第16回 即興の芸術3~銀の旋律

●とき/1996年12月7日(日)4:00pm
●ところ/ジーベックホール(神戸ポートアイランド)
●出演/アミット・ロイ:シタール、クル・ブーシャン・バールガヴァ:タブラー、藤井千尋:ハールモーニヤム、カミニ+田中理子:タンブーラー
●主催/ジーベック
●協賛/(株)TOA
●後援/兵庫県、神戸市、神戸市民文化振興財団
●企画制作/天楽企画

プログラム

タブラー・ソロTabla Solo

 タブラーは、元来伴奏楽器であり、主奏楽器として取り上げられることは少ない。ヒンドゥスターニー音楽の演奏会では、タブラーソロを聴くことは希である。しかし、近年、ザキール・フセインなどのスターの出現によってタブラーの相対的地位が上昇したことや、タブラーのリズム表現がとくに外国で注目されることもあり、ソロを聴く機会も増えている。
 タブラー・ソロの構成は、基本的には、声楽、シタール、バーンスリー、サロードなどのラーガ表現の組み立てに似て、ゆっくりした部分から始まり、最も早いスピードのクライマックスで終わる。こうした構成がいつ、誰によって確立されたのかははっきりしない。ただ、ソロ奏者として最も聴かせどころであるカーイダー形式は、あらゆるタブラー流派の元になったデリー派のスィッダール・ハーンSiddhar Khan(1700年ころに生きた人)によって始められたという。彼は、ムガル朝宮廷において当時の主流であったパカーワジに対抗し、タブラー奏法を確立したとされる。
 一般的なタブラーソロの流れ(ティーン・タール=16ビートを基本として、大きく分けて4つの部分から構成される。
1.ペーシュカール、2.カーイダー、3.早いコンポジション、4.レーラーまたはラッギー

■ラーガ・ラーゲーシュリー

 北インド古典音楽(ヒンドゥスターニー音楽)は、以下のような時間の構成で演奏される。
 アーラープ・・・アーラープAlap----ジョールJod---ジャーラーJhalaの3つの部分からなる。アーラープは、演奏者の選んだラーガの音階型を、低音域から高音域へと次第に音数を増やしながら紹介する過程。ジョールとジャーラーでは一定のテンポにのってラーガ表現の可能性を聴衆に提示する。
 ガット・・・タブラーとともに、あらかじめ用意された既作曲をもとに、旋律とリズムの変奏が展開される。ここで、主奏者は次第にテンポを加速し、最高速に達した段階でクライマックスをむかえ、全体の演奏が終了する。

ラーガ・ラーゲーシュリー
ラーゲーシュリーRageshree(カマージ・タートKhamaj That)/演奏時間帯:夜
上行(アローハ)・・・Sa Ga Ma Dha ni Sa' (C E F A B♭ C')
下行(アバローハ)・・・Sa' ni Dha Ma Ga Ma Ri Sa (C' B♭ A F E F D C )
特有の動き(チャラン)
Dha ni Sa Ga Ma Dha ni Sa' Ri ni Dha Ma Ga Ma Ri ni Sa
特有のメロディー(パカル)
Ga Ri Ga Ma Ga Ri Sa, ni Sa Ri ni Sa ni Dha

企画主旨

「即興の芸術」というタイトルの公演は、今回で3回目になります。92年8月の第1回目はサーランギーの名手スルターン・カーン氏、94年8月の第2回目が声楽のラシード・カーン氏を迎えてのものでした。今回のメインゲスト、アミット・ロイ氏はこれらの公演にも参加されましたが、今回はロイ氏の描き出す即興の芸術を余すところなく楽しんでいただくために企画されました。
 過去2回の「即興の芸術」公演でもとりあげましたが、北インドの古典音楽、ヒンドゥスターニー音楽は、基本的には即興の音楽芸術です。即興の音楽では、楽譜というガイドに表現をゆだねることのできるいわゆる演奏家以上に、奏者自身の音楽体験の蓄積や感性が求められます。ヒンドゥスターニー音楽は、音楽を記号によって記録し定着することをせずに安定した芸術表現を目指したシステムをもつ世界でも数少ない伝統ですが、楽譜あるいは作曲者からの制約から自由でありたい世界中の演奏家たちによって、これまで注目を集めてきました。
 私たちが、これまでシリーズでもたびたびヒンドゥスターニー音楽を取り上げてきたのは、二つの理由があります。一つは、日本の伝統音楽と対比してみて、われわれ自身の音楽や伝統のあり方を考えること。日本の音楽の伝統は、能や歌舞伎などのように、ある時代に確立した美の様式や作品を永続させる努力においてはすぐれたシステムをもつ一方、新しい実験的な試みには寛容ではない側面を強く持っています。しかし、ある時代に確立した美の様式や作品は、それが創造された時代においては革新的試みであり、そうした試みを受容しうる寛容さがその時代にあったといえます。そうした、かつての寛容さが薄れ、保存により力点がおかれているように思える現在の日本の音楽伝統にとって、伝統としての確固とした創造の枠組みのなかで、作品が瞬間瞬間に演奏者によって更新されるシステムをもつヒンドゥスターニー音楽から学ぶべきことは多いと思います。
 また、音楽家たちや聴衆が、表現の一文法として世界中の音楽様式をジャンルにこだわらずに積極的に取り込んだり鑑賞する時代のなか、ヒンドゥスターニー音楽も単なる「民族音楽」から普遍的な音楽表現の一つとして世界的に認知されてきています。長い時間をかけて確立されてきたインド音楽は、今や欧米では正規科目として取り上げる音楽教育機関があるほど一般的になっています。インド古典音楽は、これまでのような「瞑想的」とか「神秘的」などといった形容詞のつきまとう音楽としてではなく、緻密な創造の体系をもつ即興芸術様式として、より広く鑑賞されるべきだと思います。これが、第二の理由です。
 今回の公演の主役であるアミット・ロイ氏は、ここ7年、名古屋をベースに演奏活動を続けるシタール奏者です。氏は、インドからある距離をおくことによって、最近のインドにおけるヒンドゥスターニー音楽界の「現代化」や「商業主義化」の影響から免れ、むしろ伝統的な語法と自身のスタイルを純化しつつあるといえます。ここ数年の彼の音楽表現は、師であった故ニキル・ベナルジーの圧倒的な影響を受けたスタイルから、次第に彼独自のものへとシフトしてきつつあります。それは、今年はじめに、カルカッタのスタジオで行われた精力的な録音からもうかがえます。彼はなんと20日間ほどの間にCD10枚分をも録音しました。自己のスタイルに対する自信がなければ、できることではありません。師のリリシズムあふれる歌い方に加え、円熟味も加味してきたアミット・ロイ氏は、インド内外を問わず、今もっとも旬のシタール奏者です。今回は、そのアミット・ロイ氏を、デリー派タブラー奏者の若手、クル・ブーシャン・バルガヴァ氏が、確かなテクニックでサポートします。
 今回のコンサートは、これまでの「アジアの音楽シリーズ」の一つです。このシリーズは「日本とアジアの音楽を同時に視聴することで、その違いと共通性を認識する」というコンセプトから始められましたが、対比すべき音楽をより深く理解する目的のために、今回のような形としました。したがって、これまでになく深く、ヒンドゥスターニー音楽の即興の芸術に浸っていただけると確信しています。