マルセイユ滞在報告1999

 アクト・コウベ・フランス(以下AKF)主催による日仏交流イベント、ACTE KOBE 99が、マルセイユ市のアルハンブラ劇場で開催された。アクト・コウベ・ジャパン(以下AKJ)からは、石上和也、岩淵拓郎、川崎義博、小島剛、下田展久、角正之、中川博志、東野健一と取材に同行した神戸新聞の中西弘則が参加した。AKJ会員は、AKFのそれぞれの会員の自宅に分宿し、生活をともにすることでより深い関係が築かれた。
 3日間のアルハンブラ劇場での催し以外にも、前後のフランス側メンバー宅での親交パーティーやセッションなどによって、1995年1月17日の阪神淡路大地震を契機に生まれた日仏アーティストによる交流運動、アクト・コウベは、新しい展開の方向性が見えてきた。
 以下は、AKJ会員の渡仏から帰国までの行動を簡単に紹介した記録である。敬称略。

1月7日(木)

 AKJ渡航第一陣として、岩淵拓郎、東野健一、中川博志が、関空からKE722、KE901、AF7670便を乗り継いで、予定通り、現地時間9時35分にマルセイユ空港に到着。
 マルセイユの空港には、バール・フィリップス(以下バール、メガネ、スリム、長身、アメリカ生まれのコントラバス奏者)、アラン・ディオ(以下アランD、顔を覆うひげ、中肉中背、常にやさしい表情の画家)、矢吹誠(以下マコト、鼻ひげ、落ち着いた雰囲気の音楽家)、レオンス・ウーア(ピエール・ウーア夫人、以下レオンス)が出迎えに来ていた。「ヤッホー、ついに来たね」(バール)、「○▲■○△□**ヴォア・ラ。ハハハハ」(アラン)の第一声で出迎えられる。
 岩淵は、レオンスとともに、エックス・アン・プロヴァンスにあるウーア家へ。「ダンナのピエールや息子のオリビィエも自宅にいないのでわたしだけなのよ、フランス語しかダメだけど大丈夫よね」と、レオンス。結構な年齢なはずなのに、小柄なカワイイ少女のような雰囲気。
 東野と中川は、バールのルノーのバンにアランDとともに乗り、サン・マキシマンのアランD宅へ向かう。空港から約40分ほどで、アランD宅到着。バールは、われわれをおろしたのち、アランD宅からさらに30分の距離にある自宅へ戻る。
 アランD宅は、サン・マキシマン町のはずれの丘陵にある。未舗装の曲がりくねった狭い道を少し上った、木々に囲まれた閑静な場所にあった。東野と中川は、かつてアランの母親が住んでいたという、簡素な石造り平屋建ての離れに案内される。離れとはいってもシャワー、トイレの完備した完全な一戸建ての客用宿舎である。

1月8日(金)

