2018年8月21日(火) メキシコ3週間よれよれ日記  前の日 次の日


 曇り。6時頃起床。まだ外は暗い。熱が下がってきたようで、昨日ほどだるくはない。

ドクターがやってきた

下田、ファティマ、カレン医師、ワダス

 9時半、若い長身の女医カレンとファティマという看護師がやって来て診てもらう。指で叩き、聴診器で腹部を診る。抗生物質を処方された。髪を後ろにひっつめた小柄なファティマが診察を見守る。彼女は医療道具一式の入った赤いリュックを持ってきていた。
 英語を話すカレンはワダスよりも背が高く長髪を左肩から垂らしメガネをかけている。真っ赤な口紅が印象的だ。
 医療費は緊急なので無料とのこと。また薬代も今回のコミッティーから出るようにしたいとマリナ。処方された薬は、Bactiver(抗生物質、12時間毎、7日間)、Hioscina(整腸剤、8時間毎、3日間)、イチゴ味とポカリスエット味の2本の水分補給飲料Electrolit。
 診察が終わったらなんと2人に記念写真をせがまれた。
 皆がブランチに出かけた後、食堂でコンソメスープをもらう。お米や野菜の入ったとても優しい旨味のあるスープだった。
 ちょこっと練習。『メキシコの歴史』再読了。
 上に行くと、女子3人組と角、象くんが法被の背に「祭」と墨汁で描く作業中だった。仕上がりは明日になる。

マリナへのインタビュー

 その間、下田はマリナに今回のプロジェクトについてインタビューをしていた。当初、市役所の観光関係部署にいたプリシリアーノと別の部署にいたマリナが市側にプロジェクトを提案。6月30日に市がこのプロジェクトを市民に発表した。ところが、市側が、現市長の任期の切れる8月にやるのはまずい、キャンセルせよと提案。続行したいマリナたちは、市の意向には従いたくないのでプエブロ・マヒコ委員会を中心に実行委員会のようなものを立ち上げ、市内の様々な人々に資金協力などを求め、最終的に決行が決まったのは7月に入ってからだったという。道理で、6月あたりはマリナとの連絡も途絶えたわけだ。今回の目的は、プエブロ・マヒコに選定されたこの街のアイデンティティーをどこに持っていき、どう観光促進などにつなげるか、そしてどう町の人たちをつなげるかだった。日本人が来て毎日WSなどを公開して行うことができたのでその点は我々もすごく高く評価している。残念なのは、キャンセルを要請したはずの市側が割り込み、スムーズに進んでいたのが逆に混乱したりしたことだ。日本人がこの町の文化に興味をもち、積極的に学ぼうという姿勢があることに感動した。それで、日本人が来ることの期待感が高まった。その結果、町をあげて歓待するムードが高まった・・・というような話をしていた。
 以下は下田がインタビューした内容。
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Marina Zarco Hernandez インタビュー 8/21 Mansion del Molino, Tacambaro

私はマリナ・サルコ・エルナンデス、タカンバロのプエブロ・マヒコの委員です。

Q: 「Japón en Tacámbaro」に関わるようになった経緯は?

2014年、彫刻家でいとこのプリシリアーノが神戸のC.A.P.に行き「メキシコと日本、移民と文化変容」というプログラムに参加しました。これが最初です。2016年、プリシリアーノは市の観光部門のディレクターになって、私を文化担当官として招きました。観光と文化の年間計画を立て始め、その中のメイン企画の一つがC.A.P.に連絡を取って文化交流を進めることでした。もうタカンバロから神戸には行ったので、次は神戸からタカンバロに来てもらおうということで、この年に最初の招待状を送りました。

Q: タカンバロ市、プエブロ・マヒコ、そして商工会がこのプロジェクトを支えていますが、どのようにして体制を作っていったのですか?

2年前に計画した時は、市の計画として立案していました。招待状も市から、プログラムや準備も市として行なっていました。準備が進んで、C.A.P.との確認も取れ、実施プランができてきたので市に伝えました。しかしタイミング悪く、2ヶ月を残して2018年の8月末で体制がすべて変わることになりました。メキシコ全土で体制が変わることになったのです。それで、このプロジェクトは不可能になると言われ、C.A.P.に連絡してキャンセルするよう言われたのです。
しかし私たちにとってそれはあり得ませんでした。
私はこれに先立って1月に市の職を辞していましたが、引き続きこのプロジェクトの準備を外部から進めていました。
市からの100%のサポートか、あるいは他の方法を考えるか、、、この時からプエブロ・マヒコが関わることになりました。
プエブロ・マヒコの委員会で話すと、全員が賛成して、なんとか実現しようということになりました。
これが6月30日のことです。
あなたたちの到着5~6週間前のことです。

