2018年8月28日(火) メキシコ3週間よれよれ日記  前の日 おみやげ


 7時起床。水圧の低いシャワーの適温調整が難しい。


 9時頃、ぼちぼち皆が起き出してベランダに並べられたテーブルについて朝食。如才なさそうなアントニオが朝食の説明をする。ゆっくりした話し方だが英語を話すアントニオ(53歳)はこのホテルの従業員で、自分の車でフリーダ・カーロ美術館からディエゴ・リベラ・アナウカリへ、7時のグルシエラ宅での夕食、そして空港まで送るという。なんとありがたい親切だと、皆はこのとき思った。


 パパイヤとマンゴー、メロンジュース、トルティーヤにマッシュルーム、チーズなどを挟み込んだものの朝食。バルコニーに用意されたテーブルセットと共に、タカンバロでは味わえない洗練された高級感が漂う。
 この日ホテルに宿泊していた人たちがいた。グラシエラの個展の準備のために来訪したというクリステン・グレシュ女史と夫、娘2人、幼い息子だった。クリステンはボストン美術館の写真部門のキュレーターだった。夫のイヴァン・アバルカはMITでラテンアメリカ文化について講義する、ミチョアカン州出身のメキシコ系アメリカ人。「今晩、グラシエラ宅に招待されている」というとクリステンは「知ってるわよ」と言う。

フリーダ・カーロ美術館

 フリーダ・カーロ美術館は11時30分にネット予約した。入場料は一人40ペソ。ホテル周辺の地図、予約票をアントニオにプリントアウトしてもらって出発。
 ホテルでもらったコヨアカン地区の地図を頼りに歩いた。コヨアカンというのは「コヨーテの地」の意味で、広場に近いメルカードの入り口にはコヨーテの像があった。ここは芸術家や革命家が居を構えた高級住宅の多い歴史的地区とある。
 コヨアカンの中心広場を横切り、何度か人に聞いて探し当てた両替所で両替。タカンバロでは両替できなかったので皆ペソの持ち金が心細くなっていたのだ。ワダスは2000円を両替した。
 しばらく歩くと、壁が青、窓枠が臙脂色に塗られたフリーダ・カーロ美術館に着いた。すでに多くの人たちが列を作って待っていた。


 フリーダの家は、広い中庭を挟んで多くの部屋が取り囲む形になっていた。絵画作品、写真、スタジオ、生前の衣服や小物などが展示されていた。イサム・ノグチの写真もあった。
 グッズ販売コーナーでは、カタログをはじめ、無数のフリーダ・グッズが売られている。人形、マグカップ、冷蔵庫用のマグネット、ネックレス、紙類などなど、とにかく売れるものには全てフリーダの眉毛繋がりの顔が描かれていた。ワダスは英語版のカタログを購入。
 美術館の前で我々を待っていたアントニオの8人乗りのバンに乗り込み、ディエゴ・リベラ・アナウアカリまで連れて行ってもらう。フリーダ・カーロ美術館の入場券があれば無料で入ることができるのだ。ディエゴ・リベラはフリーダ・カーロの夫で有名な壁画作家である。

ディエゴ・リベラ・アナウアカリ

 アントニオがディエゴ・リベラ・アナウアカリ到着直前、スマホのウーバー料金を見せながら、ちょっと厳かな雰囲気で運転席から後ろを向いてこう申し述べた。
「実はウーバーのような形で皆さんに車を使って欲しい。ホテルからここまではウーバーでは200-280ペソだ。みなさんを空港まで送ると、多分、全部で1000ペソになります」。
 タダではなかったのだ。ま。当然であるとはいえ、これまで人々の親切に慣れて来た我々には、ちょっとした失望感と仕方ない感が漂ったのだった。


 ディエゴ・リベラ・アナウアカリは、壁画家として有名だったディエゴ・リベラの個人的コレクションを展示する施設だ。展示物はほとんどが先スペイン時代の土器、土偶など。個人的コレクションのためか、アカデミックな説明は一切なく、外観同様にゴツゴツして薄暗い空間に脈絡なく展示されていた。縄文土器のような土器、土偶も多かった。フリーダとディエゴと題された石の彫刻もあったので全てが考古学的遺物ではなさそうだ。展示物と重厚な溶岩ピラミッドそのものがディエゴの作品ということか。1mほどの深さのある大きな矩形の前庭から濃い灰色の建物全体を見上げると、古代の権威とモダンなデザインが奇妙にバランスを取っているように見えた。

コヨアカンに戻りランチ

 ここで、地下鉄で1時間ほどかかる民芸品市場へ出かけるという夕紀と象と別れた。
 残りのメンバーは、おりから雨足がひどくなりつつあったのでタクシーでコヨアカンに戻ることにした。まず角、優希子、ワダスが最初のタクシーを捕まえた。激しい雨のせいかものすごい渋滞だった。コヨアカンまでの料金は64ペソ。30分ほど乗って400円弱というのは安い。
 後から追いかけて来た下田、沙也加とも無事合流した。2人は傘を買うところだった。傘を買い終わった頃、雨が止んだ。財布が心細くなってきたので両替所で50ユーロ両替。