 朝食後、アランDのアトリエに案内される。アトリエは、母屋から50メートルほど離れたところに建つ2階建て。このアトリエは、地滑りで半分壊れたが、アランDが自力で修理したという。一部2階建ての母屋も、ほとんど自分で建てた。
 アランDのさまざまな作品を見せてもらう。東野も、持参した絵画作品を披露する。完成するのに5ヶ月もかかるという鉛筆による作品、70年、80年代の作品など。
 しばらくすると、AKF会員のレイモン・ボニ(以下レイモン、口ひげ、メガネ、大柄でちょっと小太りの陽気なギタリスト)とリシャール・レアンドル(以下リシャール、スリムな体形の寡黙で繊細なコントラバス奏者)が来宅。さらに、レイモンの息子のバスティアン(20代のハンサムな青年コントラバス奏者)、ついで岩淵の寄宿先であるピエール・ウーア(以下ピエール)の息子オリヴィエ(メガネ、薄い短髪、映画俳優タランティーノに似た陽気な青年画家)が岩淵とともにやってくる。
 東野、中川、岩淵、リシャール、バスティアン、オリヴィエ、アランDは、レイモンの運転するトヨタのミニバスで、サン・マキシマンの街を経由し、ブドウ畑に囲まれたワイナリー、シャトー・クサン見学に向かう。
 セザンヌの絵画で有名なサン・ヴィクトワール山の岩塊を見上げるシャトー・クサンは、500年の歴史をもつ古いワイン醸造所。真っ青なプロバンス地方の空に、ベージュ色の石造りの建物が美しい。教会のようなタンク室の正面には日時計があった。われわれは、オーナーのシュメール一族の若い女性、ソフィーの案内でワイン醸造プロセスを見学した。日本にも輸出しているというここのワインの味は、上品で嫌みがない。この地方でワイン醸造が始まったのはギリシア人が移植した2500年前。このあたりは、かつてローマとバーバリアンの戦場であり、古い砦があったということ。流暢な英語のソフィー嬢の説明は分かりやすかった。シュメール家はこの場所の他にも二三カ所の醸造所、マルセイユにはホテル・レストランをもっているという。
 ワイナリー見学を終えてアラン宅に帰ると、エックス・アン・プロヴァンスの大学教授ピエール(側頭のみに短い髪のある落ち着いたスリムな紳士)、前日われわれを空港で出迎えてくれた奥さんのレオンス、その親戚にあたる大学助教授のパスカル・プレー(以下パスカルB、日本語に興味をもつ親しみやすい女史)がやってくる。アランDが是非紹介したいという、サン・マキシマンに長く住む田村さんという日本人女性や、近所の家にたまたま滞在していた建築家のアンリ・ロー(以下アンリR)、アラブ的風貌の女性マイラ、内装デザイナーのフランコも加わり、アラン宅の居間は多くの客でごった返す。
 居間では、レイモンがギター、バスティァンがコントラバスを弾きはじめ、それに中川の笛、バールやリシャールも加わり、なんとなくにわかセッションが始まる。さらに、フランス語訳テキスト朗読をアランDにしてもらいつつ東野が、薪の燃える暖炉の前でポトワ紙芝居を披露。
 AKJ歓迎食事会第1弾のメニューは、ラム・ステーキ、ラムの串焼き、サラダ、チーズ、大量のワイン。
 参加メンバーは、バール、アランD、ジェニーナ(アランDの奥さん、長身、近所の高校の教師)、レイモン、バスティァン、リシャール、オリヴィエ、ピェール、レオンス、マイラ、アンリR(遠視メガネのはにかみや)、フランコ(近所に住む小太りの内装デザイナー)、田村夫人、東野健一、岩淵拓郎、中川博志、11時に到着した角正之、下田展久。

1月9日(土)

