バール・フィリップス氏来神報告1999


5月12日(水)

バール・フィリップス来神/鴻華園宴会/参加者/下田展久、森信子、川崎義博、杉山知子、東野健一、石上和也、進藤紀美子、岩淵拓郎、角正之、中川博志そして御大
 その分野では知る人ぞしるベース奏者で、かつAKFの代表であるバール・フィリップス氏が、16:19着新幹線で神戸にやってきました。11時半ころ川崎さんから「行くからね」という電話をもらったのですが、この11時半というのは、われわれ夫婦にとってはとても早い朝でしたので、配偶者は「あら、早いのね」と、とても世間ずれ対応をしてしまったのでありました。ようやくベッドから起き出すと杉山さんが「なっかがわさーん、江見さんがどうので今日の宴会はいっけそう」と、ムッチャ元気のよい声で電話が入り、われわれは、そうか、世間はすでに活動中なのだ、なのに今頃起き出すのは、どうもフツーではないのではないか、などという会話をするのでありました。
 で、所定の起床行動を終えぼーっとしていると、玄関のあたりに靴音がして、新神戸駅までピッカピカのアベニールを駆って出迎えに行ったポニーテール舞踊家兼スミ語達人角正之殿、同じ新幹線で東京から同行した川崎義博摂津之守義博殿とともに、頭頂部無髪周辺白毛髪後ろ束ねのバール御大が巨大な楽器とともにやってきたのでありました。この1月にマルセイユ出会って以来の再会でした。角さんと川崎さんは、バールとベースとトランクを配達し終えたのですぐ帰っていきました。なぜ角さんの車になったかといいますと、彼の車にしかベースと人が同時に入らないからでありました。免許取りたて、と伺っていましたので多少不安がないでもなかったのでありますが。
 で、とりあえずバールは我が家に荷物を解きました。ベースは30キロ、トランクはほぼ20キロ、本人が約70キロほどなので、しめて120キロのある重いものがはるばるマルセイユからやってきたのであります。神戸外大の二部学生(なんと川崎義博殿の後輩にあたるのです)である配偶者はそのときには大学でした。コーヒーを飲んでおしゃべりをしているうちに6時17分になったので、二人でジーベックまで歩いていきました。
 ノーズフルート(鼻笛)にうつつを抜かす下田展久殿、わあーい森信子姫のジーベック・ノブノブコンビとわれわれは、下田車で本日の宴会場である鴻華園に向かいました。 actekobe この鴻華園サミットは、当初は翌日の助役会見の作戦会議、今後のAK運動方針の意見交換、というものになるはずでありましたが、予想通り、ほぼ単なる飲み食い会になりました。料理は、ハム、キュウリ、クラゲなどのオードブル、例の蒸し春巻き一人一本、海鮮五目炒め、レタス包み、スープ、追加注文した蒸し春巻き、エビの甘酢あんかけ、焼きビーフン、デザートに杏仁豆腐。締めて一人4300円なり。ゼニがないと前日叫んでいた岩淵拓郎セミスキンヘッドにはつらかったに違いありません。量も十分で、お腹いっぱいでありました。と、ほぼ、飲んで食ってではありましたけど、バール御大はAKFの現状を次のように説明しました。

1.現在、2000及び2001に向けてAKF分科会の7つの会議が進行中。その結果は6月中に出され、7月18日の全体会議で全容が明確になる。そこでは、2001に神戸に来る人たちもある程度判明するであろう。 2.2000年AK計画問題に関しては、おそらく2000年7月になるであろう。したがって、AKJの渡仏は、2000年1月ではなく、7月がベストであろう。国際交流基金の助成年度は1999年度、つまり2000年の3月までなので、それを7月に延期できたら、より実りのある、かつ素晴らしいコートダジュール・ルンルン訪問になるであろう。

 こういう話が、咀嚼音や分散会話の隙間を縫って申し述べられたのでありました。
 この日は、10時半ころに散会し、わたしとバール御大はポートライナーで帰宅。御大は、イッツ・グレートのホット・バスを堪能し、パンツ一つでわれわれフーフとおしゃべりし、就寝は1時すぎでした。

5月13日(木)