 何か食おうということになり、なんとなく近くのチキン料理屋モリノスへ。チキン、パスタ、トルティーヤの家族セットで200ペソほど。山盛りパスタの横に添えられたピーマン状の唐辛子が思いの外辛かった。
 お土産市場へ行ってみた。キッチュで安物の土産品が並ぶ市場だった。フリーダ・カーロの顔が描かれたビニール製の財布を30ペソで購入。こういう安物の土産品にもフリーダ・カーロのあの眉毛繋がりの顔が溢れている。タカンバロのアリの自宅で見たフリーダ・カーログッズはこの種の場所で買い集めたのだろうか。成功した偉大な芸術家の顔がこれほど陳腐なものにまで商品として流通するとは本人には想像すらできなかったに違いない。
 市場の外で角、下田が待っていた。ほどなく女子も合流。ここで下田、優希子、沙也加と別れ、角とワダスはトロツキー博物館へ行くことにした。

レオン・トロツキー博物館

 学生時代はトロツキストもどきだったワダスには、ちと思い入れのある博物館だった。
 自宅として使われていた真っ赤な壁な建物には、生前の写真や遺品、スターリンから逃れて各地を移動し最終的にメキシコまで至り暗殺されるまでの過程の解説が整然と展示されていた。暗殺現場の居室には生々しい銃弾の後があった。当時の書斎や事務室などを見ていると、彼がここから世界同時革命論を叫び第4インターの運動を指揮していたことにちょっと感慨が湧いた。レーニンらと共に自身が主導したロシア10月革命後の激しい権力闘争、最終的にスターリンの差し向けた暗殺者によってピッケルで後頭部を粉砕されるまでの歴史は、ワダスが学生時代に読んだ本でも知ってはいたが、実際の現場を見るのと本で知るのとでは相当な違いがある。

グラシエラ・イトゥルビデ宅

 途中、道を間違えたが6時半にはホテルに戻った。象くん、夕紀から、直接グラシエラ宅へ向かうとの連絡が入ったので、残りの我々はアントニオ車でグラシエラ・イトゥルビデ宅へ向かった。入り組んだ細い道に面していたのでわかりにくかった。
 扉を開けるとグラシエラ本人、萩野ミホさんとタローさんが待っていた。この3人に会うのはQ2以来4年ぶりだ。小柄でチャーミングな80歳近い女性だが、ときおり見せる鋭い視線が中南米でも最も著名な写真家であることを伺わせる。彼女は相変わらず世界を飛び回っていて忙しいという。ボストン、ニューヨーク、ブラジルなど。スペインにも招待されたが、しんどいので断ったという。
 天井の高い居間の周囲の壁には多くの本棚や自作らしい写真が飾られていた。小さな坪庭も見えた。

左からタロー、HIROS、マニュエル、グラシエラ、角、夕紀、下田。優希子、象くん、沙也加


 下田の顔を見た彼女が「シーモーダー」と懐かしそうに抱きついた。実際、来日した際に最も密に接したのが下田だし、それ以前にも息子のマニュエルが下田宅に居候したことがあったので余計親密感があったに違いない。
 黒のドレスの上に真っ赤なマントを羽織った萩野さんは、現在はメキシコシティーに住むアーティストだが、CAP HOUSEの頃に活動していたのでワダスも面識があった。聞けば、北海道出身で大学は北海学園。現在はメキシコばかりでなく中南米全域で活動していて、つい最近までペルーにいたという。また最近はアフリカのコート・ジボワールの美術指導も依頼されているという。
 母が日本人、父がメキシコ人という、髭を生やしてなかなかに男前のタローさんは、早稲田大建築科の石山修武の元で勉強した建築家。作品もぼちぼち増え、自立した建築家として活躍しているという。母はメキシコシティーで日本料理屋を営んでいる。会話の方向を素早く把握し、的確に通訳してくれるのでとても助かる。ミホさんとはパートナーとして一緒に住んでいる。
 真っ白なシャツに蝶ネクタイ、黒のベスト、白と紺の細い縦縞の前掛けで正装した男性が給仕する。60代半ばだろうか。側頭部にのみ短い髪を残し頭頂部を光らせながらキビキビと動く姿が美しい。
 テキーラ、メスカル、ワイン、生ハム、チーズで会話が進む。
 我々がタカンバロ での活動を紹介すると、
「あら、私の母はミチョアカン出身なのよ。メスカルがいいのよ」とグラシエラ。さらにタローさんも「たしか祖母もミチョアカンだ」と言う。
 途中で息子の55歳になるマニュエルが現れた。分厚い黒メガネをかけ側頭部にのみ灰色の髪が残る、一見して大学教授のような風貌だ。ほぼ20年前、1週間ほど下田宅に居候したことがある。彼が分厚い自著を下田に献呈した。
 テーブルに場を移すとマニュエルの話が止まらない。
 子供の時に蛇に噛まれて腕が腫れ上がる。ロンドンへ行った時、メキシコとは逆の交通ルールのために見間違って自動車にぶつかる。というようなことがあって以来、クレージーになったという。
 少年時代、父が日本に行った時のことを話してくれた。父は建築家で丹下健三事務所に半年ほどいたらしい。
「銭湯に行って、湯船をプールだと思って飛び込んだらものすごく熱くて驚いた」
 こんな話をし始めるとグラシエラが「そんなことまで喋ることないだろう」という感じで嗜めるがマニュエルは気にせずに続ける。
 食事として最後に出されたのが特別なものだった。緑の葉に包まれた混ぜご飯の上に白いクリームがかけられその上からざくろの実を散らす。メキシコ国旗の色を元に考案されたものを、グラシエラの祖先が選定したものだという。祖先というのは、途中まで読んでいた『物語メキシコの歴史』に登場するアグスティン・デ・イトゥルビデのことだった。メキシコは1821年にスペインから独立を果たすが、その時に活躍した重要な軍人がイトゥルビデだ。独立と同時に彼はメキシコ皇帝アグスティン1世となったが翌年には追われてイタリアに亡命し、その後イギリスのバースで過ごした後帰国したが直ちに処刑された、と歴史にある。グラシエラが、まさかこうした歴史上の人物の直系の子孫だったとは驚きだった。

