震災から国際的芸術交流運動へ、アクト・コウベ


これは雑誌『神戸から』からの依頼されて1999年4月29日に書いた原稿です
 1999年1月14日から16日までの3日間、神戸の姉妹都市のひとつであるマルセイユ市のアルハンブラ劇場で「アクト・コウベ99」という催しが行われた。この催しには、わたしも含めアクト・コウベ・ジャパン(以下AKJ)のメンバー8名が参加した。アクト・コウベという名を冠した催しは、1996年1月に神戸ポートアイランドのジーベックで夜を徹して行われたコンサート「アクト・コウベ3」以来、4年ぶりであった。わたしたちは「アクト・コウベ3」に来神参加したアクト・コウベ・フランス(以下AKF)のメンバーとも久しぶりに再会し、前後約2週間、旧交を暖め、実に楽しくおいしく愉快な時間を過ごした。今思うと、ほとんど毎日宴会だらけだった。
 以下は、阪神淡路大震災をきっかけに始まり、今後どんなふうに展開するか、わたし自身、楽しみであるフランスと神戸のアーティストたちの交流と活動の中間リポートである。

●バール・フィリップス氏、地震後の神戸に単身、来る●

 アクト・コウベという言葉をわたしたちが最初に知ったのは、マルセイユ近郊に在住するコントラバス奏者、バール・フィリップス氏が、阪神淡路大震災直後の3月30日、マルセイユから神戸に一人やって来たときのことである。
 フィリップス氏たる人物が神戸市役所を訪れたい、といっているという連絡を彼の日本の友人から聞いたジーベックの下田展久氏、森信子氏、サックス奏者の松原臨氏とわたしは、彼の市役所訪問に同行することになった。
 ひょろりとして長身の、もう若くもないフィリップス氏は神戸市役所国際課の担当者に次のように申し出た。「神戸市と姉妹都市関係にあるマルセイユ近辺の音楽家、写真家、映像作家、現代美術アーティストたちが、阪神淡路大震災で被災したアーティストを支援しようという運動を始めた。4月には『アクト・コウベ』という催しを行い、そこでの収益金を送ろうと思うのだが、どこに送ればよいか」。
 市の担当者の返答は、おおよそ次のようなものであった。非常にありがたい申し出ではあるが、そのような特定の人々に対する義援金は前例がないので市として受け取る態勢にはなっていない、一般的な義援金であれば日本赤十字社の方に申し出てほしい、どうしてもアーティストへということであれば、ここに「神戸市文化団体名簿」があるので個々に当たってみてはどうか。
「神戸市文化団体名簿」というものをかくしてフィリップス氏は手渡されたわけだが、名簿はもちろん日本語で書かれているので彼は読むことはできない。
 この対応に当惑したフィリップス氏は、い合わせたわたしたちに「あなたがたのほうでベストと思う受け入れを考えて下さい」と言い残し、帰っていった。フランスやスイスのアーティストたちとの交流運動、アクト・コウベが始まったのは、こんな、いくぶん奇妙な、また印象深い神戸市との折衝がきっかけだったのである。
 その後、マルセイユのアクト・コウベ運動はスイスのベルン(「アクト・コウベ2」)にも飛び火し、ヨーロッパのふたつの都市からの義援金がわたしたちのもとに届くことになった。たまたま義援金受け入れの窓口になってしまったわたしたちは、その使い道をあれこれ考えた結果、関西の芸術家グループ「C.A.P. (代表=杉山知子氏)」の、プレゼンテーションを兼ねたアートパーティー「CAPARTY vol.1」に使ってもらうことにした。マルセイユとベルンから送られてきた義援金は、金額はそれほど多くはなかったが、このような形の海外からの連帯の意志表示は感動的だった。 ●神戸にも「アクト・コウベ」が飛び火したこと●  翌年、つまり1996年1月には「アクト・コウベ3」がジーベックで行われ、マルセイユとベルンで始まった運動の中心メンバーの4名を神戸に招待した。来神したのは、マルセイユからバール・フィリップス氏、アラン・ディオ氏、フェルディナン・リシャール氏、そしてベルンからハンス・バーグナー氏である。朝までほとんど出ずっぱりだったエネルギッシュなひょろり長身ベース奏者フィリップス氏、即興演奏を聞きながら緑と黒のペイントを使って舞台で絵を完成させたディオ氏、黙々とベースを演奏した精悍なリシャール氏、即興ヴァイオリンを披露した知的な表情のバーグナー氏は、他のアメリカや日本人のアーティストたちと混じり合い、それぞれの表現でわたしたちにアーティスティックな連帯を表現してくれた。
 彼らは、たまたま義援金受け入れ係になったわたしたちの自宅にホームステイした。
 我が家には、アラン・ディオ氏が10日間ほど滞在した。顔中ひげだらけでやさしい目をしたディオ氏は、日本語はもとより英語もまったく話さない。フランス語などほとんど分からない我が家にとっては困ったことになった。しかし、幸いディオ氏もわたしたちも酒好きだったので、身振りや絵を交えながらのもどかしげな会話はたいてい「酒、トレビアン。カンパイ」で完結するという楽しい毎日だった。
 この段階は、阪神淡路大震災の時に連帯の意思表示をしてくれたアーティストたちと直接会って一緒に遊んでみた、というものだった。ところが、実際に彼らに会ってみると、芸術家としてだけでなく、人間としても魅力的ですばらしい人たちだった。せっかくできた関係を今後も維持していこうという提案が彼らの方からも出、わたしたちも同じように考えた。こうして、わたしたちは、地震というネガティブな出来事から、アーティストによる国際的なネットワークという、新たな、ポジティブな関係を作っていこうという点で互いに確認しあったのである。その結果、翌年の97年2月にマルセイユにAKFが、6月に神戸でAKJがそれぞれ結成され、持続的な交流の場ができあがった。
 まず郵送できる作品の交換と、お互いの顔を知るという目的の写真プロジェクトを始めた。写真プロジェクトは、毎年1月17日と7月17日に、互いのメンバーが使い捨てカメラでそれぞれの日常を撮影し、未現像のまま交換し公開するというもの。マルセイユから送られてきた写真を初めてみたとき、わたしたちは「みんな、とんでもないリッチな環境だなあ」と、まるでペンパルの自己紹介を読むようなほほえましい興奮を感じたものだ。このプロジェクトによって、わたしたちは、96年に来日したフィリップス氏やディオ氏を始め、まだ会っていないフランスの会員たちの生活と表情をうかがい知ることができた。それぞれの写真や作品は、マルセイユと神戸で公開された。