 ・前野保夫神戸市助役訪問/訪問者/バール・フィリップス、下田展久、川崎義博、杉山知子、中川博志+ロビー待機組:石上和也、角正之 ・ハーバーランド・ランチ/上記メンバー+中西弘則神戸新聞社編集委員 ・ブラジル移民センター見学/上記メンバー-中西弘則神戸新聞社編集委員 ・バール・フィリップス・ソロライブ/ビッグアップル/参加者/石上和也、岩淵拓郎、下田展久、川崎義博、進藤紀美子、角正之、中川博志+久代、中西すみ子、林百合子、東野健一、遅れて小島剛 ・打ち上げ小宴会/稲見淳、下田展久、川崎義博、角正之、中川博志+久代、バール御大、森信子、少し遅れて近藤さん(ビッグ・アップル・オーナー)
 バール御大は、昨夜は1時過ぎに就寝したにも関わらず6時起床。わたしが起き出してきた9時半ころ、溌剌とした顔で「散歩してきたけど、ビューティフル・モーニング。ハハハハハ」と元気がいいのです。彼は、1934年生まれなので、今年でもう65歳になっているはず。とてもその年のジーサンとは思えません。配偶者は当然、まだ夢のなかをさまよっています。我が家の客は、われわれの起床時間の関係で朝はまったくのケアーなし状態に放置されるのですが、彼も客人の例に漏れず、自分でコーヒーをわかして飲んでいたようでありました。わたしは、いつにない早起きのためほとんど脳機能不全状態でした。
 手前紙巻きタバコを吸う御大を見ながら、わたしは国際交流基金の津田毅氏に助成対象年度変更の可能性を電話で聞きました。「今までにも例はあり、ほぼ考慮の対象にはなると思いますが、絶対そうなるとは保証できない」という返事でありました。それを聞いた御大は「うーん、なるほどね」と一言。
 そうこうしているうちに、11時に下田展久殿がやってきました。ちょこっとこざっぱりとした格好のわれわれは下田車で市役所へ向かいました。組関係者のように見える黒眼鏡の川崎義博殿、杉山知子姫、角正之殿、石上和也殿と市役所で合流。11:27に国際課の畑中主査がロビーに現れ、「まだちょっと時間がありますので、展望階に行きましょう」との言葉で、角正之殿、石上和也殿を1階に残したわれわれは24階の展望室へ行き、眼下に広がる神戸港などを眺めるのでありました。ところで、展望室には神戸市と姉妹都市関係にある都市の紹介パネルがあるのですが、マルセイユ市とバルセロナ市の人口表記が入れ替わっているのではないか、とわれわれにひっそりと申し述べる。この日は快晴でしたが、なんとなく霞のようなものが薄く漂っていました。11:38になったとき、畑中主査に「そろそろなので、14階の会議室へ」と促され入室すると、バリッとした背広姿の楠本国際部長、碇山課長などが、名刺手渡しいつでも待機状態で待っておられたのでありました。楠本国際部長は、バール御大を確認するや素早く近づき、満面の笑みをたたえ名刺を手渡しつつ英語で挨拶をかわす。しばらくわれわれも名刺交換ペコペコ状況に否応なく巻き込まれるのでありました。そのうち、入り口方面にささやかなざわめきが起こり、白人系女性通訳や2名のおつきを伴った前野助役が登場しました。いかにもお役人風の小柄な人です。彼が正面の席に着くや、周辺人の名刺交換ペコペコ状況は、会談開じゃっかんおごそか状況に突入しました。正面の、バールと助役の対座テーブルにはしっかりと日仏国旗が整えられていました。杉山知子姫は、会談の状況をこう報告しています。
「神戸市助役との会見はテーブルの上にフランスと日本の国旗が飾られ笑えるほどすっかり表敬訪問スタイルでした」。 actekobe たまたま隣り合わせたわたしとトモさんは、バールと助役の対話のたびごとに目を合わせて、ん、もー、絵に描いたような、中身のある人間的交流にははるかに遠い会見であるな、という意味を込めた笑いをこらえるのでありました。「AKFには震災以来、なにかとお世話になっています。また、AKJメンバーのマルセイユ訪問のときにもお世話になり大変感謝しております」と助役が申し述べると、助役の発語スピードの2倍ほどかけて白人系女性通訳が英語に直し、それに対してバールが「・・・姉妹都市提携40周年に当たる2001年には、是非、ご協力をお願いします」と返答すると、再び、今度はバールの発語スピードの2倍ほどかけて白人系女性通訳が日本語に直し、助役がうなずく、というような感じで会談が進むのでありました。「あなたは1934年生まれと伺っていますが、実はわたしもそうなんです」などという助役のちょっとした軽口も間にはありましたが、基本的には、儀礼的な表敬訪問に終始したのでありました。