空港へ

 12時頃、アントニオの車で空港まで送ってもらった。車を降りて空港内に入る直前、優希子が「あー、グラシエラ宅にパソコン忘れたあ。仕事のデータが全部あるのでないと困る」と焦って呟いた。早朝6時のフライトまでは時間がたっぷりある。アントニオに相談すると「追加で500ペソ払ってもらえば、45分で彼女を確実に返す」といって優希子を乗せ、グラシエラ宅に戻った。驚いたことに彼はきっちりその時間に戻って来た。

 コーヒー屋で時間を潰したのち、3時過ぎにチェックイン・カウンターへ行った。

エスタ問題

 ここで予想外の展開になった。
 アメリカに一時的に入国することになるため、エスタというプログラムに登録する必要があるというのだ。こんなことは全く誰も知らなかった。登録するにはウェブサイトで入力する必要がある。ワダスはマックでネットにつなぎ、住所、氏名、なんと両親の名前、勤先住所、ポジションなどなど、無意味に思える情報を打ち込んで行くが、途中で時間切れになり、同じ情報をまた打ち込む。14ドルの支払いも必要で、クレジットカードで支払う。なんとかワダスと優希子だけがクリアーしたが、他のメンバーはボーディング時間切れになってしまった。つまり、彼らは1日遅れの便になるということだ。
 あとで聞けば、残された下田、沙也加、角、象くんはなんとか情報入力してクリアになったが、象くんだけ「かつて精神障害ありかなしか」とかいう質問に「あり」と入力されてしまい、登録を拒否されたという。訂正もうまくいかず、大使館に助けを求めると下田が言ったらしいが、結局象くんだけアメリカを経由しない便に変更し無事帰国したということだった。

優希子と2人だけが出国

 優希子とワダスはボーディングの時間ギリギリだったので、下田、角、象くん、沙也加、ベルリンに向かう夕紀と別れ、出国手続きを省略して搭乗ゲートに走った。ワダスは優希子の走りについて行けなかったが、なんとか間に合って機内へ滑り込んだ。優希子は以前ヨーロッパで乗り遅れた経験があったためいつも緊張して走ってしまうのだという。 
 4時間のフライト後、サンフランシスコ空港に着いて入国審査。単純なトランジットだと入国審査はないはずだったが、一時的に入国という形になるらしかった。入国審査のマシンでパスポートを読み込んだり顔写真を取られたが、我々の後に続く長い列の後ろで係員が叫ぶ。「システムダウン。システムダウン。皆こちらに来るように」と誘導。入国審査マシン設置とはさすがアメリカだと感心していたが、まだまだ万全ではないらしい。優希子のスーツケースの車輪が一つ取れてしまっていたのでクレーム。
 そんなこんなの入国審査や何度ものセキュリティーチェックやらで、次便のボーディングはギリギリだった。G101ゲートでは待ち人はいなく、我々がほとんど最後の乗客だったのだ。
 座席はラッキーにも3人がけに一人なのでゆっくり横になれた。離陸してすぐに寝てしまった。起きたのは着陸3時間ほど前。映画を1本。「クワイエット・プレイス」音に反応するエイリアンのような怪物に怯えながら必死に生き延びようとする家族の話だった。
 優希子はずっと寝ていたという。
 予定通り、羽田空港に2時頃着陸し、そこから国内便に乗り換え1.5時間のフライトを経て関空にたどり着いたのは5時半過ぎ。さらに神戸空港までベイシャトルの船で30分、そしてポートライナーで帰宅したのは7時だった。メキシコシティーを出たのが早朝6時(日本時間の20時)、帰宅したのが19時なので23時間かかったことになる。
 以下はいただいたお土産や表彰状、掲載新聞など。

前の日 おみやげ