2018年8月24日(金) メキシコ3週間よれよれ日記  前の日 次の日


 今日は、モニ、2人の息子ヘナロ、ディエゴ、建築家のハイメ、ベロニカ、スィタラリ、ジオヴァニ、ヴァレンティーナ+運転手ダニエル、同行のピラール、角、優希子、夕紀、ワダスの総勢14人で温泉に行くことになった。下田、象くん、沙也加は明日の準備のためパスした。


 8時過ぎ、ハイメ運転のミニバスに、日本人4人、ヘナロ、ディエゴ、ヴァレンティーナが乗り込み、他がダニエル運転の救急車改造車で出発した。

アグア・テルマレス(温泉)

 我々が向かったのは、サリトゥリジョにある温泉アグア・テルマレス。タカンバロ市街を一旦下り、曲がった道を徐々に高度を上げていく。ラ・アルベルカ湖を通り過ぎると、大小の山波に囲まれた緩い勾配の斜面にサトウキビ畑が広がり、まるで阿蘇の周辺を走っている感じだ。この連なりがずっと続いていて、これがティアラ・カリエンテ(熱い大地)だとヘナロが言う。17歳になるヘナロはモニの息子で、隣に座っているのが15歳の弟ディエゴだった。
 途中にはサトウキビを絞ってブラウンシュガーまで仕上げる工場や、まばらに立つ民家が見えた。ときおり岩の露出した川の対岸の切り立った山とそれを覆う樹木、その下に広がるサトウキビ畑が続いた。
 未舗装の脇道に入ると、デコボコのたびに車が大きく揺れた。角が「ええっ、こんなとこ走るんかい」とつぶやく。支流の水が道路に流れ出している箇所もあった。急流の川に並行する道に入って間もなく、目的地の温泉に到着した。切り立った崖のある小高い山の麓に、水色に塗られたウォータースライダーが見えた。

 
前列左からハイメ、角、スィタラリ、夕紀、優希子、HIROS、ダニエル、後列-ジオヴァニ、ヴァレンティーナ、ベロニカ、モニ、ヘナロ、ディエゴ


 この施設の正式な名称はSalitrillo Aguas Termales 40℃。公共団体が運営しているという。
 施設の中は、簡単に建てられたいくつかの建物、スナックや飲み物などを売る売店、鸚鵡のような鳥の入った大きな鳥かご、日覆いの下に椅子やテーブルが雑然と並べられた広い空間、それに連なるキッチンともいえない簡単な調理場などがあった。
 モニの「今調理場でトルティーヤを作っているから見る?」の誘いで行ってみた。中年女性が、うどん生地のようなトウモロコシの粉の生地から一掴み丸め、てこを利用した四角いトルティーヤ成型器に入れて押し丸く平たい形に成形する。それを傍の鉄板の上に並べて焼くのだ。我々もやらせてもらった。
 10時頃、長く連なったテーブルでみんなでブランチ。オレンジや大根に似た食感のキカマという名のフルーツ、キューリなどのサラダ、モニが作って来たジャガイモとソーセージの煮っころがし、注文して出てきた目玉焼き、煮豆、トルティーヤ、瓶詰めの揚げたニンニクの油漬け、インスタントコーヒーというメニュー。ヴァレンティーナが持ってきたメンブリージョという果物もいただいた。ほのかに甘く、カリンに似た香りでナシのような食感の果物だ。この果実から作ったワインが、フロイラン宅で飲ませてもらい、残った瓶をホテルまで持ち帰って来たものだ。
 優希子、夕紀が水着に着替えていた。参加していない下田に見せるため2人の水着写真を撮った。まずプールに入ったのが、スィタラリとジオヴァニ。彼らはいつもくっついているので恋人関係のようだ。ジオヴァニは民俗ダンスを教えているという。ついで、ヘナロ、ディエゴ兄弟、いつも優雅なヴァレンティーナ。