なにせ20分しかない時間がなく、かつ通訳が挟むので、AKJの強烈アピールを目論んでいたわたしはその機会がなかなかつかめず、やっぱり、こんなふうになるのであろうなあ、と事前に予想していたとおりの会見となったのでありました。会話時間比率は、バール2.5、助役2、下田0.5、中川0.5、杉山0.25、川崎0.25、通訳4くらいか。  てなわけで、こうして20分の助役会見はあっけなく終了しました。別れ際に「マルセイユのわれわれのイベントには向こうの助役さんが2度も見に来られていました。今度はわれわれ神戸の催しにも見に来て下さい」とわたしは助役にジャブを繰り出しましたが、「そうですね」とあっさり受け流されてしまいました。
 下に降りる途中、偶然、エレベーターに神戸国際観光コンベンション協会参与の永井氏が同乗。後にその永井氏からトモさんは電話をもらったそうであります。
「『僕に声を掛けていてくれたらもっと2001年のことをプッシュできたのに~』と残念がっていました。彼はもともと前野助役の下にいたそうで『なかなか好いおやじなんやけど~』『酒でも呑めば面白い』そうです」
 下では、会談にも同席していた神戸新聞社の市役所担当クラブの佐々木氏がちょっとバールにインタビューでした。その記事は、昨日の紙面に掲載されているそうですが、わたしはまだみていません。
 うーむ、こういう些細なことをずらずら書いているとこのレポートは長くなりますね。すみません。
 さて、市役所を辞したわれわれは、神戸新聞社の中西弘則氏を訪ねて、そのまま近所の赤煉瓦のレストランへいったわけであります。BGMがうるさかったのでちょっとボリュームを下げてもらって、チキン定食と魚定食をそれぞれいただきました。ジョークの通じないウェートレスから想像がついたように、味はちょっとメリハリが欠けていました。わたしは魚定食でしたが、見た目には工夫があったものの、ちょっとね、なのでした。鯛の切り身の間の小さな白いプラスチックの器に、えんじ色のどっろとした感じのソースのようなものの用途についてしばらく考慮しましたが、しかと判明せず、ジョークの通じないウェートレスに聞くと、それはサーモンにぶっかけるものだということ。そうであれば、ソースの配置は考えるべきであろう、と思いつつ、なんとなくしまらない味の魚を食すわたしなのでありました。チキンにすればよかったなあ。それに、のっけにスープとデザートが一度に出てきて、どれを最初に箸をつけてよいのか分からない。困ったもんだ。
 お腹も落ち着いて、われわれはブラジル移民センターへ行きました。わたしは初めてでした。ここは、現在、C.A.P.がこの11月あたりから半年間、実験的にアートセンターとして使用する計画があり、そうなった場合にはAKJも何かできるかも知れない可能性のある場所なのです。5階建ての古い(昭和3年に建設された)建物の中には入れませんでした。ちょっとみ割と年をとったガイジン、組関係者風眼鏡の川崎義博殿、ポニーテールの中年ダンサー角正之殿、鼻笛にうつつを抜かす下田展久殿、タバコをふかしつつあちこち見回す石上和也青年、ちょっ腹の出たリッパ中年中川博志、そして気品あふれる紅一点杉山知子といった妙な組み合わせの集団が、建物の周辺をなにやらしゃべったり指を指したりしているのです。中にいるはずの神戸海洋気象台の人には変な風に写っているでしょうね。
 一通り見終えたわれわれは、現地解散となりました。角正之氏の車には、バールと石上和也青年とわたしがのり、途中、北野町のインドスパイス屋で16日に使うスパイスを購入して、とりあえず我が家へ。バール御大は盛りだくさんのメニューと早起きがたたったのか、「今日は仕事だあ。一寝入りだ」と別室で昼寝を開始。石上さんとでひそひそ声で、カマチャンのビデオを見始める。ジーベックに駐車に行った角さんと下田さんが合流。合流したところでギリヤーク尼崎さんの映画のビデオを見る。なんやかんやとスミ語でコメントを申し述べる角正之氏。そうこうしているうちに、バール御大が目覚めました。
 バールの巨大ヴァイオリンを角車に押し込んだわれわれは、ビッグアップルへと向かうのでありました。下田車には、ジーベックから合流した森チャンも乗り込みましたが、下田さんに進呈した中川家特性キムチの強烈臭気攻撃にみまわれていたはずであります。
