第5回 夏だ!夏だ!ガムランだ!

●とき/1991年7月21日(日) 3:00 pm
●ところ/バーズビル(神戸市東灘区)
●出演/ダルマ・ブダヤ:ガムラン
●主催・企画制作/天楽企画
●協賛/seiden生活創造研究所
●後援/インドネシア総領事館、兵庫県、神戸市、神戸市民文化振興財団、神戸国際交流協会

プログラム

■KANDANG BUBRAH/SUBAKASTAWA/ASMARADANA/彩色された音の構造(七つ矢博資)/Times Up(Michael Nyman)/SUMYAR/Lagu-lagu Campru(遊唱歌)

企画主旨

今回の「アジアの音楽シリーズ」は、番外編としてダルマ・ブダヤによるガムラン音楽を取り上げました。暑い夏の昼下がりにはもっともふさわしい音楽です。
 ガムラン音楽は、インドネシアの代表的な伝統音楽として既によく知られていますが、ガムランのためにさまざまな現代音楽作品が作曲されていることはあまり知られていません。ダルマ・ブダヤは、ガムランの故郷であるインドネシアの音楽にも当然取り組んでいます。同時にそうした現代音楽作品を積極的に演奏しているという意味で、日本ではユニークなグループといえます。本企画コンサートは、ガムラン音楽が単なるインドネシアの伝統音楽としてではなく、普遍的な音楽表現の手段であることを広く人々に聴き知っていただくことを主旨としています。

プログラム原稿--『ちるだいダルマ・ブダヤの面々』

 沖縄弁(うちなーぐち)の「ちるだい」は、けだるいという意味だが、ガムラン音楽のもっている雰囲気も、何かしら南方に共通の、とろりとして甘いちるだい感がある。
 ところで、ダルマ・ブダヤのメンバーは、それぞれ知的で個性的でありながら、なんとなくほわーんとしていてちるだい的である。だから、彼らと話していると、こちらまでちるだい感が移ってしまう。
 元からそういう性格の人たちが集まったともいえるが、これはガムランを演奏することにも原因しているのではないか、と思うのだ。
 ガムランは、個人の職人芸はそれほど要求されないし、仮にその種の高度熟練者がいたとしても、個人として目立たない。それぞれ演奏者が音群の大きなうねりの中に埋没してしまわないと成立しない音楽だが、かといって、多少サボってもわからへんやろと思う個人がいても成り立たない。西洋の器楽合奏のように、それぞれの楽器が、今は部分として甘んじているがオレは一人でも立派に食っていけるもんね、というパートもない。どうしてもみんなで一緒に作業しないと自活できないのである。なんとなくちるだい的にしかし情熱的音楽愛好的でなければならないのだ。だから、恒常的日常的必死的に目立ちたいと思っている人間には不向きだ。
 それにひきかえ、私のやっているインド音楽は、基本的に個人芸であり、主奏者と伴奏者の間には厳然とした階級関係がある。それだけに、絶え間ない練習とある種の哲学的ストイックさをもっていないと、主奏者であり続けることが難しい。練習不足才能不足の主奏者は、練習十分才能十分のタブラー奏者にときどき蹴りを入れられるのである。一蹴される主奏者は哀れである。現にインドの演奏会ではこういう哀れな事態に接することがある。
 てな訳で、元来ちるだいナマケモノ人間でありながら深遠瞑想哲学的苦悩懊悩眉間縦皺のインド音楽をやっているわたしには、ダルマ・ブダヤのちるだいガムラン音楽を聴くと、心休まるのである。