。
昨晩に引き続き、橋本とワダスが舞台中央に残り、Q&Aコーナー。床に散らばった散華の華を拾ってもち帰るとご利益があるが、2枚拾ったからといってご利益が倍になるわけではない、というと皆が一斉に動いて拾い始める。昨晩と同じように、聲明の訓練はどうするのか、掛け軸に描かれているのは誰か、などなどの質問だった。「誰に向かって祈るのか」という質問に、橋本は無言で阿弥陀来迎図に手を向けてにやりとした。笑いを取ろうとしていたのだ。ワダスが後で彼にいった。
「お坊さんが笑いを取ろうとしたらダメですよ。できるだけ不機嫌そうにして答えて下さい」
「だあって、日本だったらいつも笑いをとってるんよ。だめかなあ」
橋本はこう応えた。こうした対応に喜ぶ聴衆もいるだろう。しかし、ほとんどの聴衆は聲明という仏教音楽から感じる超越性、神秘性、宗教性を求めてわれわれのコンサートに来ているはずだと思う。宗教者である僧侶という存在も同じように考えるはずである。公演は終わったとはいえ、僧侶は宗教者であることに変わりはない。サービス精神は分かるが、変なおふざけで聴衆を幻滅させてしまうのは残念に思う。もっとも、これはワダスの一方的な思い込みかも知れない。聴衆は厳粛な姿で聲明を唱えた僧侶に対して世俗的な人間性の期待もあるとすれば、おふざけもそれに応えるあり方としてありなのかも知れない。ただ思うのは、質問に答えようとする橋本に、真剣に仏教や宗教に興味をもっているかも知れない質問者を仏教が説く救われるべき「衆生」として認識していたのかあるいは認識しようとしていたのかどうか、である。そのような認識からの応答ではないように思えたということが、残念だと思ってしまう原因だと思う。
われわれの演奏を聞き終わった聴衆は飲食スペースで用意されたお茶やケーキで会話に余念がない。そこへ河合とワダスがCDをもって参入すると多くの人に取り囲まれてしまった。もって行ったCDはあっという間に売り切れた。
背の高い老紳士が近づいてきて言った。
「あなたたちの公演を2000年にロンドンで聞いたよ。素晴らしかった。今夜ここで再び聞けてとてもうれしい」
彼はシティー・オブ・ロンドン・フェスティバル主催のセント・バーソロミュー・ザ・グレートでの公演に来てくれた人だった。
小柄な日本人女性と坊主頭のイギリス人男性のカップルもいた。彼らがどんな人たちだったのか、どんな話をしたのかほとんど覚えていない。ハンガリーからだというケンブリッジ大女子学生が仏教について質問してきた。いろいろ答えたが、彼女自身がまだ英語を十分に理解できないのでもどかしい。
われわれはアール・グレーの紅茶とケーキをいただきしばらく歓談した後、ホテルに戻った。ワインとポテトチップスのつまみで打ち上げ。聲明は昨晩よりはずっと良くなったので誰もが上機嫌だった。
浄土宗のこと、聲明のこと、仏教一般のことなどを河合とおしゃべりした後、1時ころ就寝。