10月17日(金)

 7時起床。外は快晴で雲一つない。地下の食堂ではデイヴィスと奥さんらしい女性がきびきびと動いていた。お昼にインド料理を食べるという計画があったので、コーヒーだけ飲んだ。隣のテーブルでひげを生やした中年男性とインド人らしい若い女性が朝食をとっていた。男性はラティフというトルコ人サズ奏者、若い女性はパールヴァティという名のバウル歌手だった。50歳くらいの落ち着いた雰囲気のラティフはアメリカに本拠を置いて音楽活動をしているという。パールヴァティとは夫婦なのかと聞いたら「彼女とは別々の部屋だよ」と笑いながら否定した。ちりちり髪を腰まで延ばしたパールヴァティは快活な表情でワダスのジョークにもすぐに反応しなかなかに好ましい。2人とも今回のBrighton Festival of World Sacred Musicに参加するミュージシャンだった。明日の夜にわれわれと同じ会場で演奏するとのこと。パールヴァティは「あなた方の演奏を聞きに行くからね。楽しみにしてるよ」といった。

 部屋で日記を書いたり練習。無線LANが通じていたのでメール・チェックしようと思ったが電波が弱い。iBookをもってレセプションにいくと、宿泊客の何人かがソファに座ってラップトップをにらんでいた。この部屋だと電波がもっとも強いからだという。ワダスもiBookを開いてメールチェックしてみた。すぐに大量のメールを受信できた。ただ、やはり発信はできなかった。

 

ランチはインド料理

 

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 11時半、みんなでブライトンの街へ出かける。今日のランチはインド料理にすると決めていた。デイヴィスに場所を聞いていたのでとりあえず最初に紹介された近くの店に行った。ところがその店は閉店になっていた。コンビニに入って中国系の女性においしいインド料理屋はないかと聞くと、近くに1軒、中心部にいい店があるという。

「近くの店はおいしいの」

「ううん。私は二度と行かない」

 ブライトン中心市街は、ホテル周辺のリゾート・マンション風のエリアと違い、堂々としたビクトリア様式の石造ビルが立ち並んでいた。2階建てバスが何台も走っていた。われわれは、昨日見たモスク風の大きな建物や公園を右手に見つつ市の中心部をぶらぶらと歩いた。ほどなく白いビルの1階に「Bombay Lounge ~Eat As Much As You Like」という大きな黒い看板を見つけた。ランチタイムは6.95ポンドで食べ放題とある。スキンヘッドの東洋人団体は迷わずに店内へなだれこんだ。かなり広い客席だった。11時30分だというのに客がいない。ランチタイムは12時からになっていた。早すぎたのだ。黒い上下の制服を着けた不機嫌そうなインド人の若い店員に無理矢理頼み込んでテーブルに座った。

 久しぶりのインド料理だった。タンドーリー・チキン、チキン・カレー、マトン・カレー、アルー・ゴビー(ジャガイモとカリフラワーの煮付け)、プラウ、ダールなどは
どれも素晴らしい味だ。野菜がたっぷりとれるのがうれしい。大きな皿にどんどん盛りつける。1人平均3回はおかわりした。ここでも宍戸の食べっぷりがすごい。彼は食べ放題に強いと自ら申し述べる。

 まったく笑顔を見せない店員の1人にヒンディーで声をかけた。すると不機嫌そうだった彼は急に笑顔になり「2人ともイギリス生まれだけど、両親が使うのでヒンディーが分かるんだ」といった。もう1人はまったくヒンディーは分からない。

 ランチ後、街を散策。昨日から気になっていたモスク風の建物に行ってみることにした。インド風ともいえるし一部は中国的でモスクの尖塔のようなものも付属している。アジア的イメージのごった煮だ。市役所かも知れないと思っていたが、イギリス王室のジョージ王子が1815年にジョン・ナッシュという建築家に依頼して建てた宮殿兼遊び場だという。ロイヤル・パビリオンと名づけられたこの不思議なデザインの建物は、ロンリープラネットによれば「イングランドで最もわがまま勝手で退廃的な建物であり、ブライトンは享楽主義的な場所だという評判にふさわしい象徴的存在」だという。中味は外観以上に豪華なごった煮状態ということだが、入場料も安くないので入るのは止めた。