 ビッグアップルのライブは素晴らしかった。ライブには、上記AKJのメンバー以外に、なんとバールが初めて95年に市役所にいったときに同行した松原青年も見えていました。また、次のライブ予定地広島から見えた人もいました。ライブ前のバールは、森チャンにきれいな袋に入った香取ブタ印の手ぬぐいをもらってうれしそうでした。きれいな袋が彼は好きなのであります。それにしても、ワンドリンクつきで、前売りとはいえ4100円は痛い出費ではあります。
 これまで、完全なバール御大のソロをまともに聴いたことがなかったのでよけいにすごさを感じました。エアコンのファンの音が消え、照明を暗めにしたとたん、バールの世界が始まりました。彼の表現バリエーションの多彩さは、本当に素晴らしい。トランペット、クラリネット、パーカッション、ヴァイオリン、チェロ、フルート、シタールと見まがう音色が、たった一台の5弦コントラバスからつぎつぎと繰り出され、旋律と非旋律の変化、展開、強弱のプロポーションが実に絶妙に配され、彼の引き出しの多さに驚くのでありました。そのリラックスした伸びやかな自由さに、わたしも到達したいものだと思います。
 一部では、始まったとたんわたしは気持ちよくしっかりと寝ていたようですけど。ですから、わたしには圧倒的に2部がよかった。進藤紀美子さんは、「昨夜のバールさんは,赤いシャツがすっごく似合っていて、本当に素敵でした。演奏もよかった…と思います。でも,本当は私はあまり音楽がよくわからない!ただ、バールさんの指が弦をはじいたり、こすったりするとき、なんだか私のリンパ腺も反応して、バールさんの元気をもらいました」と感想を申し述べられています。また、森チャンのコメントは「あいかわらず、元気なじぃちゃんはカッコよかったです」でした。
 終わったのは11時前でした。バール御大は、「ちょっとお腹空いたな」ということになり、すぐ近所の遅くまでやっている中華料理店「天竺園」へいきました。ここの水餃子は昔からわたしの一押しなのです。バールに好きな食べ物はなにか、と聞くと「あの、ほら、ラビオリみたいなやつ」と、ここの名物と彼の嗜好は幸福な一致を見たのでありました。ここの勘定は、バール御大のおごりでありました。ビッグアップルにはみんな結構なチャージを払っていたので気にしていたのかも知れません。やつれ顔の近藤さんは、「いや、全然いいっす」とかいいながら、最後の焼きビーフンをしっかり食べていました。いつ見ても、近藤さんは疲れた力のない顔をしているのです。
 角正之車にバールとわたし、下田車に森チャン、川崎義博氏が乗ってポートアイランドまで送ってもらい、この日のプログラムがこうしてつつがなく終了したのでありました。
 帰宅してから、バールとお茶を飲みながらおしゃべり。彼はアメリカのロス生まれで、13歳のときにベースに魅せられ演奏活動を始めたこと、そのとき始めたのはデキシーランドジャズだったこと、7歳年上のお兄さんが音楽好きで影響をうけたこと、大学では言語学を勉強しその学位もあること、25歳になって、学問よりもベースのほうがよくなり本格的な演奏活動を始めたこと、などなどが判明しました。そういえば、インド音楽方面では名の知れたトゥリロク・グルトゥというパーッカッショニストは、まだ15歳の頃、サックスのチャーリー・マリアーノにインドから呼ばれてドイツでレコーディグをしたのですが、そのときにバールは一緒に演奏している、などということを知り、以外に彼はインド音楽とも接点があったことが分かりました。
 14日の午後1時10分、角さん、わたしの見送りでバールは、駅のそば屋できつねそばを食した後、広島へと発っていきました。その彼は、広島、佐伯、大分とライブをして、17日は再び神戸にやってきます。この日は、角正之宅で宴会およびパフォーマンスがある予定なので、皆さん、是非参加してはいかがでありましょうか。わたしは、インド総領事公邸で演奏があるのでかなり遅めに伺うようになると思います。
 というわけで、長かった3日間のバール滞在の報告をこの辺で終わります。 ここまで書いたとき、時計は午前1時45分になっていました。ではみなさん、おやすみなさあい。