 9時起床。快晴。コーヒーとパンの朝食をとっていると、アランDの息子のアレキサンダーがマルセイユからついた。牧歌的な表情のひょろっとしたアレキサンダーは、マルセイユの芸術学校に通う学生だ。
 ディオ家には、メーターの動かない古いプジョーがある。普段は、奥さんのジェニーナが通勤のために使っているが、この日は土曜日なので使える。しかし、アランDは運転ができないので、かわりにアレキサンダーに運転手として来てもらったようだ。彼自身は、「僕が生まれる前のモデルなんだ」という、これまた年代物のプジョーのクーペに乗ってマルセイユからやってきた。
 ところで、こんな風に書くと、ディオ家の人々といかにもすらすらとコミュニケーションがとれているようにに聞こえるかもしれない。しかし、ジェニーナが高校の教師であること、アレキサンダーが美術学校の学生であることなどが判明したのは、お互いに辞書を使いながらようやく分かったことだ。ディオ家の人々は、ほとんど英語を話さないので、わたしの超初歩的フランス語とジェニーナの超初歩的英語の組み合わせ、わずかな単語の断片をつなぎ合わせて類推するしかない。臨時同居人の東野さんは、最初から「僕は英語もフランス語もあかんねん。なっかがわさん、頼りにしてまっせ」と神戸弁一本槍で通している。だからコミュニケーションのスタイルは、われわれがディオ家を辞す最後まで変化がなかった。
「・・・・エコール・・・」とジェニーナ。エコールはたしか学校なはず。で、
「学校の先生ということですね」とわたしが英語で聞く。すると、彼女は、
「ダコー(そうそう)・・・・・ティーチャー、ティーチャー。エー(そして)、・・・・テン・ミニーツ・・・・、メー(しかし)・・・オージョルドゥウィー(今日)、ノ、ノー、アーングレ(英語で)トゥデイ・・・・オリデー・・・、セサ」
「あっそうかあ(日本語)。学校まで10分かかると。でも今日は土曜日だから休みだと」
「土曜日(サタデー)?・・・、OK、ディクショナリイー・・」と彼女は仏英辞書でサタデーを探し当て、
「ダコー、ダコー。トゥデー・イーズ・サタデー。トゥデー・イーズ・オリデー。はははははは、ダコー、ダコー」
 フランス語では語頭のHを発音しないので、ホリデーはオリデーになる。わたしの名前はずっとイロシになり、東野さんはイガシノである。もっとも、東野さんはKenichiと呼ばれていたが、彼らの発音では「ケニシー」になる。また、Rの発音は、どちらかというとガギグゲゴに近い。したがって、たとえばわたしの名前は「イゴシ」、岩淵君もタクローではなく「タクゴー」に近い。
さて、アランD、東野さんとわたしは、アレキサンダーの運転するプジョーで、エックス・アン・プロヴァンス(文字で書くとこうなるが、実際はエクサンプロヴァンスと呼ぶ。以下、エックス)のウーア家に向かった。
 エックスは、プロヴァンス地方の中心都市である。石造りのがっしりした中層の古い建物が立ち並ぶ。どの通りにも、灰色の太い幹がマロニエのびっしりと植えられている。今は冬なので葉をつけていないが、春になったら緑のトンネルになっているだろう。通りを歩く若い女性たちが美しい。アレキサンダーによれば、エックスは美人で有名なのだという。
 ウーア家のアパルトマンは、中心街からちょっと離れた坂道沿いにあった。ゆったりとした敷地に中層の近代的な建物は立ち並んでいる。われわれは、頑丈な鉄格子の門扉を開けて駐車場にクルマをとめ、一段低い建物に入る。
 螺旋状の広い階段を3階まで上るとウーア家のアパルトマンだ。レオンス、パスカルに迎えられたわれわれは、すっきりとして明るい部屋に案内された。南面のバルコニーから春のような陽気がさし込み、ぽかぽかと暖かい。しばらくすると、この家に寄宿している岩淵君が、ピエールとオリヴィエを伴って散歩から戻ってきた。
「いやあ、エックスの街を歩いている女の人はみんなきれいっすね。ぜーんぜん格好いいっすよ」と25歳のスキンヘッド岩淵君。
 ほどなくやってきたステファニー、ステファニーの妹のシルヴィエも加わり、われわれはシャンパン片手に歓談する。昨年の夏にオリヴィエと結婚したステファニーは、ブロンドの髪を後ろに束ねたきれいな女性弁護士。「オリヴィエのヨメハンって、むっちゃきれいなんすよ」といっていた人だ。妹のシルヴィエも楚々とした美人だ。姉妹に挟まれてソファに座った岩淵君は幸せそうだ。
 そうこうしているうちに、バール、下田、角、リシャールもやってきてディジョネ、つまりランチが始まる。アルザス出身のレオンスの手料理だった。小さめのパンの中に餃子の中身をいれたようなプチパテ、ソーセージとラディッシュとチーズの付け合わせ、レタスサラダ、ラ・キルシュ・ロレーヌ(パイのようなもの)、チーズ、クレンメルというアップルパイ、チョコレート、ブランデーつけのさくらんぼ。どれもみなおいしい。とくにプチパテの味が印象的だった。
 ランチの後、全員でセザンヌのアトリエに徒歩で向かう。セザンヌのアトリエは、坂のある通りに面している。石造りの総2階建ての、それほど大きな建物ではないが、密生した茂みのある前庭は相当に広い。2階のアトリエには、デッサンなどに使った頭蓋骨、容器、イーゼル、高い位置から絵を見るための梯子、油絵の道具類、服、ステッキ、写生に使った皮のリッュクザックなどが、そのまま展示してある。展示物の盗難や損傷が心配になるほど、まったくそのままである。ものものしい防護柵やガラスケースがないので、展示物が実にリアルに身近に感じられる。この日は、アラブ人のような顔の青年が英仏語で説明していた。