 その代わりに隣にあった入場料無料のブライトン博物館&美術館に入った。ロイヤル・パビリオンの厩舎棟を改装した建物だという。明るい館内にはダリの大きな唇を模した深紅のソファとか巨大な野球のグローブを模したソファなど、現代美術作品があった。奥に進むと、ブライトンの街の歴史を示す写真や新聞記事、ビデオブースなどの展示室がある。まったく知らなかったが、この街はヨーロッパのゲイ・レズビアンの首都であるらしい。1964年に起きたモッズとロッカーの大衝突のニュース映像などもあった。河合は古い映像を見ながら「あっ、これって『さらば青春の光』という映画になったやつっすよ」と申し述べる。帰国してからさっそく彼に送ってもらったDVDを見た。ミュージアム・ショップでCAP用土産として消しゴムを購入。

 

ブライトン・ピア

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 ぽかぽか陽気に誘われるまま海岸へ出た。ブライトンの象徴ともいうべきブライトン・ピアへ足を伸ばす。海に突き出た細長い桟橋は全体がアミューズメント・パークになっている。海岸から眺めるとモダンな印象を受けるが、お化け屋敷、ピンボールマシン、ミニカートなどの遊具や観光客目当ての売店が並んだ俗っぽい遊園地だった。ビートルズの曲で有名な螺旋状の滑り台、ヘルタースケルターもあった。混み合うほどではないがそれなりに客がいた。どの客も田舎者に見える。Japanese Taste Yakisobaなどという店もあった。間口も奥行きも狭い店内では日本人らしい中年男性がにこりともせずに客に焼きそばを売っていた。どういう経緯でここで焼きそば屋を開業するようになったのだろうか。面白半分に名物の棒状のキャンディー(ブライトン・ロックという)を買ってみんなでなめた。ただ甘く固く長いだけのキャンディーはおしくもなんともなく、なかなか短くならない。もっているうちに手がべたべたしてきたので途中で捨てた。ピアから小石だらけの海岸では人々が海水浴をしているのが見えた。この季節では水が冷たいはずなのに泳いでいる人もいた。

 3時からのワークショップのためいったんホテルに戻る。ワークショップに全員行く必要はないので、橋本、和田、ワダスの3人だけにした。橋本は河合と宍戸に打ち上げ用ワインの購入を命じる。

 

ワークショップ

 

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 ホテルから会場のSt. George's Churchまでは歩いて5分ほどだった。白い縁取りのある淡色レンガ造のSt. George's Churchは住宅街の一角にあった。2階建ての正面中央は先端に十字架のついた時計塔になっていた。前庭に葉の落ちた大木が数本並んで立っていた。前庭と玄関の間にわれわれのコンサート・ポスターと手書きのワークショップ案内の立て看板があった。玄関を入ると、正面の主祭壇に向かってずらっと並ぶイス、天井から吊り下げられたキリスト磔刑像がまず目に飛び込んできた。われわれを見つけたケイトが「いらっしゃい」と出迎えてくれた。すっきりした体型の女性で30代後半か40代前半くらいか。すごい美人というわけではないがとても魅力的だ。キリスト像の下に仮設舞台を作っている人々をはじめ、会場作りで立ち回るスタッフたちにきびきびと指示を与える。

 まずケイトに案内されたのは地下室だった。フェスティバルの事務所の他に会議室やリハーサル室が地下室にあったのだ。昨晩のロンドンでもそうだったが、教会の地下空間はコミュニティー活動の拠点として使われることが多いのかもしれない。日本のお寺もそうなっていたらなあと思う。深刻そうな表情の人々が数人座っている部屋を通り抜けた広い部屋がわれわれの控え室だった。角にイスが積み上げられていたので普段は集会室として使われているのかも知れない。

 本堂では仮設足場で特設舞台が作られていた。照明やPAのセッティングをしていたのはエイドリアンという中年の陽気な男だった。エイドリアンにつかず離れずなんとなくぶらぶらするティーンエイジャーの女の子もいた。1人は鼻ピアスをしている。エイドリアンの双子の娘だった。われわれを見たエイドリアンが「コンニチハ」と日本語で声をかけてきた。聞けば彼はインド舞踊家シャクティの舞台担当としてエジンバラでも仕事をしたことがあるという。

 控え室で着替えを済ませ上に行こうとした時、ふと橋本に聞いた。

「散華の華はもってきてますよね」

「あーっ、忘れてもた。しまったあー。あった方がいいっすよね、当然。すぐもってこさせますわ」

 橋本はこういって自身の携帯から河合の携帯に電話した。

 ワークショップは3時からだった。聲明のワークショップにいったい人が来るのかと思っていたが、意外なことに20名ほどが半円形に並べられたイスに座ってわれわれを待っていた。参加者は年配の女性が圧倒的に多い。数少ない男性もほとんどが年配者だったが、どうみても労働者のような雰囲気の中年男もいた。七聲会のユニフォームを着けた橋本と和田、右端に作務衣姿のワダスが中央に座った。