それからプエブロ・マヒコの委員会が商工会を招待しました。
私たちは商工会にこれまでの経緯を説明し、タカンバロ市として実行しようとして来た、あと数週間で始まる予定のこのプロジェクトの内容について話しました。
商工会のメンバーは、この文化交流のプロジェクトをとても喜んでくれましたが、市から出るはずの予算は拒否され、ほんの一部しかカバーされなくなったと伝えました。
そうしたら、プエブロ・マヒコの委員会メンバーや商工会のメンバーは、心配しないで、大丈夫というのです。
あるレストランは、夕食は10回分招待しようとか、うちは朝食を招待する、それなら私のうちに来て、という具合になって、それで食事の予定表まで作ることになりました。
タカンバロの人たちは、本当にこのプロジェクトが実現するのを目にしたかったんです。
食事だけでなく、なにか必要なものがあると同じようなことが起きて、誰もがなにか手伝うと言い、コミュニティーが一致団結して、このプロジェクトが実現するようになったのです。

Q: プエブロ・マヒコについて説明してください。

メキシコの連邦政府の政策で、建築や自然景観、伝統など町ごとにユニークな特徴をもったところを指定して観光促進のためのレーベルを付与しています。メキシコらしい町というトレードマーク、それがプエブロ・マヒコです。全国で111の町が指定され、インフラ整備などの面で国からの補助が出ています。
タカンバロでの委員会は、アーティスト、教師、ローカルビジネスの事業者、学生などいろいろな立場の人たちで構成され、別々のネットワークを持ったいろいろな人の集まりになっています。
全員無給でボランタリーな集まりです。ここのコミュニティーのいろいろな面を組み合わせたパズルみたいな委員会なのです。
委員は政治と無関係であることが条件になっています。
今、委員は11名。わたしは文化の面で随分仕事をしていたので、2月に誘われてメンバーになりました。委員会として文化面で仕事ができる人が必要だったのです。私と同時に3人が新しくメンバーになりましたが、他の7名は既に2年間委員を勤めている人たちです。そんな風に誰かの紹介だったりで入れ替わりがあるんですが、その度に委員会で検討して来ました。委員会には代表、書記、会計を担当する人がいます。
こういったことが連邦政府のルールに基づいて行われていて、このルールから外れると委員会は解散となり、政府が別の委員会を設置します。
しかし、いつも委員会はコミュニテイーの中の様々なグループ/小さな社会の代表者から構成されます。

Q: 今年、6/30にプロジェクトはほとんど崩壊しかかったが、市民の力で実現した。この大きな力の元になった動機はなんなのでしょう?

実は6/30以前、ほとんど誰もこのプロジェクトについて知りませんでした。
我々は2年間準備して来ましたが、計画は市から発表される予定だったのです。
ところが市では実施不可能となったので、私たちがコミュニティーにこのプロジェクトのことを話しました。みんな興奮して、しかしほとんどなにも内容を知らなかったので、何度もミーティングを開き、話をして行きました。
今、タカンバロはより多くの観光客を迎えようとしている、ということがありました。
このプロジェクトで海外から来てくれる人たちがいると。
しかも、、ところが、、、我々の大陸からではなく世界の反対側からやってくる人たちがいる!
これが一つの要因だと思います。
しかしもっと重要だったのは、あなたたちが私たちの文化を学ぼうとしている、そしてこの機会をシェアしようとしている、このことが市民みんなの期待を高めていったのです。
ここは小さい町で、もともとみんな知り合いで、そこに海外からの人が来たら、あの人たちどこから来たんだろう?なんでここにいるんだろう?と、みんな興味津々なんだけど、さらにその人たちが学ぼうとしている、そしてここの人に教えようとしている。それでみんなとてもオープンになって、あなたたちに教えたい、あなたたちから学びたい、なにか見せたい、もう家にも招待しちゃう。これはみんなにとってすごいことでした。
それでみんなとってもオープンになっていったんですよ。
まるで、あなたたちが生まれてからずっと知ってる人みたいに。

