10月19日(日)

 KE908便は韓国時間16時に無事インチョン空港に到着した。節々が強張っていて脳は半分しか機能しない状態なので体が重い。機内から細長い通路を通り空港内に入ったところで大韓航空の制服を着た若い女性職員が「Mr. Hiroshi Nakagawa」という手書きのボードを頭の上に掲げていた。ついにきたか、という思いつつ彼女に訊ねた。

 

母の訃報

 

「わたしが中川ですが」

「すぐにご家族の方に連絡するようにとのことです」

 すぐ後にいた河合の携帯を借りて久代さんがもっている携帯にかけてみた。ものすごい雑音で彼女の声は切れ切れにしか聞こえなかった。

「今朝、8時・・・お母さんが・・・で・・・ゆに・・・」

 電話はこんな感じで切れてしまった。母に何かあったことは間違いない。その何かが彼女の死であることは予想はできた。しかしはっきりそうだと聞き取るにはあまりに雑音が多すぎた。

 トランジットの手続きのあと広々とした免税店街で河合に再び電話を借りた。今度ははっきり聞こえた。母はこの日の朝、8時48分に亡くなったという。今朝方、入院していた佐藤病院の宿直医から危篤状態だという電話が彼女の携帯に入った。そしてまもなく2度目の電話で、亡くなったことを知らされた。彼女は中山町の叔父と一緒に遺体を引き取りに病院へ向かっている途中だった。ツアー中にもひょっとしたらという思いはあった。その場合の対応も久代さんや小豆島に住む弟にも頼んであった。しかし、彼女の訃報がこんな感じでやってくるとは予想していなかった。久代さんには、帰宅したらできるだけ早い便で山形に飛んで合流することを伝えた。母の死に哀しみや喪失感はあまり感じなかった。とはいえ、前日まではイギリスを旅していたという意識は一気に遠ざかった。そして、まだ元気だった頃の母の顔を思い出そうとしたり、葬儀などこまごまとした手続きのことが頭を巡った。

 まだインチョン空港に着いたばかりなので、母の訃報に接したからといって特にやるべきことはない。関空行きのフライトは19時05分なのでまだ2時間ほどあった。機内で「インチョンでは焼き肉を食べるのだ」と宣言していた橋本が皆を誘ったので、何げなく食堂街方面にぞろぞろと移動した。何軒か覗いてみたがそそられるような食堂はなかった。ある店で食事をするという橋本、和田、河合、佐野と分かれた宍戸とワダスはなんとなく散歩していて、ふとマッサージの看板が目についた。40分で1人8000円と書いてあった。

「中川さん、マッサージ受けません?」

 宍戸がこういった。

「こういう頭が朦朧としている時のマッサージは最高だけど、高いなあ」

「おごりましょう。8000円。大丈夫ですよ」

「本当にいいの? なんだか悪いなあ」

「いいんです。入りましょう」

 われわれは薄いパジャマに着替えた後、隣り合ったベッドに寝かされてマッサージを受けた。マッサージをするのは比較的若い女性だった。2人はわれわれをマッサージしながらおしゃべりに余念がない。もちろん何をしゃべっているのかはまったく分からない。マッサージはとてもよかった。贅沢な気分になった。免税店で特に買うものもないので時間つぶしとしても最高だった。

 出発ゲートに行くと皆が漫然とたむろしていた。出発ゲートをはさんだ中央には軽食などを売る店に挟まれて小さなステージがあった。そこで2人のチマ・チョゴリを着た若い女性が伽耶琴、ヘーグム、玄琴で散調を演奏した。出発ゲートにいる客にとってはありがたいサービスだ。もっとも興味をもって聴いていたのはワダス以外に2人ほどだった。

 関空行きのKE721は予定通り19時05分に出発した。機内は関西弁の日本人団体客でほぼ占められていた。関空に着いたのが20時55分。空港のホテルに泊まって翌日に福岡に向かう佐野、京都方面に向かう橋本、宍戸、河合、和田と別れ、神戸空港行きの高速船で無人の自宅に着いたのは11時近かった。すぐにコンピュータを立ち上げ、インターネットで翌日の7時25分伊丹発山形への早朝便を予約した。さいわい席が取れたのでひと安心だ。しかしすぐに寝る心身状態ではない。とりあえず荷物を全部広げて整理をしているうちに午前1時すぎになっていた。ベッドに入ってうとうとしているとアラームがなった。3時だった。

 その後は、山形行、通夜(21日)、火葬(22日)、葬式(23日)、母の死後の事務手続き、神戸に戻ってすぐ上京してリハーサル(25日)、そのまま金子飛鳥宅に泊まって翌日の吉祥寺でのライブ(26日)、などなど、時差ぼけもイギリス気分も完全に吹っ飛んだ日々になった。

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