 参加者の意志の強さも理解度も分からないのにどうやってワークショップを進めるべきか。しかも2時間もあってかつすべて英語でやらなければならない。いちおう代表的な聲明「散華」の旋律を五線譜のような形にした廻線譜の英語バージョンは用意してきた。廻線譜の下には本来の博士(はかせ)の譜面を載せた。博士とは漢字の左横に音名と旋律型、メロディーラインがくねくねと表現されたものだ。博士の解読は普通の日本人にも難しいが、オリジナルの形の参考として参加者に見てもらいたかった。

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 どういうときに聲明は唱えられるのか、仏教儀式とはどういうものかから始めた。そして、配ったプリントの廻線譜の解読方法、聲明一般を概説した。ワダスの解説に頷く人もいたが、みんな理解できていたのだろうか。説明をしているときにふと気がついた。写真を撮るのを忘れていたのだ。そこで、参加者の1人に頼むことにした。私がやるわよ、と手を挙げてくれたのは最前列で熱心に聞いていた白髪長身のお婆さんだった。彼女はワダスから手渡されたデシカメをもって立ち上がり、これを押すだけねといいつつ半円形の輪の外に出て撮影を始めた。途中で華をもってきた河合に撮影を頼んだので彼女はほっとした顔でこういいつつイスに座った。

「よかった。本当はあんまりしたくなかったの。皆と声を出したかったのよ」

 廻線譜に沿って一節ごとに歌ってもらう。お坊さんの模範演奏を聞きそれをなぞってもらう。前列に座っていた年配の男性はしっかりとした音程で歌っていたが、大半はおそるおそる声を出したり、様子をうかがう人もいるので音量が出ない。大声でいきましょうと何度も元気づける。そのうちだんだんと皆の気持ちがほぐれてきて音量も大きくなった。みんな真剣な表情だ。出だしの音の高さを笛で示して参加者だけで歌ってもらおうとしたら急に自信を失い小声になってしまった。どうもお坊さんと同時に声を出さないとだめなようだ。後で見守っていたケイトが、お坊さんたちも歌ってもらった方がいいわね、とアドバイス。前半の1時間はあっという間に過ぎた。2時間は長いかなと思ったが杞憂のようだ。

 休憩しましょうというとみんなほっとした顔になった。最初に撮影を依頼したおばあさんがワダスに近づいてきてこういった。

「あなた方の演奏は前に聴いたのよ。ルイスで。2004年にやったでしょう? ほら、華もちゃんともっています。いつもバッグに入れているの。それと、これを見て? 覚えている? そのときの記念写真よ」

 彼女はバッグから中味を取り出してこういいつつ、名刺を差し出した。毅然とした表情で笑顔が苦手そうな人だ。

「Mrs Ann Wright
B.A., B.A. Hons (History of Design), M.A.
Chaiman: Brighton & Hove Anglo Japanese Network」

 ブライトン&ホーヴ英日ネットワーク代表、といった感じか。そういえばかすかに記憶がある。ルイスの写真学校を卒業したあとしばらく彼女の家に居候しているという日本人男子学生と話したときにかたわらにいたおばあさんだった。ワダスはなんだかうれしくなってしまった。いってみれば、七聲会追っかけ、ではないか。
 30代前半くらいの小柄な女性が話しかけてきた。明るい柄の薄手の綿の上下を着ていた。ちょっと縮れた赤い髪を真ん中分けて後に束ねている。

「あなたはバーンスリーを演奏されるんですよね。私も2年前にバーンスリーを始めたんです。このワークショップであなたに会えると思って楽器ももってきました。ちょっと見てもらえませんか? 誰に習ったかって? バナーラスに行ったときに楽器屋さんでちょっと習ったの。あなたのグルはチャウラースィアー師ですよね? お会いしたことはありませんが。難しいかって? 本当に難しいですよね。なかなかまともに音が出ません」

 こういいつつ彼女はケースからバーンスリーを取り出して見せてくれた。ワダスと同じサイズの立派なものだった。音程もしっかりしている。「いい笛ですね。これだとちゃんと舞台でも使えますよ」というとうれしそうにはにかんだ。

 イギリスでこういう出会いがあるというのはなかなか喜ばしいものだ。

 後半は、橋本、和田が華を撒きつつ全曲模範演奏で始め、全員で通しの練習を3回ほど行った。

 16時50分に質問コーナー。みんなとても熱心に聞いてくる。仏教寺院での僧侶の役割、修行方法、どうしたら僧侶になれるのか、聲明の練習はいつするのか、師匠からの口伝はどんなふうにされるのか、などなど。インド系の地味な女性は、あなたがたの仏教に入門したり、聲明の練習をするにはどうしたらよいのか、と聞いてきた。