「アクト・コウベ99」ワークの日々

 さて、アクト・コウベ運動はこのようにして継続されてきた。そのうち、日本側のメンバーのなかに、是非マルセイユにいってAKFの人たちと会ってみたいという気運が盛り上がった。そのことをフィリップス氏に伝えると「それは素晴らしいことだ。こちらも受け入れ態勢を準備するので是非に」と興奮気味に返事が来た。こうして、1999年1月14日から16日までの3日間、マルセイユのアルハンブラ劇場で「アクト・コウベ99」が開かれ、わたしたちもそれに参加することになったのである。
 この催しには、AKJのメンバー8名が参加した。「神戸アート・エイド」からの助成をいただいたほかは、全員自己負担である。
 渡航前、フィリップス氏からは、詳細な予定表が届いていた。それによると、第1陣到着予定の1月8日からは「異動する創造のアトリエ・・・ワーク」となっていた。そのためわたしたちは、フランス側の音楽家や画家たちと劇場公演のためのリハーサルが続くものとばかり思っていた。ところが、わたしたちが着いてみると、その「ワーク」なるものが一向に始まる気配がない。
 日程と行動をざっと紹介する。
 ●8日・・・ワイナリー見学、その後はサン・マキシマンにあるディオ氏(画家)宅で歓迎ディナー。
 ●9日・・・エックス・アン・プロヴァンスのピェール・ウーア(経済学者)宅で歓迎ランチの後セザンヌのアトリエ見学、夜はカディエール村でのフィリップス氏のライブ。
 ●10日・・・中世のお城を改造したフィリップス氏(コントラバス奏者)宅でランチ、ワイナリー見学、フィリップス宅に付属するチャペル(実際はチャペルにフィリップス氏宅が付属していると入ってもよい)での臨時セッションとディナー。
 ●11日・・・アルハンブラ劇場で記者会見、マルセイユ市姉妹都市担当助役へ笹山神戸市長の親書の手渡し、かつてはたばこ工場であった一大複合文化コミュニティー「ラ・フリシュ」の見学、神戸での「アクト・コウベ3」にも来日出演したフリシュの音楽ディレクター、フェルディナン・リシャール氏との会見、テレビ取材。
12日・・・マルセイユ市内の芸術学校訪問とパフォーマンス、ジュヌヴィエーヴ(AKF会員の振り付け師)のダンススタジオ見学、在マルセイユ日本総領事館主催歓迎会。
 ●13日・・・アルハンブラ劇場展示準備、レイモン・ボニ(ギタリスト)宅でのランチ。
 ●14日~16日・・・アルハンブラ劇場でのライブパフォーマンスと展示。
 ●17日・・・日仏アクト・コウベによる昼食会と会議。