 アトリエ本館の左隣に、セザンヌの活動紹介ビデオを見せる平屋の建物があった。日本語バージョンもあるというので見せてもらった。画像の背景に妙にふわーっとしたBGMが流れて、いかにもNHK的作りだと思ったら、案の定、そうだった。フランス語バージョンはよりドキュメントに近かったので、その差はなんだろうかと思ってしまう。静止した画像には必ずふわふわ系音楽をつけるべし、という申し合わせがNHKにはあるにちがいない。「教養」という言葉が背後に隠れている。
 ここで、巨漢ボディガードのような体格でありながら、どこか気の弱そうな一面をのぞかせるコントラバス奏者クリスティアン・ブラズィエール(以下クリスティアン)、アクト・コウベのCD-ROMを作ったという画家のアラン・パパローン(以下アランP、この時点では分からなかったが、かなりユニークな厭世家であることが後に判明する)、しなやかな体つきの小丸顔ダンサー、ドミニク・ペレール、ドミニクと姉弟なのではないかと思うほど彼女とよく似たギター奏者のパスカル・ド・ローム(以下パスカルD、ドミニクの同居人)が合流した。
 セザンヌのアトリエ見学を終え、皆で移動となった。ところが、フランス人メンバーたちは、アトリエの門で固まってぐずぐす、門を出てぐずぐず、歩道を渡ってぐずぐず、と動きに機敏性がない。行動の区切りにくるといちいちぐずぐずとなる。このぐずぐず傾向は、後にも頻繁に観察された。これには、単に話しが好き、という以上の深遠な理由があるのかもしれない。また、行動計画も極めて大雑把な感じがする。ここでわたしは、南仏人グズグズオーザッパ説を組み立てる必要を感じるのであった。
 そのグズグズ団体を待ちきれないピエール、レオンス、パスカル、東野、中川は、ウーア家に戻って彼らを待つ。ようやく、バール、アランD、下田、角、岩淵、オリヴィエがやってきてお茶をご馳走になった後、下田、角、バール、岩淵はバール車でトゥーロンへ、アランD、アレキサンダー、東野、中川とでサンマキシマンに戻る。帰宅途中、ディオ家に近いシャンピオン・スーパーマーケットで室内履きを57フランで購入。帰宅は6時半だった。
 帰宅すると、かねてから調子の悪かったアランDのプジョーがダウンしてしまった。この日は、バールの出演する9時から始まるライブを一緒に見に行くことになっていた。そこでアランDとしては別の乗り物を用意しなければならない。そこで彼は宴会が進行中の隣家にクルマを借りに行くことに決めた。8時すぎ、われわれは、マイラ、アンリR、その友人たちで宴が盛り上がる居間を横切り、玄関横にとめてあったアンリRのクルマを借りて出発した。
バールのライブが行われたのは、トゥーロンに近いカルディエール村のライブハウス。人通りの絶えた数カ所の村を通過し、曲がりくねった細い道を猛スピードで走り、9時20分に到着した。45分でつくはずが、カルディエール村に入ってから道に迷い、1時間以上かかった。小高い丘全体がカルディエール村の集落になっている。入り組んだ細い石畳の道をいったり来たりしながら、ようやく会場を探し当てた。会場の外では、数人の中年男女が、寒さでふるえながらタバコを吹かしていた。
 AKFメンバーのアーティスト・写真家のどこかしら憂いを見せつつキョトン目マガリ・ラティ、リシャール、セザンヌのアトリエでも会ったドミニクとパスカルDもいた。会場横の「イモニ」のように見える看板は銀行か。そして、しばらくしてバール、下田、角もやってきた。たしか9時からバールは演奏することになっているのに。彼らは、われわれアランD組が空腹のまま猛スピードでやってきたというのに、なんとレストランで食事をしてきたのだという。ずるい。それにしても、寒い。それにしても、集まってきた人たちは寒い中よくタバコをすう。
 中にはいる。天井の高い、2階席のある長方形の会場だった。ちょっとインテリっぽいの中年の人たちが客層のようだ。50~60人ほどか。入場料は80フランとあった。われわれは招待ということで2階席に陣取る。
 ライブのタイトルは、jazz Azur。演奏者は、コントラバスのバール、アメリカ人ドラム奏者ボブ・グロッティ、そしてサキソフォンのミシェル・ドネダ。ジャズというタイトルだが、むしろ自由即興系の音楽だった。バールの表現は多彩だった。この人は表現の引き出しをたくさん持っている。背中の曲がりがちょっと年を感じさせるが、演奏そのものはシャープだ。ミシェルは循環呼吸を使ってサックスを吹く。旋律というよりも絶叫のような演奏だ。3曲演奏後休憩し、つぎにそれぞれのソロ演奏、最後に再びトリオの演奏。演奏中は、かなり眠く、ベンチの背板に頭を乗せてうつらうつらしていた。リシャールは簡単な舞台の左端最前列に座っている。アランDが「ちょっと眠いな、僕も」。岩淵君は「すごいっすね」と演奏に感心している。
 終わったのが12時前だった。ピエール宅の都合でアラン宅に泊まることになった岩淵君も一緒にサンマキシマンに戻った。クルマを返しに隣家にいくと、われわれのための食事が用意されていた。マイラの手になるゆで卵、ビート、レタス、茸のサラダ、ラムとじゃがいもの煮物。われわれを待っていたジェニーナも合流し、深夜の宴会が始まった。僕の隣は、山に住んでいるという夫婦、双子の娘息子がいる。ドイツ語と英語をちょっと話す奥さん。ダンナは橋の工事などの仕事。ちょっとふてくされた感じがあった。小太りのベロニカは、一見陽気だが、話の中心から外れると寂しそうな顔で料理をつつく。ガラス職人のダンナのセルジュが大きな声で話す。2人の息子たちと長男の友達、アンリ、マイラ。とにかくそれぞれに別なことをしゃべるので室内はかなりうるさかった。岩淵君はクルマに酔ったといって早めに寝てしまったようだ。2時半ころ食事が終わり、長い一日が終わった。