 お坊さんたちによるこうしたワークショップや舞台公演は音楽活動の一種といえるが、彼女のような仏教そのものや聲明に対する強い関心の示し方を考えると、布教活動としても有効ではないかと思う。イギリスを初め欧米ではダライ・ラマの発言のせいかチベット仏教に対する関心が高い。しかし、彼らに比べてどうも日本仏教の影が薄い。日本の既成仏教宗派が布教というものを重視するのであれば、七聲会のような舞台公演活動はもっと評価されていいような気がする。

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ケイト
エイドリアン

 終わってみんなに挨拶をすると全員から熱のこもった拍手をもらった。ワークショップはまあまあ成功だったようだ。主催担当者のケイトも満足そうに微笑んでいた。

 

ブライトン公演

 

 6時のリハーサルまで1時間ほどあった。ワダスはいったんホテルに戻り他のメンバーと一緒に来ることにした。橋本と和田はそれまで時間をつぶすからといって教会近くのパブに入った。

「僕らが座ってコーヒーを飲んでたら、小さなソファに腰を密着して座ったスキンヘッドの男2人がじっと見るんよ。やっばーと思って目あわさなんだ。同類や思われたんかなあ」

 作務衣姿のスキンヘッド橋本が後でこういった。

「僕も、ずっと下向いとった」

 形の良いきれいなスキンヘッドの和田もぽつりと同意する。

 ホテルのレセプションにはすでに河合、佐野、宍戸が待機していたので再び会場へ。ケイトが地下の控え室へ案内した。控え室へ通じる会議準備室のような部屋には数人の人々がだまって座り、スキンヘッド東洋人集団をいぶかしげに見ていた。

 1階の公演会場では多くのスタッフが動き回り準備に忙しそうだった。PA機材を調整していたエイドリアンが陽気にわれわれを迎える。

 仮設足場を組んだような舞台が作られていたが、エイドリアンはその上にさらに平台を作ろうとしていた。舞台そのものも1メートル以上の高さにしてあったので平台をさらに積めば客席からは見上げるような感じになってしまう。ケイトによれば満遍なく出演者が見えるようにそうするといっていた。しかし、どう見ても高すぎる。平台は袖に組み立てて置かれていたが、ワダスはエイドリアンに「不要」と申し述べた。彼は意外にあっさりと「OK。じゃあ、片付けろ」とスタッフに命じた。それを双子の娘たちが舞台端に座って眺めていた。

 阿弥陀来迎図の掛け軸をエイドリアンに渡した。舞台の真上はドーム式の高い天井になっていて吊り下げ用のバトンはない。「ダイジョーブ」といいつつ彼は2階へ上がり、周囲を取り巻く2階席の両端からロープを張った。そのロープに引っ掛けて掛け軸を吊り下げるようだ。ピンと張ったロープの真上に磔刑のキリストの足がくる。
 エイドリアンは手慣れた感じで準備を進めた。マイク位置、iPod操作なども問題ない。音楽祭スタッフの若い男スティーヴンがエイドリアンを手伝ったり照明器具の設置などに忙しく働く。やはりスタッフらしいマーティン青年が舞台に座っているワダスのところまできて記録のためのビデオを撮影する旨を伝える。ケイトは彼ら全体の準備状況を確認しながら指示を出す。入り口付近のコーナーでは物販担当のアルバイトらしき年配の男女がおしゃべりしながら準備していた。彼らはお揃いの黒い音楽祭Tシャツを着ていた。外でタバコを吸い終わったワダスはその1人の女性に、

「それ、いいですねえ」と3回いった。

「いいでしょう。あなたも欲しい? そう。でもどうかしらね」

 と隣の若い男を見た。

「んー、どうかなあ。これはスタッフ用だからね。ケイトに聞いてみるよ」

 ケイトがやってきて、

「ごめんねー。スタッフ用だけしかなくて無理なのよ」

 開演は7時半。メイン出入り口に待機していた宍戸が香炉をもって舞台に向かって歩き始めるとほとんど満員の客席が静まり返った。聴衆の数は150人くらいか。宍戸の舞台到達を確認して舞台袖のチェンバロの横で待機していたワダスが登場。この日のバーンスリーソロではRaga Kirvaniを演奏した。聴衆の中にホテルで会ったトルコ人音楽家ラティフの姿が見えたのでこのラーガにした。