 日程をみても分かるように、14日~16日の劇場公演以外は、日仏のメンバーが固まりになって移動して飲み食いと見物の日々なのである。もちろん途中で、自然発生的なにわかセッションなどはあったが、それも劇場公演に向けてのリハーサルというよりも、単にそれぞれが楽器などをもちよっての音遊びに近い。しかし、実はこのプロセスがAKFの提案する「異動する創造のアトリエ・・・ワーク」のねらいだったようだ。この「ワーク」によって、相互の人間関係が日を追うごとに加速度的に緊密になり、劇場公演での展示やセッションの独特の暖かい雰囲気につながった。もちろん、その間に大量のワインが消費されたことはいうまでもない。とにかく毎晩、遅くまで飲んで食べての日々である。「ワーク」のスケジュールは切れ目がなく忙しかった。
 アルハンブラ劇場でのライブパフォーマンスは、ほとんど即興演奏が中心だった。これは、バール・フィリップス氏をはじめAKFの音楽家たちにある程度共通した活動スタイルだったせいである。同時に、もともとこのアクト・コウベ運動が、特定の芸術的テーマからではなく、アーティストの連帯から始まったことと関係している。ステージは、クラシック演奏家、即興演奏家、インド音楽演奏家(わたし)、コンピュータ音楽家、現代音楽家、画家、ダンサー、サウンドアーティスト、紙芝居の人たちなどが混じり合って連日、深夜まで続いた。ひたすらAKFのメンバーと一緒に飲み食いし、しゃべりあい、音楽やパフォーマンスを楽しんできたのである。忙しくて買い物にも行けないほどなので、ほとんどの渡航メンバーはまったくお金を使っていない。実に楽しく、充実した、かつ安価なフランス旅行だった。
 このなんとも不思議な交流イベントは、地元でも話題になり、テレビ、ラジオ、新聞などで紹介された。マルセイユ市の姉妹都市担当助役ベルナール・ルシア氏、日仏議員連盟のフランス側代表であったイヴ・ルッセ・ルアール氏も劇場まで足を運ばれた。また、マルセイユの日本総領事館もわたしたちの活動を注目し、夕食会まで設けていただいた。

●アクト・コウベ2000、そして2001●

 フランスから帰国したわたしたちは、渡航メンバーの報告も兼ねた総会を2月にもった。総会では、今度はAKFのメンバーたちを神戸に招待してイベントを行なうことを全員一致で決めた。時期は、マルセイユと神戸の姉妹都市提携40周年にあたる2001年夏になる予定である。さて、どんなことをしようか、とメンバーたちが考え始めた矢先に、かねてから活動への助成申請をしていた国際交流基金から、なんと来年2000年の渡航と滞在費用を助成しましょうという願ってもない返事が届いた。ほとんどがビンボーアーティストであるAKJにすれば、とんでもない朗報である。このことをAKFのメンバーに伝えたところ、全員が興奮しているというメールが届いた。ということで、珍しく雪の降った日もあった南仏の熱い交歓がまた来年も実現しそうだ。今度はどんな「ワーク」になるのか、AKJのメンバーたちは今からわくわくしている。