ベロニカの話

 彼らがプールで遊ぶのを見ながら、ベロニカと話した。
 彼女は、何十人かの先生に指導法を指導している。ミチョアカンの教育システムの説明。2種類の先生がいる。公式教師と民主教師。民主教師というのは現在の教育制度に反対している。この教師たちは全国組織であるCNTEに所属する。どちらの教師も給料が安い。小学校教師が月4000~5000ペソ(¥24,000~¥30,000)、中学校教師が7,000、ベロニカのようなTelesecumdaria教師が10,000(¥60,000)。教師の給料ではこの10,000ペソを超えることはない。政府は教育に熱意があまりなく給料が安いので多くの教師たちがデモをしたり、バケーションと称してストライキをするのだと。日本人教師の給料が年600万ほどというとびっくりしていた。幼稚園3~6歳、小学校6~12歳、中学校12~15歳、ここまでがElementary School、日本の高校に当たるProparatosiaが15~17歳、大学は17歳から。

温泉に浸かる

 我々も水着に着替えてプールに入った。パンツでも仕方がないと思ってリュックに替えのパンツも入れて来たが、なんとヴァレンティーナが角とワダスの水着を持って来てくれてたのだ。さらにバスタオルも貸してもらった。
 温泉は上へ行くほど水温が高い。山々を見渡せる一番上の小さな湯船が最高温の風呂。40℃あるから気をつけよ、という看板があった。それなりに熱いが入れないほどではない。別の夫婦らしい客が入っていた。夫らしい男はこわごわと入り、妻は「何グスグズしてるのよ」とけしかける。
 最高温風呂の下にウォータースライド台。ここを滑り落ちたところが最も大きなプールだった。滑り水がほんのわずかなのでスタートでは抵抗があったが、落ち始めるとかなりの勢いでプールに落ちた。
 一番下の橋のかかったプールの水温は低く生ぬるい。そのプールのちょっと高い段に曲線で縁取られた浅いプールが数カ所あった。

天国へ("El Paraiso")

 1時頃、次の目的地「保養地天国」Balneario "El Paraiso"に向かった。キャンピングスペースにもなっているニジマスの養魚場だった。大学の実験施設でもあるという。養殖している鯉に似たティラピアという魚を売ったり、食べさせるレストランも併設されている。オレンジのシャツに赤い帽子の男が、稚魚から成魚までの養殖過程ごとに作られたプールを案内してくれた。我々は次第に温泉疲れとなった。優希子は途中で「もおう、眠くって」と電池切れ状態。

 

アロヨ・フリオ

 ついで、ガタガタの山道を抜けた奥にある滝、アロヨ・フリオ(Arroyo Frio、冷たい水流)へ。一番上は200mほどの岩山の頂上付近から水が流れ落ちてくる。トイレや休憩所がある場所から高さ40m幅20mほどの勢いのある滝の水しぶきを浴びる。
 ミニバスの横扉を開け放して帰途についた。

アシエンダ・サンタローサ

 3時、広場のカテドラル前の広場へ。
 仮設足場のヤグラに赤白提灯、舞台上の角から四方にロープが張られ、それにトルティーヤ・ランタンが下げられていた。赤白提灯があるだけで盆踊りの雰囲気が出る。
 広場でアイスクリームを食べながら別働隊を待つがやって来ない。1時間ほどして、彼らを待たずにベロニカの運転する乗用車で次の目的地のアシエンダ・サンタローサへ向かった。後続車に温泉参加組のミニバンと合流。後で聞くと、下田、矢作氏、象、沙也加はプリシリアーノと一緒にすでにサンタローサにいて我々を待っていたのだった。
 車高の低いベロニカの自家用車は、ガタガタ道で底をこすりながら走る。ベロニカも一度も行ったことがないので時々道を間違う。5時前頃、アシエンダ・サンタローサに到着した。
 今にも崩れそうな古い大農園の建物がアシエンダ・サンタローサだ。この古い屋敷で一人で活版印刷をしているという長身のフアン・パスコ(72歳)が出迎え、工房やキッチン、居間などを案内した。彼とはカフェ・アシエンダで10日に会っている。