 休憩になりタバコを吸いに外に出た。痩せた男が話しかけてきた。

「君のいってた倍音だけど、チベット僧の読経とかモンゴルのホーミーなんかにもあるよね」

「倍音に興味があるんですか」

「いやちょっとね。民族音楽に興味があってね。いろいろ聞くんだ」

 そこへ、ワークショップに参加していたアンが近づいてきた。相変わらず笑顔ではない。

「良かったよ。ところで、ルイスでのあなたがたのコンサートの後に京都へ行くことにしていたの。今年の9月に。お坊さんたちに会いたいなと思って。でもそのとき夫が病気になっちゃって止めたのよ」

「そうでしたか。で、今ご主人はお元気? 一緒に来ている。それはよかったですね。じゃあ、来年ぜひ日本にいらして下さい。京都やお坊さんたちのお寺も紹介しますよ。我が家に泊まっていただいてもいいです。え? 神戸です。京都からはそんなに遠くありません」

「そうねえ、ぜひそうしたいわ。また後でね」

 ぼちぼち第2部が始まりそうだったので地下で待機していたお坊さんたちを迎えに行った。ケイトがそろそろよと呼びにきた。

 七聲会の聲明は素晴らしかった。すでに7回の公演で曲の流れを熟知し声もよく出た。公演会場自体がよく響くということもあっただろう。また、昨日のロンドン公演の気持ちよさが皆に残っていたのかもしれない。

 例によってQ&A。橋本が担当した。橋本は終止苦虫をかみつぶしたような表情で応答し、横で見ていて思わず笑いそうになった。橋本の前回のQ&Aのとき、笑いを取ろうとせずできるだけ面白くない表情でやってくれ、といったのを忠実に守ろうとしていたのが分かったからだ。よく響く会場であったことと舞台と客席に距離があったことで質問を聴き取るのに苦労した。ある女性の質問がまったく聴き取れなかった。何度も聞き返していたら、近くにいたパールヴァティがなんとヒンディー語に訳して大声でいってくれた。あなたがたのように聲明を唱えることができるようになるにはどれくらいの年数が必要なのか、というのが質問だった。

「今、私はヒンディー語で質問を受けましたが、ヒンディー語でお答えしましょうか」といったら客席に爆笑が起きた。

 不機嫌そうな表情を取り繕った橋本がそれに答えた。

「ええ、散華3年、伽陀8年と一般にいわれています」

 質問者に伽陀といきなりいわれても理解は難しいし、ワダスの頭には伽陀を英語で説明する用意がなかったのでしどろもどろになってしまった。散華3年だけにごまかして伝えた。

 Q&Aが終わって舞台をおりると、あなたのバーンスリーはすごく良かったといってパールヴァティが抱きついてきた。うれしいなあ。かたわらのラティーフは「I enjoyed very much」と感想を申し述べた。

 ケイトが拍手しながら近づいてきた。

「ありがとう。素晴らしかった。ところで、今、出演料払いますね。半分はマークに支払いますが、後の半分は現金です。ただし、宿泊費の1泊分240ポンドは差し引きました。それと、サンドイッチをあそこのテーブルに用意していますのでおもち帰り下さい」
 彼女は現金の入った封筒を手渡しつつ、受付に近いテーブルを指した。サンドイッチの入ったビニール袋をもらってスタッフにありがとうというと、若い男性スタッフが「これ、僕が着てたんだけど、あげるよ」とTシャツを差し出した。Tシャツ欲しいなあと、なくてもともとでと聞いたのだがもらえたのでうれしい。いってみるものだ。
 着替えを済ませたわれわれは街灯の少ない夜道を徒歩でホテルに戻った。途中、アンの乗った車がワダスに追いついた。助手席のアンが「ちかぢか絶対に日本に行くからね」と声をかけてきた。彼女は動き出した車の窓から手を振りながら去って行った。運転していたのは彼女と同じくらいの男性だったので、病気から回復した夫なのだろう。

 橋本、和田の17号室で打ち上げだった。彼らの部屋は広くない。ベッドと壁の隙間に敷物を敷いてそこに直に座ってワインを飲んだ。橋本と宍戸の議論に熱が入る。和田や佐野が橋本の指摘に同意する。それに宍戸が反論。内容は僧侶としての心構えのようなことだったと思う。ただ、議論が進むにつれて互いに理解し合う雰囲気になった。

 タバコを吸いに外に出た。しばらくして佐野が合流。寒い戸外で佐野は「中川さんのおかげでずいぶん人の話を聞くようになったんですよ」などと申し述べる。

 1時30分ころ就寝。

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