Q:このプロジェクトに関わって、個人的な感想は

とっても満たされています。
最初からとても良いプロジェクトだと思ったけど、はじめはどんな風になるんだか、、、
でもあなたたちからの提案で、ここにくるだけじゃなくてワークショップをするといわれて、うわ!これは大変だ、頑張らなくちゃ、挑戦だ!と思った。そしてプリシリアーノが神戸のことや、C.A.P.のことを話してくれて、それが刺激になってやる気がぐんぐん湧いて来たの。
私は地方行政と仕事をして、面白いプロジェクトに関われたけど、最後の最後で市は「興味がない、予算も出さない、もっと予算が必要な重要なことがあるんだ」といい、、、そんな日々だった。
アートや教育、地域にとってとても重要なこういうことは、コミュニティーを編んでいく、本当のつながりを作っていく、しかし残念ながら私たちの政府はそれをしない。暴力、、、反対側にアート。それは人のことを繊細に感じ取ること。とても重要なんだけど、いつもそれは政府に忘れられて、私たちは大波に向かっていくようなものだけど。
それはとても重要なことです。
わたしはいつもコミュニティーを信じている。
なにか困ったことがあれば、だれかに話す。そうすると必ず誰か助けてくれる人がいる。
というのがこのプロジェクトで私が得た体験です。これまでで一番大きな体験でした。
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盆踊りWS

 盆踊りWSに出かける皆を送り出し、レクチャーの準備をして一人WS会場へ。ずっとWSに参加している見知った参加者たちが広場に集まっていた。広場にテーブルと椅子がセットされ、下田、象くんが今日のWSを説明。メロディーを覚えてもらう、日本語の歌詞で歌ってみる、スペイン語でタカンバロお国自慢の歌にする、それを本番では歌ってもらう、などなど。途中、夕紀と優希子が法被の彩色作業のためホテルに戻った。
 まず日本語の歌詞を書いた紙を皆に示し、我々が歌うのをなぞってもらう。女性の多い参加者には音程が低いのか、歌いにくそうだったが、ついてきていた。ついで「神戸良いとこ皆おいで」の部分をスペイン語にする。ロシオが「ビエンヴェニダス・ア・タカンバロ」ではどうだと提案。

日本音楽レクチャー

 会場を後にしてレクチャー予定のカフェ・アシエンダへ。客がいなく、ガブリエル青年と女の子が店にいた。2階の屋根裏部屋のような空間に机とテーブル、プロジェクターが用意してあった。PCや電源とプロジェクターを接続して準備は整ったが、予定の7時30分になっても誰もやって来ない。

 

 最初に顔を見せたのが通訳予定のエステバンだった。今日はモレリアのリハーサルで、さっき戻ってきたという。レクチャーを始める前に、エステバンのロシア人女性ビオラ奏者の先生について聞いた。
 1978年、メキシコ政府の音楽指導のため要請され単身でメキシコへやって来た。その時は60歳だった。その後、メキシコ人と結婚。毎年ロシアに帰国していたが、向こうでは親戚にもう行くなといわれていたという。彼女の元からは、バイオリン、ビオラ、チェロ、ピアノの演奏家が数多く育った。2年前に90歳で亡くなった。
 ほどなく、下田にギターを貸してくれた地元バンドのガブリエル、回廊の路上コンサートで地元音楽家記念演奏会でピアノを弾いていた長身の男、ビジネスマンのように見える中年男性とその息子らしい男の子、タカンバロテレビのマリオ、ビデオを撮っていた中年の男、カルラ、遅れてマリナやルビ。20人くらいといわれていたのだが、参加者は総勢10人だった。
 まだ人が来るかもしれないので始めるタイミングが取れない。その間、尺八、琴、三味線、雅楽などの映像を見せて簡単に説明した。
 エステバンの通訳でレクチャー開始。日本音楽の特徴である非和声、ペンタトニック、自由リズムと拍節リズムの併存について、今回持ってきた小さなスピーカーで音源を流しつつ説明した。話の後は、インターネットに接続できたので浄瑠璃、歌舞伎、能、盆踊りなどのYouTube映像を見せた。

 9時過ぎに、急に便意が来たのでレクチャーを切り上げた。皆で記念写真を撮り、急いで階下のトイレに駆け込んだ。
 エステバン、マリナとともに、他のメンバーが夕食をとっている「バーガー」へ向かう。「バーガー」では日本人だけが固まって談笑していた。CAP音頭スペイン語バージョンはほぼ完成したという。薬を飲もうとしたらマリナが「何かお腹に入れたほうがいい」というのでスープを頼んで食べた。
 そこへ、モレリアに行っていたプリシリアーノが戻って来て合流。レクチャー途中で漏れそうになった話で盛り上がる。話しているうちにまたもよおして来たので階下のトイレに。なんと便座も紙もない。
 11時頃お開き。下田、ワダス、優希子、沙也加はタクシーで、残りは歩いてホテルに戻った。タクシー代は、マリナのいう40ペソではなく50ペソ。ま、深夜に4人も乗っているから仕方ない。50でも、300円くらいだから安いものだ。
 部屋に戻って、マリナのインタビュー、今日のWSの様子をビデオで見た。
 12時頃就寝。

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