 フアン・パスコの解説が以下。
 かつてこの土地は、タカンバロのアガスティー派に属する教会所有であった。サトウキビ生産が当時は盛んで、1865年頃は1700ヘクタールあった。しかし、数人の神父で運営するには広すぎたので、22のアシエンダに分割した。その1つが今のアシエンダ・サンタローサで、450ヘクタールの農園がある。砂糖産業が下降してオーナーが土地を失ったので建物は存在意味がなくなった。1770年に建てられたこの建物をフアンの父が1981年に購入した。建築当時は木材などの建築材料を入手するのが難しかったので、かなり高価な屋敷だったという。
 一行は蛇の皮が天井からぶら下がった活字印刷工房に移る。多くの本が無造作に詰め込まれた本棚があり、その中にはガルシア・マルケスの本も見えた。フアンは読書家なのだろう。
 なぜ蛇の皮がこんなにあるのか。一人の男が息子が病気になったので買って欲しいときたので買った。今度きても買わないよ、と言ったのにまたやって来て結局3本になってしまった。などという話をフアンは流暢な英語で止まることなく話す。別の部屋にはフリーダ・カーロのコピーの絵、19世紀後半の2台のプレス機、鉛の活字、大きなiMacなどなど。この家にはかつてフリーダ・カーロの主治医の友人が住んでいたのだという。
 アメリカ人を母親に持つフアンがこの家を作業場にしたのは、1987年、ベラクルスでバンド活動をしていたが事情で続けられず、一人でこの地にやってきた。当時は無一文で、持っていた3冊の本を持ってタカンバロの街へ売りにいき、売れたお金で食料を買ったのだという。
 ここを訪れた人たちの芳名帳を見ると、森屋武の署名があった。あのモリヤさんだった。我々も署名した。
 こんな説明を聞いている時、すでにかなり前に同じ説明を聞いてキッチンで待機していた下田、沙也加、象くん、矢作氏、プリシリアーノに再会。聞けば、WSの時にオクソで買った小さなサンドイッチしか食べていないのでみな空腹なのだという。

カルメロ氏宅で遅いブランチ

 アシエンダ・サンタローサを出たのが5時半頃だった。カルラ宅にも来ていたカルメロ氏宅で、運転してきたベロニカと別れる。ここで日本人全員と、モニ、ヴァレンティーナ、マリナ、プリシリアーノ、ルビ、ロシオ、ロシオの娘キエラで遅いブランチをいただいた。


 ロシオとキエラがまるで自分の家のようにカルメロ氏を手伝っていた。カルメロ氏は物静かな、年齢の割には黒々とした髪の、60代の元小学校教師。
 あとで聞けば、元の計画は朝食がロシオ、昼食がカルメロ氏の提供ということだったが、我々がブランチだけをとるようになったので、今回はロシオとカルメロが共同でブランチを作ったということだった。カルメロ氏がここで一人で住んでいるかはわからない。皆がカルメロ氏のことをプロフェッサーと呼ぶのでてっきり大学教授だと思っていたが、プロフェッサーというのは教師一般を指すタイトルだという。また教師はマエストロ、女性だとマエストラとも呼ばれる。
 スプラウト、くるみ、豆、きゅうりなどの入ったサラダ、チキンのトマト煮のようなものをトルティーヤに挟んで食べる。煮豆も出てきた。
 カルメロ氏宅の小さな中庭を望む寝室にはピンクのハート型クッション。女性も住んでいるようだが、それがロシオなのかは不明。
 8時すぎ、ホテルに戻り、上のホールで盆踊り音楽隊と角のリハーサル。そこへ、8時の約束だったガブリエルが加わった。スペイン語バージョンを歌ってもらいたいのと、全体構成も含めて理解してもらうためだ。


 9時半、今日の行動は全て終わった。夕食の招待があったが、角とワダスは断り、部屋に戻り、そのまま寝てしまった。10時頃だった。

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